human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

原石の身体性について

ニコ動での曲との出会い方について書きます。

ニコニコ動画には、動画の注目度を示す3つの指標があります。
再生数、マイリスト数、コメント数です。
僕は曲を聴くので、マイリスト数/コメント数を見ています。
その比は同じでも、分子(マイリスト数)の大小には意味があります。

僕の印象では、分子が大きいことは以下の2つを意味します。
キャッチィであること、あるいは完成度が高いこと。
どちらも「万人受け」する要素として含まれると思います。
逆に言えば、異質な特徴と、何かの点での「下手さ」は聴き手を選ぶ。

音楽のプロはそもそも下手ではありえず、そして異質な特徴を昇華しています。
ある程度の万人受けする要素なくして、プロにはなれません。
そのようなプロでない、遠く離れたアマチュアの音楽が聴けるようになった。
ニコ動とボーカロイドの組み合わせがそれを実現したのです。


youtubeが典型的でしょうが、動画投稿から「出世」する人がいます。
新人のスカウトを街角でせずとも、「原石」はネットに数多転がっている。
探す手間が省け、あわよくば磨かずとも輝いているものもある。
という言い方は、このような状況に至る以前の視点による表現ですが。

ボーカロイドの曲を聴いて、歌いたいと思い、歌った動画を投稿する。
聴き方はいろいろありますが、僕は一つ「カラオケ」のように聴きます。
集まった皆が好き勝手に歌うだけで誰も聴いていない、ではありません。
ちょっと上手い人の歌に「おぉ」と感嘆し、静かに聴き入るようなイメージ。

この「ちょっと上手い」は、もちろんプロとは比較になりません。
けれど、自分の身近な集まりの中で、身近に感じられる光り方をしている。
もちろんこの「ちょっと上手い」が、万人受けするとは限らない。
けれどそれは、カラオケで現に聴く場においてはどうでもよいことです。


話が進まないので飛ばしますが、僕は「身近な」聴き方をします。
その歌が、声が、自分の何かに共鳴するかどうか。
そして「一人のひと」として、その人を想像できるかどうか。
後者はとくに、ボーカロイドの曲を「歌ってみた」曲の聴き方です。

僕は完成度の高さよりも、異質な特徴の方に「一人のひと」を感じます。
ある種の下手さ、粗削り、バランスの悪さ、音程やリズムの乱れ、等々。
もちろんそれらの中には、自分の許容できない、嫌悪すら抱くものもある。
ただ、嫌悪であれ好感であれ、僕が抱く対象の歌には「僕自身がいる」。


僕は昔から、プロよりもアマチュアの音楽に熱くなるところがありました。
吹奏楽では、スウェアリンジェンのCDより学生コンクールの生演奏が好きだった。
ジャズ研では、同じ演奏会でもプロより前座の学生ビッグバンドの演奏を好んだ。
プロの洗練に「冷静さ」を、アマの粗削りに「懸命さ」を感じていました。

とはいえ、実はどちらの方が好きかという話ではありません。
その時によってそれぞれ、どちらも聴きたくなる。
ただ、僕が言いたかったのは、話を戻せば、このことが嬉しいのだと。
自分と共鳴する(遠く離れた)アマチュアが身近になったことが。

個を維持しつつネットと付き合う術を模索しているのかもしれません。

今日の一曲

追憶の飛行船(うたってみた)
曲:田中B(原曲:http://www.nicovideo.jp/watch/sm22254546
絵:田中B
歌:ふじゆき