human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

ポモの魅惑と陥穽について

「メタ」レベルとは、他のあらゆるレベルを対象に変え、したがって下位のものに変容させるレベルである。メタレベルに接近する者は、みずからも文化の「大きな主体」に変容する。(…)人間の才能の表出を全方位的にコード化することによって、コード化が許容する一方から他方への翻訳や移行をもって、上流のコード解読者は作者の作者、二乗された創作者となるのである。(…)このような突出した姿勢がラカンにもたらした社会的な奇術の効果は、よく知られているところである。
レジス・ドブレ『メディオロジー宣言』

物事の枠組みを語れることは、その枠組みの創作者と肩を並べることになる。
その枠組みを限界まで押し拡げれば、それを語る者は神の代理者となる。
この価値観の下地には、天地の創造主がいるという前提があります。
ポストモダンを批判するのは、当然ながらポストモダンではありません。

ポストモダンは、プラグマティズムと同じく、思想というより生き方です。
それを思想とみなす、もっと言えばツールとみなすと、不完全なものになる。
「全てを知った(ように見える)人間」には、二種類います。
頭が空っぽでスカスカな人間か、頭が空虚で闇に満たされた人間です。

「何でも語れること」の魅惑は、「何でも語れること」そのものにある。
「何でも語れること」の陥穽も、「何でも語れること」そのものにある。
このどちらに転ぶかは、ポストモダンがその人にとって何なのかで決まる。
…と書こうと思いましたが、それは違うような気がします。

ツールとしてのポストモダンには、魅惑と陥穽がもれなくセットで付いてくる。
文字通り、完成は陥穽と完全一致するのです。
生き方としてのポストモダンには、そのどちらもありません。
ただ、空っぽなだけです。

頭が空っぽの時にこそ、身体は躍動するということです。