human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

モジュール化と「無知の無知」(後)

前回の続きです。
残りは結論だけ。

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ルーマンの引用箇所を何度も読み返しながら考えたのは、

 社会進化における機能的分化(つまり専門分化)=モジュール化

ということでした。

つまり、専門分野に特化して生計を立てる専門家とは、
車の製造工程におけるモジュール(部品群)のようなものである。

そして、これは前半に書いた内容ですが、
「拒否」だけでなく「適合」もが「分化の強化となる」こと、
に何か意味がありそうだと立ち止まった自分が得た認識は、
 上記の「専門家=モジュール」という等式が、
 生易しい良い所取りのメタファーではなく、
 システム論的視点でみれば全きイコールである、
ということでした。


何が言いたいかというと…
前回、モジュールについてこう書きました。

 モジュールの役割は、モジュール自体の価値の追求ではなく、
 そのモジュールを含んだ全体であるシステムへの貢献にある。

モジュールを専門家に置き換えてみます。

「専門家が自分の専門性を追求する目的は、社会全体への貢献にある」

何か理想論に聞こえますが、まっとうな表現です。

そしてしかし、専門家の目的は自身が生活していくことにあります。
その自身の生活を顧みないプロのことを「専門バカ」と呼んだりします。
いや、違うな、自分の専門以外の事柄を知らない、無頓着な人のことですね。

僕は大学院時代、この「専門バカ」のバカっぷりに高濃度かつ単独で曝露して、
つまり研究生活の他を圧倒するネガティブ面に嫌気がさして見切りを付けたのですが、
モジュールの役割として考えれば、「専門バカ」こそが正しく理想的なのです。

言い方を換えれば、
システムがモジュール的な人間を要求するし、
人間はその要求に応える(適応する)ことができる。

その要求が人間性(つまり統合性)の毀損をも求めるのだとしても。

 × × ×

というここまでは、言葉を変えてこれまで何度も書いてきましたが、
このトピックについて「無知の無知」というキーワードを閃いたのが本記事の収穫です。

ソクラテスの言葉で有名な「無知の知」は、
「自分は何を知らないのかを知っている」
ということです。

未知に対する探求、知的活動がここから始まるという意味で、
また、自分の知識量に関わらず謙虚でいられるという意味で、
(「わかることが増えるほどわからないことも増える」ことが分かるから)
無知の知」は知性を賦活するうえでベースの姿勢となります。


これと真逆の立場が「無知の無知」です。

「自分は何を知らないのかを知らない(し興味もない)」

この態度は(義務教育に限らず)何かを学ぶ人間としては致命的です。
そして、機能的分化を推進し続ける社会はこのような人間を要求します。
(つまり、現代社会では「無知の無知」実践者のほうが居心地良く生きやすい)
ここに「教育の段階有無に関わらず」という但し書きが付くのですが、
高度消費社会で生後の人間が消費主体になるタイミングを考えればいい。


人間が動物と違うのは「本能に抗うことのできる意識」を持つ点で、
自殺は究極の反本能的活動という意味では、意識の尊厳を追求する極北でもある。

意識は動物的本能に抗えるし、従うこともできる。
僕は、人間性とは「本能との調和」のことだと考えています。


上で「専門バカ」について触れましたが、
本来は常識や異分野の知識の欠如を意味するわけですが、
「本能との調和」がシステムの要求によって崩され続けていく将来、
自身の生活や生命維持に無関心な人間もそこに含まれてくるでしょう。
自分が関心を持たずとも、システムが配慮し手配してくれるからです。


伊藤計劃SF小説『<harmony/>』にあった、
「思考のアウトソーシングという印象的な表現をふと思い出しました。


また、今読んでいる『ニュークリア・エイジ』(ティム・オブライエン)には、

「想像したことはすべて実現するんだ」

という妄想癖の主人公ウィリアムの意志が書かれていましたが、
それは将来の夢の実現や先端科学技術の発展などのポジティブな面だけでなく、
ディストピアの到来という誰も望まない未来すら引き寄せうる。

 意識の自己破壊性は崇高ですらあるという矛盾も人間性の一部である、
 そしてこのことを忘れた人間の元に、それとは別の形で回帰してくる。

なんだかフロイトのような話になりました。

 × × ×

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モジュール化と「無知の無知」(前)

 

進化は、同時に他のシステムにとっての環境世界でもあるような変動するシステムによって、他のシステムに適合あるいは拒否を強いながら、展開していくのである。このことは変化する環境世界の内側における、変動する構造と変動せずに維持される構造ということになろう──どちらも、分化の強化となるのである。社会進化のこうした圧力のもと、構造的分化は、機能的特定化を強化し、伸張する。そして、その結果が、社会全体の機能的分化であり、われわれがよく知っている社会の近代のタイプということである。

