human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

消費者性について

今日会社でふと、昨日書いた記事のことを思い出しました。
あれは誰の視点で書いた話なのだろう。
たぶん、消費者になり切りたくない消費者として書きました。
それが会社で違和感を覚えたのは「ものづくり」の視点でいるからでした。

研究開発の会社にいるので、立場としてはものを作る側です。
社会が求める技術を発明するために、人が何を欲しがるかを想像します。
けれど、自分がその提供「される」ものの消費者になり切ることはできません。
ものを提供「する」側は、ものが完成に至る過程に携わる宿命を帯びています。

 消費者とは、そういう人が確固としているのではなく、立場や性質を指す。
 人はある時に消費者性が前面に出て、消費者的に振る舞う、と考える。
 昨日の記事で「純粋な消費者は工夫をしない」と、僕は書きたかったはずです。
 表現の話ですが、消費者的にものを買い、非消費者的に工夫する、と言ってもいい。

話を戻しますが、開発者と消費者の間には、恐ろしく深い溝があるのだと思います。
マスコミや広告業は一般的には、消費者に近い側で両者を媒介すると考えられます。
が、ここでは彼らも開発者に近い側として考えてみます。
つまり彼らも開発者と同じく「消費者が消費する場面」を外から想像する立場にある。

 消費者とは、全く主観的という意味で幼児的な性質を持つ。
 モノを与えられて、使い方も教わり、言われた通りにする。
 幼児はひたすら模倣して行為を吸収することが成長に不可欠です。
 幼児の模倣は、その内に渦巻く変化のエネルギィを促進する。

 一方で消費者の幼児性には、不変の意志、あるいは変化に対する恐れが内在する。
 余計なことを考えず、予期せぬことを起こさないために、模倣する。
 結果が分かっていることを何度も再現し確認するために、模倣する。
 行為としては幼児的であっても、そのベクトルは幼児とは逆を指している。

 想像で書いていますが、「理想の消費者」とは「成長しない幼児」なのではないか。

話がすぐ逸れてしまいますが、連想することが沢山あるからだと思います。
開発者と消費者との間の澪は、自然な流れに従えばどんどん深まる一方に思える。
けれど、それは純粋な消費者が増える一方で、純粋な開発者はそれほど増えない。
他方で溝を深めるのは、「中途半端に消費者的な開発者」の増加による。

アクセス可能な情報量と彼らの「純度」の関係を考えれば分かります。
開発者の純潔は、ある隔離状況、つまり情報の遮断によって守られる。
一方で、豊富な選択肢を提供する情報量が増えるほど、消費者は純化する。
人が「過剰な消費者性」を抑えるには、どうすればよいか。

一つは「身体性の賦活」です。続きます…まとまる気が毛頭しませんが。