human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

象徴について

一つの体系は、体系内の諸要素だけで閉じることはできない。よってある場が閉じることができるのは、逆説的にその場が、自分にとって外部の要素に開かれる場合のみなのである。外部の要素とは、(…)集団にとっての聖なるもの、定点、集団の基礎をなす空隙である。すなわち、始めに失われており、集団としてみずからを再構築するために絶えず象徴的に与えなおさなくてはならないものなのだ。
(…)
象徴の媒介機能が、カテゴリー的、歴史横断的であり、集団組織の超越論的条件としての不完全性の定理に根づいているとするならば、そうした機能の制度的機構は、一時的かつ特殊で、順次変化していくものとなる。
レジス・ドブレ『メディオロジー宣言』

「外部の要素」として、上で引用した本では以下の例が挙げられています。
曰く、創始者としての英雄、起源の神話、聖書、憲法、神との契約、などなど。

科学技術が発達するほど、これらの実質的な機能が衰退しているように思われます。
それは「外部の要素」が知の内部に包含されたからではなく、
拡大された知の外縁に、新たな「外部の要素」が想定されることを意味します。

象徴など曖昧なものは要らないと断言した時、
象徴は消えてなくなるのではなく、より曖昧になります。
「神は細部に宿る」のは、神が見るのは内容ではなく形式だからです。
あるいは、具体ではなく抽象だからです。

 ところで、人と「会う」とは、どういうことなのか、とときどき考えます。人と会うと、その人の「抽象」を見られる気がします。具体的なものではなくて、です。どうも、日記やメールばかりで人を見ていると、具体的過ぎる傾向があるのです。「具体的な方が良い」と普通は思うかもしれませんが、それは少し違います。人間が人間を見るとき、最も働くのは「抽象的」な目なのですね。どこかの数学者がこう言ったそうです。「もう少しわかりやすく抽象的に説明して下さい」
森博嗣ウェブ日記レプリカの使途
(太字はママ)

「具体的な象徴」などというものはありません。