「第七章 社会、意味、宗教」
太字は引用傍点部

ニクラス・ルーマン『自己言及性について』

当たり前のことを小難しく言い回しているような部分。
でも、敢えてその言い方をする意味があるような気がして立ち止まる。

一文目と二文目の対応関係はたぶんこうです。

 「適合」─「変動する構造」
 「拒否」─「変動せずに維持される構造」

この両者が「どちらも分化の強化となる」という、
この一点に最初は「うん?」と思いました。

冒頭の「進化」の主語はたぶん社会で、
社会の進化における諸システム同士の変化の様態が記述されている部分です。

例えば、科学技術システムが進歩すれば教育システムも変わらざるをえない。
 学習設備は(教科書→タブレット端末)変えよう(=「適合」)、
 でも義務教育の階層制度(小中高)は据え置きで(=「拒否」)、
というような。

言葉の見かけとして、分化に寄与するのは「拒否」だけではないか?
と思い、だがそうではないのなら、「分化」の意味を改めて考える必要がある。

「分化」は、独立化とか、自立(自律)化とは違う。
社会における「分化」の好例として(学問等の)専門分化がすぐ思いつきますが、
学問分野が細分化するにつれ個々の分野が独立していく、ことは意味しない。

オートポイエーシスシステムの要諦は、システム内部と外部環境の関係にある。
 システム内部で新陳代謝が完結していること、及び、
 システムには情報をやりとりする外部環境が必ず存在すること。
言葉の使い方が若干怪しいですが、システムは存立基盤に矛盾があることは確か。


話を戻すと、「分化」を言い直せば「モジュール化」ではないかと思いました。
システム内の要素配置における、機動性や連携の有機性を考慮した部品群のこと。
これまた記憶が曖昧ですが、大学で最適設計工学を学んだ時に覚えた用語です。

モジュールの役割は、モジュール自体の価値の追求ではなく、
そのモジュールを含んだ全体であるシステムへの貢献にある。

モジュール設計は、例えば車の製造工程を考えると、
どの部品をひとまとめに(例えば工場の一ラインで)組み立てれば効率的か、
という価値基準(これを目的関数と呼ぶ)をまず設定し、
目的関数(たとえば製造コストと工程日数)が最小化するように部品群を決定する。
あるいは、組み立て順序や工場内のライン配置を決定する。

ある部品(やその組み合わせ)は変えた方がいい場合もあるし、
他を変更してもこの組み立て工程は最初から固定した方がいい場合もある。

話を戻せば、この前者が「適合」、後者が「拒否」にあたるわけですが、
この両者を駆使して達成されるのが、工程システムにおける「モジュール化」です。


「無知の無知」の話にたどり着きませんでした。
後半に続きます。
 

21日目:岩不動の「役者住職」 2017.3.21

 

<21日目> 仏坂不動尊→宿(一福旅館) 16km

(1)チャリおじさん
「なずな」を出て近くの海沿いを少し離れた〇〇〇〇[判読不能]の前で杖を2本チャリにのせたおじいさんと話をする。「チャンバラ貝」が須崎の珍味だとか(今日街で聞くの忘れた…)。

海というか、湾が見渡せる開けた道から少し内陸に入り、アップダウンのある森のこんもりした道で出会ったのを覚えています。

(2)彫り師のおじさん
 海沿いの山道の分岐過ぎで後ろからきたおじさんとしばらく同道する。10年サラリーマンやって、26の時に両親が死んで「人っていつか死ぬんだ」と思って(「こんなことやってる場合じゃない」?)、会社を辞めて[彫り師に]弟子入りしたそうな。[彫り師の仕事は]暇が作れるので時々長期で出られる。寝袋・テントをかついで野宿スタイル(宿を決めないで自由に歩きたい)。おにぎりをくれ、お札交換をした。一本歯の歯の木を見て「これはホオ[朴]ですね」と。さすが彫り士[ママ]。道路は基本かまぼこ型なので、靴の減りを偏らさないよう両側に均等に分けて歩く、と教えてくれた。ちょうど少し前に歯の減りと「徳島カーブ」「高知カーブ」の方向[←道路の曲がる方向の偏りのことと思われる]と相関を思いついたところだったので、この話と合わせて問題解決(謎の解決&対処法アリ)。短い間にしろ非常にお世話になりました。

頭にバンダナを巻いた、野性味あふれる人でした。
一本歯の「歯の減り」は死活問題で、この翌日(22日目)になかなか衝撃的な写真を撮っています。
次の記事をお楽しみに。

(3)岩不動にて
 本尊の不動明王にお参りして道を下ると、休憩所っぽいところにいたおじいさんが手招きしているので中へ。近所の百姓だというが茶飲み話に付合ううち、だんだん説法になる。後の方で「実は[私は]ここの住職」と明かされるまで全く気付かず(やけに目がランラン[爛々]としていると思ったが、こんな「近所の人」がいても面白いと思ったか。「住職が京都へ行くのにもついていった」という話が、今考えると妙だなと分るのだが…)、有難い話を延々3時間強[聞かされる]。パワースポット岩不動の話、インドへ修業に行った若い女性へんろさんの話、空海の生い立ちの話(修業に最初は失敗したとか、開眼してからもスゴイ格好で民衆に石を投げられたとか)、神に仕える生き方の話、ここでの修業とここにくる色々な人々の話、霊感ではない神通力の話、等々。もし修業したくなったらまたここに来ようと思う。一泊はとめてくれるらしいし、滞在するなら須崎市に逗留すればよい。「仏になる方法」を教えてくれるらしい…! 自分が何をすればよいか分からなくなったら、あるいは「引き寄せられるもの」を感じたら。普通に働いていて、月一で東京から来る人もいるそう。

