human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

「引き算」の感覚について(3)

今回は、不安という面から病気について考えてみます。

ふつう、病気になったら、それを治そうとします。
風邪をひけば薬局の薬を飲み、心配があれば医者にみてもらう。
病気でなくとも、筋肉痛な湿布、擦り傷なら消毒と絆創膏、などなど。
病気を放っておくのは、主に面倒臭いからです。

しかしその面倒臭さを後押しするのは、不安のなさです。
軽症であれば、または自然に治った経験があれば病気を放置する不安はない。
逆に、症状が重くなる、別の病気を併発する不安があれば対策をせねばと思う。
つまり病気を治すかどうかは、不安の有無が決めるのです。

ところで、「健康過ぎて病気の一つもないのが悩みだ」という冗談があります。
入院してみんなに心配されている同僚を多少妬んで言われたりします。
これが冗談なのは「健康第一」と言うほど健康が良きものとされているからですが、
それは命の大切さと同じように、「一見疑いようがない」だけです。

僕は、この冗談は冗談だと思っていません。
自分が健康か不健康かは、もちろん自分の体が感じることですが、
自分が健康か不健康か、どちらであるべきかは、自分のいる場所が決めることです。
例えば、不健康を要請する職場がある、ということです。

要請と言っても当然ながら公にされることはありません。
不健康でいた方が、体は辛いが精神は安定するという場合があります。
また、ホワイトカラーと呼ばれる職業では、社員が使うのは体ではなく精神です。
多少は不健康でも、健全に仕事ができればいいと考えるのは自然です。

ここでの「引き算の感覚」とは、職業に伴う不健康を受け入れることです。
不健康は即物的な不安を引き起こします。
自分の体に現に症状が出ていれば、意識せずにはいられません。
こうして不安を即物的な対象に発揮することで、余分な不安が抑制されます。

マゾヒスティックな話に聞こえますが、そう大層なものではありません。
一日中デスクワークの職業なら肩こりもしょうがないよね、という程度のことです。
ただ、肩こりに慣れて感じなくなるのが良いとは思いません。
それは不健康が潜在的になること、すなわち即物的な不安が消えることだからです。

「引き算」が何なのか、いまいち話が分かりにくいかもしれません。
こういう場合は逆を、つまり「足し算」が何かを考えればよい。
今回の話でいえば、不安に対して別のところから解決策を持ってくることです。
例えば肩こりには湿布を貼る、整体で診てもらう、ジムに通う、等々。

…たぶん上の話は「引き算」ではなく「演算なし」の話になっていますね。
不安をシンプルにとらえるという姿勢はどちらも同じではありますが。
要点は「問題の構成要素を増やさない」「経過観察の時間をとる」の二点です。
どちらも、目の前の不安に対して、落ち着いて待っていられることが前提です。

この「待っていられること」は、不安で回る消費社会では無価値とされています。