human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

贅沢について

贅沢は相対的なものなのだと、あらためて気付きました。

僕は食品を買う時に、グラム単価を計算する癖があります。
学生時代に「質より量」を熱心に実践していた名残りです。
肉に限らずドレッシングや菓子類にまでやるので執拗です。
今はさすがに安さの追求はしませんが、癖を直す気はない。

と言っても、「腹に入ればみな同じ」には、そうだよなあと思う。
最低限の栄養があればとは思って、それ以外には後味を気にする。
特にスーパーで食品を買う時は、「それを食べた後」を想像する。
惣菜コーナーで長時間立ち止まる男の内実はこのようなものです。

話を戻しまして、僕はリンゴだけは季節に関係なく食べています。
小さく味が薄く値段が高い夏でも、二日で一個の習慣は守ります。
それで¥198の小さな富士林檎を手に「一食¥100か」とふと思う。
そして、「これは贅沢かもしれないな」と思ったのが昨日のこと。

ただ僕の贅沢とは他の食品の「一食単価」と比較してのことです。
男前豆腐は¥33、梅しそ納豆は¥33、麦ご飯は…という一食単価。
そして最後に何となく/100gを計算すると、夏の富士林檎は高い。
けれど、りんごは習慣で、最初からこれは贅沢とは思っていない。


つまり「これは贅沢だな」という判断の中に外の価値観が含まれているのです。
…これを最初に書こうとしたのですが、上記の僕の贅沢の話は例外ですね。
自分の買い物の中での比較だから…いや、この言葉遣いの混同にも意味がある。
言いたかったのは、「贅沢(の価値観)が内面化するとめんどうなことになる」。

大袈裟に言えば、その人の価値基準が他人のそれになる、ということです。
しかもその他人はしばしば、具体的でない「世間(様)」の換言であったりする。
もしかすると、これは常識の濫用と関係があるかもしれません。
その人は、暗黙的な常識を、事あるごとに言挙げする。

前に常識について考えたことがありました。
常識の合理性が云々みたいな話だったと思います。
本記事(「贅沢について」)を書いていて、別のアプローチを思い付きました。
常識は明文化されると性質を変えるのではないか、と。

「それは常識でしょう」という指摘は、相手やその場での確認の意図があります。
言わないでも分かっているはずのことが伝わらず、ちょっと確認してみる。
相手は他のことに気を取られていたか、異なる文化で育った人間だったか。
本来は(本当は?)、行為を強制する意図を含んでいない。

と書いて、それは違うなとは思います。
慣習なり文化なりをちらつかせた「暗黙の強制」は昔いくらでもあったからです。
ただやはりポイントは、昔はそれが(基本は)「暗黙であった」ことにある。
その強制にも、本意でなくとか仕方なくといったニュアンスがあったはずです。

きっと「常識の合理性の強化」によって、その辺の「ためらい」が無くなった。


贅沢と常識は「贅沢─世間─常識」という繋がり方を、本記事ではしたようです。