この住職のインパクトは強烈でした。

四国遍路という旅は日常生活から振り返れば非日常に感じられますが、遍路の、特に通しの歩き遍路は期間が長く(平均40日間)、歩みの遅い一本歯での歩き遍路はまたさらに長期にわたり(実績58日間)、旅の過程ではそれ自体が日常と化すわけですが、そのような「非日常の日常」の中にあって、コンロ・やかんのある台所や茶器のしまわれた棚など生活感漂う休憩所(造りを別にすれば「草庵」と呼んでもよいでしょう)での住職とのやりとりは、どこか別の時代か、過去にどこかで分岐した平行世界の現代日本のような、「非日常の非日常」を感じさせるものでした(それはどこまでも異次元の感覚だったか、あるいは、「マイナスのマイナスはプラス」の如く、こちらの構えをことごとく解きほぐすほどしっくりし過ぎたひとときであったか)。

帰ってから復元できると思って、日記にはトピックだけ羅列してありますが、時間が経ってしまった今となってはその詳細は思い出せません(そもそも、一日中歩き通して宿に着いて夕食をたらふく食べてお風呂or温泉でまったり(ぐったり)してから寝るまでの間のひとときに日記を書くので、詳細を書く体力が残っていませんでした。執筆が翌日の朝や道中に繰り越されることも度々ありました)。
それでも、住職を通して仏教のもつパワーをありありと感じたのは覚えています。
幸か不幸か、ここから四年後の今まで「自分が何をすればよいか分からなくなった」りはせず、むしろ生活の中に修業を見出す方向性が見えたりして、当時生まれた縁が、復縁とはならずとも新たな縁のきっかけとなったようでもあります。

人間には人知で測れない(つまり未だ科学の未解明な)潜在能力があって、「宗教は信じたもの勝ち」でもあって、このどちらも認識自体はまっとうなものであって、けれど縁の力は偉大ではあれ、宗教への目覚めはやはり本人次第であるのだと思います。

所感:
 今日はとても濃かった。いろんな人に会えるのが興味深い。「とにかく沢山縁を結ぶこと」という住職のことばは大切にしよう。人混みはイヤ。だから帰ってからのことはまた別として(それくらい[←僕くらい? 当時は31でした]の年になると「自分がどういう生き方をすべきか」は自分の中に確立している、と言っていた)、この遍路歩きでは生まれた縁は大事にしよう。そのために時間の制限がないのだから。

「人混みはイヤ」、昔も今も変わらぬ本音ですね。
この遍路旅に出る前は精神的に弱っていたこともあり、日記の中でも時々ぽろりとネガティブな発言が出てきます。

「歩きたいから歩き遍路に行くんだ」と、何かしら願掛けをする多くのお遍路さんとは一線を画す意識を当時の僕は持っていたのですが、振り返ってみれば、というか他人事として見れば、あれは「心の回復の旅」でもあったように思います。
 

「不安がもはやタブーとならず、公共の問題となった」

 価値の領域で、時間地平の「状況の定義」への還元が、包括的な価値変化として観察されたもの──ある部分では、非常に誤解を引き起こしやすい「ポスト唯物論者」というような用語──と一致する。(…)とりわけ、他者あるいはすべてのひとに対する怖れや関心という形式のなかで、不安がもはやタブーとならず、公共の問題となった。たとえば、この時代は「仮面を剥がれた不安の時代」とさえ性格づけられたのである。

「第六章 現代社会の自己記述におけるトートロジーとパラドクス」p.128-129
ニクラス・ルーマン『自己言及性について』

いきなりなんだ、と思われそうですが、続けて抜粋します。

公共の問題として、不安はア・プリオリなるものの代用品となるまでに発展する。すなわち、不安は議論されず、論破されず、また矯正されることもない。つねに、コミュニケーションのなかに確かなるものとして現れるのである。心配を表明しているひとに、「まちがっているのは君だ」と応答することは不可能である。それゆえ、不安は、そのように扱われるにたるものであり、また敬意をあるいはすくなくとも寛容をつくりだす。これは、コミュニケーション不可能なものについて意見の不一致を生み出し、「新しい価値」に的を絞っていくこととして役立つ。

同上 p.129

本書は日々牛歩の如くちびちび読み、
反芻ライクに進みつ戻りつの悪戦苦闘中なのですが、
そうして日をあけて二度三度読むと何らかの意味が浮かんでくる、
正しいとは限らないがそのような経験が刺激になって更に遅々となる。

