human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

不気味の谷について

ボーカロイドの話です。

アンドロイドの人間性を横軸に、親しみやすさを縦軸にグラフにすると、
人間性の向上と共に増していた親しみやすさが、一度極端に落ちくぼむ。
その下に凸の部分をたしか「不気味の谷」と呼ぶと認識しています。
ロボットが人間に似過ぎると気味が悪く感じる、ということです。

僕は学部生の頃に、石黒研のジェミノイドを間近で見たことがあります。
研究室見学かなにかで、部屋に並んだ三体のロボット。
石黒教授と、教授の娘と、某女性アナウンサーの三体。
動いていなければ、やけに質感のリアルな人形だなと思う程度。

それが、ちょっとした仕草を始めると途端に違和感におそわれる。
首をひねったり傾けたり、あるいは手の置き方を少し変えてみたり。
ただそんな仕草は、意識して見なければ自然に見えたりもする。
海外のカフェで「ジェミノイド・イシグロ」を座らせておいた動画をどこかで見た。

先日に朝日新聞の社会批評欄で教授のインタビュー記事を見て思い出したのだった。
研究の意図は「人間を知ること」にあると書いていた。
アンドロイドを人間に近づける研究も、その手段に過ぎない。
それはそうだろうな、と思いました。


ボーカロイドは、人間の肉声をサンプリングして作成されたソフトです。
上のグラフの話をすれば、横軸の数値をあえて落としたわけです。
不気味の谷を軽々とまたいで、故郷ロボットの国へ帰ったと。
だから、調声をしなければ一昔前の読み上げソフトみたいに聞こえる。

グラフのことを考えると、ボーカロイドを人に近づける凄さがよく分からなくなる。
「機械が人間性を獲得した」と言うなら、それは出来レースです。
そういう思いで聴いて感動できれば、それはそれでよいのですが。
僕の印象では、「谷の手前」、ロボットの側でボーカロイドは活きると思います。


話がふらふらしてますが、「きゃりーぱみゅぱみゅ」のことをこの前考えました。
夏前までブックオフの有線(の合間のラジオ?)で繰り返しかかっていた。
あれもたぶん「谷の手前」なんだろうなあ、と。
加工した声もそうだし、化粧も。

perfumeもそうで、中田ヤスタカ系の「ケロケロサウンド」がいつ流行り始めたか。
そんなことは知りませんが、僕はボーカロイドと似たものを感じました。
人間から、一部の人間性を除去した人間。
その人間性とはひとつ「生臭さ」で、その除去とはつまり「デオドラント」ですね。

それを抽象化の一種とみなしてもいいと思います。

話が進まないので最初に書こうと思ったことを書きます。
僕はある種の「ケロケロサウンド」がどうにも苦手です。
ボーカロイドは好きで、性質としてとても似ているのに、です。
でも実は、ボーカロイドの大手マスコミ的な流行り方も好きではない。

一言でいえば、自覚の問題です。
「谷の手前」というのは、本来は脳内の出来事です。
それを自覚するかしないかで、現実への表れ方が大きく変わります。
自覚がなければ、「脳内妄想が無秩序にだだ漏れ」になります。

話が(よくない方の)抽象的ですが…

今日の一曲

下の曲と、本記事の内容と全く関係がなくなってしまいました。
ボーカロイドの抽象性がどう活きるか、という話もしたかったんですが。
中途半端なのでぜひ続きを書きたいですね。
ちなみに動画の「講談社現代新書」タグは自分が付けたんですが…

え、見えますよね?

またあした
曲:ds_8
絵:?
声:滲音かこい