想像の種類について少し考えました。
それを「目の前にしたようにありありと思い浮かべる」という。
また、「具体的にはよくわからないけどこういう感じ」という想像がある。
臨場感と質感を並べた時に、
前者の想像に臨場感を、後者の想像に質感を当てはめられないか。
臨場感のあるところに質感もついてくる、とふつうは考えます。
けれど質感とは、もっと繊細なものなのではないかとも思います。
たとえば臨場感とは、質感が問題とならないほどに「迫ってくる感じ」といえる。
そして、表現するのが、特に視覚に表現するのが難しいのが質感である。
いつも静止画ばかり見ていて、動画をほとんど見ません。
静止画とは、ほぼマンガのことで、あとは本に載ってる写真などです。
テレビは大学生の頃から見なくなり、目が弱ってからネット動画もまず見ない。
そういう日常生活のなかで想像(力)について考えている、という前提です。
動画と臨場感、静止画と質感が繋がっているのでは、と思いました。
最初の比較と言葉が変わっていますが、こちらが思い付いた発端です。
そして、想像に重きを託されるのが臨場感ではなく質感の方だと。
ここでの臨場感というのは、臨場して(場に臨んで)いない場合のそれです。
例えば、草木や苔の質感を考えます。
草や木が風になびく。苔が水をたっぷり含ませて潤っている。
そのような様を、ビデオで再生して見た時と、描かれた絵として見た時の違い。
フェアな比較は静止画として写真なのでしょうが、ここでは絵です。
ビデオだと、風の強さは一目瞭然で、その湿度も映り込むかもしれない。
けれど絵に描くと、それらは明確ではなくなる。
絵描きの上手さにも因るだろうし、見る側の想像力にも左右される。
ここまで書いて気付きましたが、もちろんどちらにも質感があります。
あって、それが明確かそうでないかの違いがある。
明確であれば、その感じ方は受動的になる。
明確でなければ、質感を自分の想像によって構築しなければならない。
その感じ方を能動的と言っていいのだと思います。
思うに、視覚に限りませんが、明確だと想像する余地がない。
想像する内容が現実的か、実際にあるかどうかは、実は関係がない。
なんにせよ、想像するそれが今目の前にないことが、想像力のはたらく条件です。
だから身の回りにモノが溢れるほど、想像力が減衰するのは自然なことです。
けれど、モノに囲まれながらも想像を逞しくする「不自然」が生を賦活するのです。
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週末は窓辺で一日読書をしながら、ときおり空を眺めます。爺です。
2014/9/14