和訳に問題がある、とこれまで数え切れないくらい思って、
でもそれを悪態ではなく前提として想像力を駆使するわけです。
訳された単語(群)から原文を想像し、さらにその原文の訳出可能性を探る、
なんてことはせず、要するに文脈を意識して訳語から連想する。

と言いつつそもそもちゃんと読解できているかすら怪しいために、
その文脈というのは端的に僕がこれまで読んできて抱いたイメージです。
はなから正しい読解なんざ目指しちゃいません。
以上、言い訳と愚痴のアモルファスでした。

この1週間で抜粋箇所を三度読み直し、何かが見えてきたのでした。
何か、とても恐ろしいものが。

以下、抜粋部分には「」をつけて書きます。

 × × ×

「価値の領域」における「時間地平の『状況の定義』への還元」

これは本ブログで何度も書いてきた、無時間モデルの主流化のことだと思います。
株式会社的・四半期決算的な時間幅が未来思考のベースになっていること。
時が経てば解決すると思うのは怠慢であり、
未来のゴールまでの道筋を現時点で描き切ることを良しとすること。
様々な価値観の変化には、この無時間モデルへの信奉(服従)が伏流している、と。

「不安がもはやタブーとならず、公共の問題となった」
「不安はア・プリオリなるものの代用品となるまでに発展する」

もはや、不安はア・プリオリな存在となった、と言うに等しい。
これは科学、とくに心理学や精神分析学の発達に関係していると思われます。
個人の頭の中や心の中、極私的で非客観的なものに科学の光が当てられた。
それは個人を救うという意味で革命的であったと同時に、
公共の普遍性を破壊する意味でも革命的であった(のではないか?)。

「不安は…敬意をあるいはすくなくとも寛容をつくりだす」

比喩でいえば、不安が市民権を得たというようなものです。
各種モンスターのクレームが、その内容を問われずに正当性を得る。

「コミュニケーション不可能なものについて意見の不一致を生み出し、」
(このすぐ後の「新しい価値」というのは、まだ全く想像ついていません)

これが、立ち止まってうんうん唸りながら考えても意味不明だったんですが、
今日三度目に読んだ時に、ふと着想が湧いたのでした(これが本記事の執筆動機)。
この部分を言い換えるとメタ・コミュニケーションの成立不能状態ではないか。
あるいは、論理(知性・言葉)への信頼の毀損といってもよい。

同じ言葉を使っていてもコミュニケーションが成立しないことは、よくあることである。
前提が違う、言葉の意味を取り違えている、話を聞いていない、相手に興味がない等々。
両者とも言いっ放しで会話が進んでも、それは言葉の次元ではコミュニケーションではない。
けれど一方がその不成立の原因を探り、その原因について相手に理解を求めることができる。
コミュニケーションの成立・不成立に関わらず、その可否への問いは共通の土台となる。
私の話がわかりますかとこちらが聞けば、イエスなりノーなり、相手は答えるだろう。
言葉が、いやもっと広く記号(ボディランゲージなど)がお互いの間で意味を持てば、
次数を繰り上げたコミュニケーション、即ちメタ・コミュニケーションは必ず成立する。

と、思っていた、当のそれが、「不安のア・プリオリ化」によって、なにやら怪しい。
その理路を、どう考えようかと迷っていますが…
優先度の問題にすると単純化のし過ぎになるでしょうか。
不安すなわち個人の主観が、コミュニケーションにおける言葉の意味よりも優先される。
言葉が、主観に応じて意味が捻じ曲げられて読み取られ、また発せられる。
言葉の持つ意味は人々の共通理解であるという前提がそこにはない。
むしろその前提を多数の人が無邪気に信じていることを悪用できるという発想が生まれる。
こう書くと、ポストトゥルースやいけしゃあ虚言癖政治家問題とも繋がっていきそうです。
オオカミ少年が多数派を占める社会が想像できなければ、その実現を避ける術はありません。


そして、序盤の二つ目の抜粋のあとに続く部分を以下に引用しておきます。
予言ととらえるには抽象的すぎるのですが、
やはり僕には恐ろしいことが書いてあると思わずにはいられません。

イデオロギーは、素朴な価値推奨以上のものを差しだすことが、いつも求められてきた。それらは、認知上の構成要素、すなわち社会条件と社会問題の記述を備えていた。ことによると、いまや認知上の構成要素は、記述、「シナリオ」、世界モデル、一般的な招集などの選択を指示する不安の普遍的定式へと還元されえよう。この定式は、独自の任意性を見つけるまえに、社会の自己記述を終結させるであろう。

同上 p.129-130

意味不明な箇所ばかりなのですが、「不安の普遍的定式」という一語にウッときました。

哲学にはかつて、普遍的な正義の形を探求した時代がありました。
ポストモダンがその営為の不可能性をさんざんあげつらいましたが、
それでも正義を探求する姿勢・プロセスそのものの価値は損なわれていません。
人も資源も環境も有限と知れた国際社会において、異文化間の利害は当然対立します。
利害関係が完全に調停することがなければ、末長い調整プロセスそのものが誠意となります。

