human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

個を超える可能性について(1.8)

余った夏期休暇2日間の話です。

前記事で村上春樹氏の本を2日早く読み終えたことを書きました。
それで3日間ほぼ引き蘢っていましたので、昨日は反動で外出しました。
動きたい体に従い、一日中立つ(立ち読み)か歩く(二駅分往復)かしていました。
そのまた反動で、今日は部屋でまったり過ごしていました。

内田樹氏の出演するラジオをいくつか聴きました。
氏は極度のイラチらしく、テレビよりもラジオを好んでいるようです。
テレビは待ち時間がやたら長いが、ラジオは喋るだけ喋ってすぐ帰れるらしい。
今日見つけて聴いたのは以下の2つです。

MBSラジオ1179ポッドキャスト | 内田樹&名越康文の 辺境ラジオ
ゲスト:内田樹さん【音声】|ラジオ版 学問ノススメ|JFN Online

聴き手(共演者)によっていかにテンションが違うかが一目瞭然です。
もっとも、氏と名越康文先生とはかなり仲良しだというのもありますが。
それで上のリンクのラジオを聴いていて、名越先生の一言が耳に留まりました。
個人主義で考えると色々と矛盾が出てくるんだよね」と。

去年に韓国かどこかで、口蹄疫の影響で家畜が大量に殺処分された事件について、
命の大切さについて考えさせられる、みたいな話題の中での一言だったはず。
さっき聴いたところでもううろ覚えですが、この一言はタイトルの件に関連します。
つまり、自分の関心に思考が移ってしまった。言い訳ですが。

たとえば「個人ができる環境問題への貢献の究極は自殺だ」という論理も、
納得する価値観のベースに個人主義があるのだと思います。
本タイトルの最初の記事の抜粋の中の彼女が「一人で意味を引き受ける」のも同じ。
自分の頭で考えながら、個人主義という強固な枠を外さねば、と思いました。

個人主義は無意識に血肉化されるほど、今では常識となっています。
そしてそれは前に書いた常識の合理性の強化ともつながっています。
けれど、個人主義が合理で(例えば)共同体主義が非合理なんてことはない。
依拠する理が異なるだけです。

ただ、個人主義が確立する以前の共同体の価値観は、言葉として残らなかった。
だから個人主義の理と同じ言葉を使って、その価値観を理論化する。
あるいは、当時の価値観を反映した理論があれば、それを現代に翻訳する。
文化人類学の目指すところと似ているかもしれません。

その文化人類学の限界と同じ問題を、ここに見てよいと思います。
西洋の価値観で南米の原住民を讃えても、自文化中心主義を免れるわけではない。
つまり、個人主義の言葉を用いて、個人主義を超える論理が導けるのか、と。
そこから論理の超越(例えば宗教)に縋り付くのは、やはり短絡だと僕は思います。

論理を構成する言葉そのものを変える具体的なイメージは思い付きません。
語り口(エクリチュール)の問題なのかもしれません。
これもイメージは浮かびませんが、保坂和志氏がエッセイで書いていた、
量子力学をそのまま語れる言葉」がその一例なのかもしれません。

何が言いたかったのでしょうか。次こそは(1)の続きを書こうと思います。