human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

「生活的エネルギィ保存則」について

2つ前の記事の、続きではなく派生です。

開発者と消費者の違いについて書き、その関係をもう少し考えていました。
ひとつは、「力学的エネルギィ保存則」に似た関係があるのでは、と。
高所にある物体は、位置が下がると速度を獲得する。
外力のない理想系では、位置エネルギィと運動エネルギィの和は常に一定となる。

開発した分だけ消費される、ではないのです。
新商品が有り余るほど出れば、文字通りそれらは有り余る。
「他者の欲への欲望」の刺激などは、上でいう「外力」ではないか。
摩擦や空気抵抗のような損失ではなく、系の外から加える意図的な「外力」。


開発というよりは、生産といった方が良さそうです。
けれどこれは、例えば工業性手工業のような「生身による生産」を指します。
境界の設定が面倒ですが、農業や漁業は当てはまり、機械による生産は外れる。
いや、人口がほとんど変わらなかった有史以前を基準にすればいいのか。

基準というのは、生産と消費が釣り合っている状態のことです。
あ、でも人口=消費が増えるのに合わせて、生産も増やしてきたのだったか。
それが、現代は生産>>消費が常態となっている。
廃棄も消費に含めれば、いかなる時代においても生産=消費になるのでしょうが。

生産<消費という状況は、生産したものを消費する以上はあり得ません。
現代の途上国の一部は、生産が必要な消費に足りていないのではない。
生産が足りなければそれに合わせて消費も減るというだけです。
生産と消費の関係は、人間の「身の丈」と関係があるように思います。

生産が消費を上回り始めた頃から、人間は自分の身の丈を超えるようになった。
元々厳密でない話ですが、その変化点は産業革命か、貨幣の登場か。
いや、「身の丈を超える」とはきっと、「脳(の中)で生きる」ことだ。
とすると、変化点は「意識の発生」(=動物からの分化、だったか?)だろうか。


とりとめがないので一旦切ります。
もうひとつは…というか、上の話の展開させ方を間違えました。
「保存則」を人類に拡大適用してしまったが、個人において考えてみたいのだった。
単純化して一言にすれば「開発(生産)するだけ消費しなくなる」のでは、と。

変な話に聞こえますが、物的なものではなく、志向性を考えています。
まずなんとなく「(身の丈の)生産をする人はあまり消費したがらない」と思った。
伝統工芸とか、古くからある技術の職人がその例えになるでしょうか。
一般人と言いにくいですが、それでも仕事と生き方の関係はどんな人にも見出せる。

もし、個人の中で「開発と消費の総量」が一定だとすれば、面白いことが言える。
開発と消費は、ある種の、同じ欲求を満たす行為なのではないか。
どちらも、追求する限りは決して満たされない欲求です。
そして身体による制御には忠実で、脳内では制御し切れず無限に膨張する点も同じ。


消費の過剰にばかり目を向けていると、バランスが悪いのかもしれない。
身の丈を超えた消費の前には必ず、身の丈を超えた生産があるからです。
そして身の丈があるはずのモノの過剰な生産は、身体の制御を離れることで起こる。
つまり、社会が「頭の中で考えているように」回っている、ということになります。

結論みたいなものが出てきましたが、これは何の結論なのだろう…?