普遍的な正義、それは実現すべき未来ではなく、
よりよき未来へ向けて歩むための導きの星として、
色褪せぬ輝きをいまだ放っている。

これに対置する形で突如認識させられたのが、
普遍的な不安という当の概念。

どうもこの字面が不吉に思えて仕方ないのは、ここに続く抜粋の文章のせいかもしれません。

というのも、
オートポイエーシス・システムにとって「自己記述の終結」が、
よいものであるはずがないからです。
 

(SRSその2)境界の盾、浸透の矛

 2 自己言及システムには、その基礎的作動に応じて異なるいくつかの類型がある。それは生命(…)、意識、コミュニケーションでありうる。そのような作動を混ぜ合わせることは不可能である。なぜならば、諸作動は閉じたシステムを仮定しているからである。(…)相異なった諸領域はもちろん、因果的に相互連結を内部接続している。とはいえ、それはたんに諸事実間の関係なのではなくて、つねにシステムとその環境世界との関係として組織されているものである。 (p.95-96)

相互連関として、諸システムは内在的、自然的、ないしは宇宙論的統一を有することはない。相互連関はただエコロジカルな諸関係なのである。エコロジカル・システムといったものは存在しない。(p.99)

ニクラス・ルーマン『自己言及性について』

 
システムとその環境世界。
図と地。
その相互変換性。
主客関係の倒立とその解消。

車窓から見える風景。
近くの電柱に目を留めると、後景のビルが動く。
遠くの山並みを見つめれば、平地の街並みが回転する。
図と地は交代可能であり、しかしイコールではないことを知っている。

自己言及システムは、閉鎖かつ開放されている。
細胞壁は境界を設定しながら物質を浸透させる。
矛盾の確立がシステムの作動と自己指示を担保する。
矛盾の起源は、無矛盾の擬制システムによる諸システムの規定にある。

矛盾は存在ではなく、定義である。
 

「シミルボン」アカウント作りました。

 
この一つ前の記事を書評ということにして「本が好き」に投稿し、ようやく100冊目となりました。
前↓に言ってから半月近く経ってしまいました。

書評サイトのこと - human in book bouquet

なにはともあれ有言実行、
さっそく引越し先の書評サイト「シミルボン」のアカウントを作成しました。

https://shimirubon.jp/users/1677675

どう使うかはいろいろ試しながら考えていきます。
アカウント名は個人事業の屋号にちなみましたが、
鎖書店に関連づけるかどうかはまだ分かりません。

なんにせよ、読書ライフ…というより、
もっと広く、本との生活が豊かになるように、
使っていきたいですね。

脳化社会の「もう一つの側面」/ローファイ絶望社会論

『未来を失った社会』(マンフレート・ヴェールケ)を読了しました。

原著は96年初版で、統計データなどは古いのですが、語りがいい。
「絶望の舌鋒を振るう社会学者」とのことですが、楽観はもちろんないが、悲観とも違う。
ラジオの天気予報のように淡々と世界の崩壊(エントロピーの極致)について語る調子は、
昨今流行のローファイ音楽のようでさえある。
「だからどうした、当たり前じゃないか」と言われると、「ま、そうかな」と思う。
絶望か希望か、という水準が、意味遊びに相対化されたような平易さ。

読む人によって、
希望の論理を絶たれて生気を失うかもしれないし、
この絶望の正視が希望へのスタートだと発奮するかもしれない。
と言って実際はどちらもありえないだろうけれど。
まっとうな人なら「陰気臭いなあ」と一言で終わらせそうだ。
著者をもっと頑固な意志の人にすれば中島義道氏に似ているかもしれない。
でも著者は社会学者である(もっと言えば「社会学者嫌いの社会学者」である)。

僕が面白かったのは連想の糧としてであって、
読みながら色んな本や発想と繋がることがあってその都度興味深かったのですが、
書いておこうと思ったことが一つだけあるので書いておきます。

 × × ×

「脳化社会」(@養老孟司)という言葉をこのブログで何度も使ったことがあります。
現代の先進国社会を表現するにこれほどふさわしい言葉はない。
この言葉は、養老氏の社会批評エッセイでもそうですが、基本的に批判的に用いられます。
「ああすればこうなる」、頭でっかちの、身体性抜きの、現在ファースト計画社会。

僕も今までこの言葉はネガティブなイメージでしか使ったことがありませんでした。

この本を読んでいる間、「脳化社会」の言い換えというか関連として、
「挫折を招くコントロール欲(にまみれた社会)」(@ニクラス・ルーマン)、
「好コントロール装置(官僚機構のことだったかな?)」(@池田清彦)、
などを思いついていました。

それで、あろところ(後述)を読んでいてふと、
「脳化社会のポジティブな捉え方は見田宗介がしていたじゃないか」
と思いつきました。
 消費のイメージ(幻想)化による資源浪費の抑制、
 またそれと実体経済との分離による実体経済(→身体性)の回復。
 運命委任と共存する想像力の解放。
現代社会はどこへ向かうか』で描かれた、幸福の未来社会。

