human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

リアリティについて

一般に、ミニカープラモデルの車は、実物よりも幅が広げてあります(そのうえシャコタンになっています)。そうしないと本ものらしく見えないからです。縮尺のままでは実物らしくないわけですね。鉄道模型でもそういったデフォルメがあります。模型の設計者のセンスが問われる部分です。
 リアリティとはこのように、そのものの正確な縮尺だけで実現するものではない、という教訓でしょうか。作りものの話なのに、時代を設定し、実在する場所の実在する建物を使い、そこで事件を起こしたりします。(…)でも、そもそもが架空の世界なのではありませんか。不思議です。
「人は命の短さでしか時代を測れない。」(森博嗣ウェブ日記レプリカの使途』)

リアリティは、現実感とか生々しさとか、人によって表現が異なります。
僕は自分の実感を込めて表せば「現実感に対する感応度」かなと思います。
数学者の現実は数式の中にあり、解剖学者の現実は死体の中にある。
その人の職業や生活によって現実は様々にある、という認識での「現実感」です。

たんに「実際にありうる」意味でのリアリティなら、実証性と言い換えられる。
実証性の実証性(?)には文句のつけようもないので、これはみんなが理解できる。
けれど、一人ひとりが異なる「現実感に対する感応度」(リアリティ)はどうか。
厳密に言えば、一つのリアリティは、その人以外には理解しようがありません。

いや、ここで言うのは厳密な話ではありませんでした。
上に書いた「理解」は、「完全なる再現」と換言できる。
そうではなく、僕が注目するのは一つの現実に対する、「ある感応」の方です。
同じ一つものに、人と同じかは分からないけれど、何かを感じる。

よくわかんなくなったので、最初に書こうと思ったことに戻ります。


抜粋した文章を読んで、リアリティの感じ方は色々あるなと思ったのです。
小説を読む中で、何にリアリティを感じるのか。
実在の国や地域が舞台であることに、リアリティを感じる人もいるのでしょう。
ただそれだと、森氏の指摘から察するに、「小説の架空性」を活かせていない。


僕は数年前くらいから村上春樹氏の小説をとても好んで読んでいます。
全体的に乾いた文体に思えますが、どこか引き込まれるところがある。
翻訳小説と似て、細かいところをこちらの想像に委ねる雰囲気もある。
この「細かいところ」とは、例えば人物の口調と人柄の関係などです。

「〜に決まっているさ」「だって〜だもの」といった会話は、現実にはない。
正確に言えば、我々(これも言わんね)の日常における自然な会話ではない。
ではこのような会話が「自然に」なされる小説世界にリアリティはないのか?
もちろんそんなことはありません。

氏の小説の中の「食事と掃除の描写がいい」と内田樹が書いていた記憶があります。
食事も掃除も、人が生きるのに欠かせない、生活の基礎の部分です。
基礎がしっかりしていると、その全体にリアリティが生まれるのかもしれません。
そして、これは面白いなあと思うのです。


友人や会社の同僚に、なかなか支離滅裂な人がいるとします。
行動に規則性がほとんど感じられないし、会話もなんだか噛み合わない。
しかし彼は、食堂で昼食を、幸福そうな顔で、もの凄く美味しそうに食べるのです。
それはもう、こちらがその姿に思わず見入ってしまうほどに。

僕が彼の食事する姿に感応した時、彼を一人の人として認めることになる。
大袈裟な言い方ですが、つまりは、食事中の彼と普段の彼とが繋がるわけです。
自分とちぐはぐな会話をする彼と「あの感応」とは、無関係ではないのです。
ここから徐々に、彼の支離滅裂さが解きほぐされていくことになります。


ある部分にリアリティを感じることが、その全体のリアリティを生むことがある。
それは同時には起こらないにせよ、前者から後者に至る「流れ」ができる。
この流れにうまく乗れるかどうかは最初のリアリティの強度にかかっている。
そして小説(というより読書)においては、その強度とは作者に対する信頼なのです。

そして、この信頼は「作者の、我々読み手に対する信頼」と対になっています。