ものを買う時にいつも、「最適な選択」を迫られている感じがします。
ある物が欲しくて陳列棚を眺めると、様々な種類の、値段のものがある。
基本的な機能は同じで、デザインが違う、多機能である、等々。
最初にあった「欲しい気持ち」を不用意に膨らまされた気分になります。
「これがあればあれができる」という想像が膨らむ楽しさはあります。
ただそれは既に必要性を超えて、「余」のつく領域に踏み込んでいる。
生活の余裕(ゆとり)をもたらすのか、単なる余計をもたらすのか。
想像上で余裕であったものが、実現過程で余計に変化することもある。
必要最低限を買えばいい、というストイック志向の顕れかもしれません。
が、僕自身の認識としてはそうではなく、節度の維持と考えています。
欲は追求するほど過剰になりますが、開放しなければ悪性の腫瘍になる。
消費者としてではない場面で欲を発散するのが、僕なりの節度です。
話を戻しまして、あるものの購入の際に、迷う選択肢が生じたとします。
より自分の生活を充実させるものがどちらか、自信をもって決められない。
判断に迷った時に、慣例に従うのも一案ではあります。
価値は値段と比例する、シンプル・イズ・ベスト、等々。
それらは経験上「はずれが少ない」のでしょうが、判断の放棄です。
もっと言えば、「選択の機会を認めた上での判断の放棄」です。
ありふれた日常を仰々しく表現して見えるかもしれません。
では僕自身はどういう対処をしているのか。
僕が選択に迷うのは、選択肢の各々の「道筋」に魅力を感じたからです。
どちらの方が、というより、どちらにもそれぞれ別種の魅力を感じる。
すると、その選択は、優劣の順位をつけるようなものではないと分かる。
つまり、選択肢は最初からなかった、ということになります。
このような状況は、たぶん「縁」といってよいのだと思います。
それを買った後の想像の中にある魅力が、それと僕とを結び付けている。
縁が同時に複数生じて、それがたまたま選べる状態にある、というだけ。
ごく簡単に言えば「どっちでも(なくても)いい」です。
あるいはこれは「選択の機会を認めた上での判断の保留」かもしれません。
その保留が解かれるのは、選択肢の全てを選んだ後のことになります。
スーパーでの買い物で例えれば、ジャムをどれにしよう、と迷った時に、
いちごジャムを買って使い切り、杏ジャムを買って使い切った後のこと。
僕はグラノーラのトッピングにジャムを入れるのでまあリアルな例なのですが、
この場合だと、最初に迷ってから保留が解かれるまでにとても時間がかかる。
そしてそこまでこだわりが強いわけでもないので、保留したことを忘れます。
これは結果的に、どっちでもよかった、という例ですね。
僕は買い物といってスーパー以外ではほとんどしません。
服も全然買わないのですが、服を買う選択についてはまた別の話になりそうです。
まあ、店を通りかかって欲しいなと思うことはありますが、まず買いません。
「次に来ても欲しいと覚えてたら買おう」と思って、覚えていたためしがない。
言いたかったのは、消費者的振る舞いに時間を介入させる効用についてです。
お金、消費、あるいは広告といったものと、時間(性)とは、相性が悪い。
これを話し始めると長くなりますが、これらは不変を好みます。
これらに必要を煽られた時、自分の中で時間が生きていれば、取り込まれない。
時間の中を生きる、つまり変化を許容できる状態が、余裕なのだと思います。