見田氏の構想は、現代が脳化社会だからこそ描き得たのでした。
気付いてみると、養老孟司見田宗介がなぜリンクしなかったのかが不思議なほど。
それほどまでに強固に、脳化社会というイメージの「片側」しか見えていなかった。

物事にはすべて両面がある。

この一般論を了解していればあらゆる概念を柔軟に捉えられる、かといえば、
そんなはずはないのでした。
もともとそう思っていたわけではありませんが。
 
 
上で触れた「あるところ」についてなんですが、
この養老-見田リンクについてページ内表紙の余白にメモしていて、
そこにはページ数とともに一言「ポジティブを相殺するためのネガティブ」とあります。

この一言の意味もわからないし、
これと当該リンクとその指定ページの内容との関連もわかりません。

連想ミサイル連射の欠点はリンクの履歴だけが残って、
各々のリンクの意味が忘却されやすいことなんですが、
ちゃんとした意味があったのならいずれ思い出すだろう、
という未来の自分への信頼に基づいた方針なので、
そこはあまり気にせずにとりあえず指定ページのマーカー部を引用しておきます。

著者が引用したヘンリー・ミラーの著書からの孫引きです。

 北では、片時もじっとしていられない人びとのあいだで時間が湯水のように使われているように思える。彼らの一生は、浪費された時間以外の何者でもないといってよかろう。ぶよぶよした顔でセックスに消耗した四五歳の太って息切れする男、それはアメリカが生んだ無意味の最大の象徴だ。彼はエネルギーの色情狂であって、エネルギーがあってもなに一つやり遂げない。彼は石器時代人の残像だ。脂肪と過剰な刺激を受けた神経でできた統計学の束であって、保険勧誘員に不安な診断書を作成してもらえるためにだけ存在している。裕福で忙しなく頭が空っぽの無為の寡婦たちといっしょになって、国中に種をまき散らす。この寡婦たちときたら、おしゃべりと糖尿病が難なく入れ替わる亡霊めいた修道女の一団をなしている女どもだ。

p.281 太字は引用者

この引用部が書かれたのは1977年。
これを昔のことだと思うか、そうでもないと思うか。


それはよくて、
このマーカー部のそばにはメモが二つあります。

 「そう見える他人が存在すること」「他人から自分がそう見られること」
 を、気にしなく(てもよく)なった社会

これが一つ目。二つ目は以下。

 個人主義の「感度の振り分け方」
 cf. RPGのさいしょ、主人公へのパラメータふりわけ、とそのメタ視点

二つ目の後半について、
ロールプレイングゲームの中に、
主人公の初期能力値に対してボーナスポイントを任意に付与する、
というシステムのものがあったと記憶しています。
能力値というのは、力、素早さ、かしこさ、…というような。

まず、個人の能力について、いくつか項目があって数値化できる、
という視点にひとつの人間に対する考え方が現れています。
そして、その数値を(わずかであれ)自由に設定できる、
というシステムは、その考え方に上乗せする形のイデオロギーとなります。


ポストモダンは、価値や規範の相対化を招いたとされます。
いや、招いたというよりは、各地で起こっていたその相対化の、
思想的な見地における現れと考える方が自然でしょう。


引用に対して、なんと強烈な皮肉かとも思いますが、
そう表現されて妥当な人びとが(あるいは当時だけでなく現在も、あるいは大勢)いて、
けれど当人はそう言われてケロリとしているような人びとがいて、

その先にあるのはいくつかの舗装道と獣道とジャングルだという、
ローファイ・ヒップホップな話
でしかないのです。

 × × ×

googleはググれない

 
エントロピーの最果ては、ただ一つ。
思考とは、その過程のシントロピー。

 エコロジーの問題は、現代文明の自動破壊的傾向と道徳の欠如がことのほかはっきり現れる領域の一つである。それは、言語統制とか抑圧、なだめすかし、居直り、テクノクラシー的対処療法、あるいは利己的日和見主義の応用などでは解決できない問題だ。そのような視角から見ると、おそらく楽観主義者よりも悲観主義者のほうに、進歩に払うコストに対する敏感さも、また建設的オルターナティヴに対する現実感覚も、期待できるかもしれない。
(…)
すべてのことがよくなってほしいと思うならば、多くのことを変えねばならないだろうが、変えることは不可能である。というのも、多くの領域で、個人的知性より優れている集団的知性が、よりによって人類がどうやって生きのびられるのかという問いには役立たないからだ。

マンフレート・ヴェールケ『未来を失った社会──文明と人間のたどる道』岡部仁訳、青土社、1998

 
集団的知性にできること。

 あらゆる問題に対して最適解を導き出すこと。
 誰もが納得する希望を語ること。

集団的知性ができないこと。

 最適解を実行すること、その意志をもつこと。
 希望が日和見でなく行動を起こすものとなるための、絶望を語ること。
 

世界は変わる、必然を擬して。
世界は語る、他人事のように。

世界を変える、偶然を排して。
世界を語る、我が事のように。
 

問うて落ち、語りて落ちて、(SRSその1)

