human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

変化のこと(1)-フラクタル・マトリョシカ-

気がつけば変わっていたこと。

指の荒れが治りかけています。
右手の親指と中指と薬指の先が、ひび割れていた。
薬品荒れと思い、ある期間軟膏を塗ったが治らなかったので放置していた。
発症した理由も定かでなくなり、回復した理由も分からない。

イヤホンの音量に違和感がなくなりました。
台所に立つ時に聴く音量を、ある時から半分近く下げた。
たしか原因の分からない風邪をひいて、それが治った時だった記憶がある。
最初は小さいなと思い、日が経ち、今日ふと「ふつうだな」と感じた。

夕食の時間が前に延びました。
以前はお盆におかずを並べてテーブルに運んでから「いただきます」だった。
それが、台所で作りながら食べ始め、「いただきます」と言っている。
おかずも米も小さな変化を繰り返しており、そのどこかでこうなったのか。


「変わっている」と思って、変わっていない時があります。
「変わっていない」と思って、変わっている時があります。
どちらも認識違いかと言えばそうではありません。
どちらにせよ、そう「思う」ことも、変化の認識を変えます。

変わり続けることを意識する。
その意識は、変化の逐次認識とイコールではありません。
過去と現在の比較、その間隔を狭めるほど、変化は小さくなる。
微分値が一定になるのは一次関数においてのみで、ふつうは次数が一つ下がる。

高次関数の次数が下がると、曲線のうねりは単純になる。
「間隔を狭める」とは、曲線を細分化して直線に近づけることでもある。
そしてその直線を微分すれば、定数がぽろりと出てくる。
変化の逐次認識とは、この定数を帳簿に記録していくようなものでしょう。

では、変化を追う認識主体の変化は、どういう喩えになるでしょうか。
帳簿に記録した値が時々何食わぬ顔で入れ替わっている?
帳簿がいつの間にか計算ドリルと化している?
もしかすると自分は生まれる前から帳簿をつけていたのかもしれない?

例えば、帳簿でさえ意味の終端でなくなることが、変化です。