human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

引き算の感覚について(4)

ものを買う時にいつも、「最適な選択」を迫られている感じがします。
ある物が欲しくて陳列棚を眺めると、様々な種類の、値段のものがある。
基本的な機能は同じで、デザインが違う、多機能である、等々。
最初にあった「欲しい気持ち」を不用意に膨らまされた気分になります。

「これがあればあれができる」という想像が膨らむ楽しさはあります。
ただそれは既に必要性を超えて、「余」のつく領域に踏み込んでいる。
生活の余裕(ゆとり)をもたらすのか、単なる余計をもたらすのか。
想像上で余裕であったものが、実現過程で余計に変化することもある。

必要最低限を買えばいい、というストイック志向の顕れかもしれません。
が、僕自身の認識としてはそうではなく、節度の維持と考えています。
欲は追求するほど過剰になりますが、開放しなければ悪性の腫瘍になる。
消費者としてではない場面で欲を発散するのが、僕なりの節度です。


話を戻しまして、あるものの購入の際に、迷う選択肢が生じたとします。
より自分の生活を充実させるものがどちらか、自信をもって決められない。
判断に迷った時に、慣例に従うのも一案ではあります。
価値は値段と比例する、シンプル・イズ・ベスト、等々。

それらは経験上「はずれが少ない」のでしょうが、判断の放棄です。
もっと言えば、「選択の機会を認めた上での判断の放棄」です。
ありふれた日常を仰々しく表現して見えるかもしれません。
では僕自身はどういう対処をしているのか。

僕が選択に迷うのは、選択肢の各々の「道筋」に魅力を感じたからです。
どちらの方が、というより、どちらにもそれぞれ別種の魅力を感じる。
すると、その選択は、優劣の順位をつけるようなものではないと分かる。
つまり、選択肢は最初からなかった、ということになります。

このような状況は、たぶん「縁」といってよいのだと思います。
それを買った後の想像の中にある魅力が、それと僕とを結び付けている。
縁が同時に複数生じて、それがたまたま選べる状態にある、というだけ。
ごく簡単に言えば「どっちでも(なくても)いい」です。


あるいはこれは「選択の機会を認めた上での判断の保留」かもしれません。
その保留が解かれるのは、選択肢の全てを選んだ後のことになります。
スーパーでの買い物で例えれば、ジャムをどれにしよう、と迷った時に、
いちごジャムを買って使い切り、杏ジャムを買って使い切った後のこと。

僕はグラノーラのトッピングにジャムを入れるのでまあリアルな例なのですが、
この場合だと、最初に迷ってから保留が解かれるまでにとても時間がかかる。
そしてそこまでこだわりが強いわけでもないので、保留したことを忘れます。
これは結果的に、どっちでもよかった、という例ですね。

僕は買い物といってスーパー以外ではほとんどしません。
服も全然買わないのですが、服を買う選択についてはまた別の話になりそうです。
まあ、店を通りかかって欲しいなと思うことはありますが、まず買いません。
「次に来ても欲しいと覚えてたら買おう」と思って、覚えていたためしがない。


言いたかったのは、消費者的振る舞いに時間を介入させる効用についてです。
お金、消費、あるいは広告といったものと、時間(性)とは、相性が悪い。
これを話し始めると長くなりますが、これらは不変を好みます。
これらに必要を煽られた時、自分の中で時間が生きていれば、取り込まれない。

時間の中を生きる、つまり変化を許容できる状態が、余裕なのだと思います。