 
論理を整理したいというわけではないのですが…

こんにち個人主義を再構築することは、主体なるものの再肯定を意味するものではありえない。われわれは主体に、そのふさわしい継承者、この諸問題に関し、また現代社会の社会構造との関連においても適切な継承者を見つけることによて敬意を払うべきである。

具体的な提案をなすことは、もちろん、危険かつ困難なことである。にもかかわらず、われわれは、近年ブームとなっているわれわれが「自己言及システム」と呼ぶようになってきたものの研究に関する、単純だが広範囲に及ぶ所見をもって開始することができよう。

「第五章 個人的なるものの個的存在性」p.95

ニクラス・ルーマン『自己言及性について』
引用以下同

この引用部に続く項目はぜんぶで7つあります。
1つずつ取り上げて、関連部分とともに抜粋してみようと思い立ちました。
(が、1の話は次の投稿になりそうです)

1 自己言及諸システムは経験的であり、超越論的地位をなんらもつものではない。(p.95)

われわれは、オートポイエティックな諸システムのエコロジーにおいて、たとえ最高位でないにしてもとにかくも固有な地位──ちょうどゴットハルト・ギュンターが人間の自己意識性に関して述べていた、あらゆる自己内省の諸構造のなかで「もっとも高度にして豊かなもの」のような──を欲してはならない。(p.99)

人間であろうと欲することには、なんらの科学的基礎も存せず、そう欲することはまったくもって衒学的なことである。(p.100)

自己言及性は、あまりにあらゆることを含んでいます。
「地球には植物と動物がいる」
「人間とは動物の一種である」
というレベルの、範囲が広すぎて、言ったところでどうなる、というような。

自己言及システムについての説明論理は、それ自体が自己言及となります。
自己言及についての言及、それはなにかを確定させるための説明ではない。
言及一般が実はそうで、その中でも、自己言及への言及は尚更そうである。
言及自体がその生命性であり、創造循環し続けることがその躍動性である。


「語るに落ちる」という言葉をふと連想しましたが、
これは「問うに落ちずに語るに落ちる」という諺の前半を略したものだそうです。

この型を借りれば、自己言及性とは、

「問うて落ち、語りて落ちて、」

という感じです。そして、

「句点落ちずに読点落ちる」、

ここに終わりはない。


終わりがなければ、始まりしかないのか?
あるいは、

終わりがなければ、始まりもないのか?
そうかもしれない。

(SRS = Self-Referential System)
 

「我輩は官僚である。名前はもうない」

 
『未来を失った社会』(マンフレート・ヴェールケ)という本を読んでいます。

「社会もいずれは必ず人の一生と同じ経過をたどる」という標語を掲げ、
無秩序の増大であるエントロピー現象が社会のあらゆる領域で起こる様を、
歴史事件や統計データを並べたり、あるいは印象派的なエッセイ仕立てで、
社会学的に(著者は社会学者ですが)綴るその基調はシニカルなものです。

が、経済や生活水準の向上にかまけて見ぬふりをしてきた面を見る意味では、
岐路の時代において、まことに示唆に富む視点と考察に事欠きません。


本記事も相変わらず、思考を刺激された一節が発端となっています。
 
 × × ×
 

マックス・ヴェーバーは、官僚制を合法的・合理的支配組織として特徴づけた。そのような支配組織は、合理性、服従、専門、そして非人格性といった原理によって働き、いわばゲマインシャフト行動をゲゼルシャフト行動に変換する。このことは結局、予測可能な規則にもとづき、また特殊な専門家によって、出来事を客観的に片づけることを意味する。
(…)
合理性に関していえば、まったく非合理的でしかない多数の形式主義的、完全主義的な事象が存在するばかりではない。いわば規則を促進させるにつれ、どんな合理性の基準も感じられない官僚エリートの自己淘汰も生じてくる。非人格性、つまり客観性と中立性という点についていえば、価値と規範の規約集や上層の利害関心に奉仕することを優先し、公務における非公式の忠誠関係を顧慮する傾向がある。専門能力についていえば、役人の考えと専門家の判断とのあいだに、頻繁に摩擦が生じる。

 したがって官僚制には、エントロピーの感染源がたっぷりあることになる。しかし、その中心の局面に光を当てているのは、すでに述べたパーキンソンの法則である。つまり、すべて官僚組織は、本来の任務とは無関係に膨張し、自分の仕事をますます自主管理に集中させ、その結果ついに本来の任務をすっかり忘れはて、自分で生み出した問題にいそしむことしかしない傾向をもつ。
 もちろんわれわれは、官僚組織というものが国と公の分野にしか見られないものではなく、経済を含めた社会全体に浸透していることを知っている。

「Ⅳ:「高開発」社会の社会的エントロピー」p.224-225
マンフレート・ヴェールケ『未来を失った社会──文明と人間のたどる道』青土社,1996

 
官僚制のエントロピーとは、もともとは安定した秩序の構築を目指して設計された制度の各性質(合理性、服従、専門、非人格性)が、制度の徹底によってその性質を裏切る方向に作用し、総体的には無秩序を来すことを指します。

特に新しいことを言っているわけでもありませんが、
こうして集中的にネガティブな面を見せつけられると、いろいろな思いがよぎります。
 
 
最初に、引用最後の一文。
「官僚組織(制度)が社会全体に浸透している」。
まあそうだろうなと思いつつ、それが実際何を意味するのかを考えてみました。

同じ一文にあるように、ふつう官僚組織といえば「国と公の分野」がその代表格だとみなされています。
そして市民的な立場からして、官僚的な性質をあまり好ましいものとはとらえていない。

ちょうど自分はいま政府の「家賃補助支援給付金」の申請をしていますが、コロナ禍に対する支援制度の一つである初期の「持続化給付金」の超ザル的対応の反動なのでしょうが、あまりの内容空疎な杓子定規、事実を様式に合わせて歪曲しにかかる形式至上主義的な事務局側の対応に、ウンザリを通り越してある種の感動を覚えさえしていて(だからもう結果的に給付金降りなくてもニコラス・タレブのいう "F××k You Money" としてメンタル面で有効活用させてもらおうかと思ってるくらい)、それでいて申請手続きに関する問い合わせに対応してくれるのは政府委託の(たぶん)民間業者のオペレータで、彼女のまことに人間的な(僕にではなく制度に対する)困惑を漂わせた説明を聞いたりして、手続きのいちいちが興味深いのですが、それはさておき。


まず、官僚組織が社会全体に浸透しているとして、
さすれば一私企業のサラリーマンだったり個人事業者であるわれわれは何の官僚なのか?

あらゆる個人が所属する具体的な組織などというものはないので、
(「国」は今考えようとしている組織としては抽象的な存在です)
官僚組織がもつ性質と共通の性質を担う「なにか」に僕らは属する、と考える。

すると答えは簡単で(というのは僕がいつも考えてることだからですが)、
高度に複雑化・ベンディングマシーン化・匿名化を遂げた「システム社会」ですね。

それのどこが具体的なんだと言われれば、具体例を逐一挙げればいいのですが、
面倒なのでそこは抽象的にまとめるとして、

そのつど人の手や時間を介されてきた生活過程から、人手が除かれ無時間化したこと、
仕組みが単純で、素材や原理や作り手の手間が容易に想像できた生活用品が、そうでなくなったこと、
あるいは法という制度も、ローテクな生活実態に基づいて人間が頭で思い描けるレベルの単純さだった昔に比べれば、専門家集団が膝を突き合わせて時間をかけてあらゆる事態を想定しても事後的に不備があちこち出てきてAIに立案させるのが確実で現実的だなどという意見が出かねないほど複雑になったこと。

総じて、科学(客観)主義、効率主義、平等主義といった建前と、人間の頭脳の(身体性抜きの)拡張である機械計算能力を前提に、人間の集団的生活を円滑に営むために張り巡らされたメカニズムの網のことを「社会システム」と呼び、そのようなシステムによって回る社会を「システム社会」と呼ぶ(ことにします)。

ここで、官僚組織の4つの性質を再掲しましょう。
「合理性」、「服従」、「専門」、そして「非人格性」。
言うまでもなく、そのどれもが社会システムにも当てはまります。

合理性、昨今は発言主の社会的影響力が理の根拠になるという形で先鋭化しています。
服従とは、個人の意思には無関係に、システムに取り込まれざるを得ないということ。
専門、その極度の分化が組織の機能不全を起こす現象を「サイロ・エフェクト」と言います*1
非人格性とは、ネットの生活への浸透がその功罪とも増幅させた「匿名性」でもあります。

ヴェールケ氏が挙げた官僚制のエントロピーの例は、
大きく読み替えずとも僕らの日常生活にの一面でもあることがわかります。


さて。
「官僚制が社会全体に浸透している」、
痛々しくも、これはこう言い換えられると思います。
現代社会の大衆は官僚化している」。

僕らはみな、逃れるすべなく官僚システムの一員、「システム官僚」である。
そう考えると、政治行政を担う人々に対する一般市民の視線に、再考の余地が出てきます。


国家官僚の硬直性や腐敗をニュースで目にして、当事者でなければ、
普段の感情としてそれを「我が事」と思うことはそう多くありません。
他山の石だと建設的にとらえる人の内にも、嫌悪感が芽生えているはずです。

その嫌悪感とは、何か。

あるいは日常的な感覚では道端の吐瀉物に相当するものかもしれません。
眉を顰め、目を背けて「もう、やーね」と吐き捨てるような。
建設的な人なら嫌悪感を抑えつつ、同じ人間だとして「鏡」と考えるかもしれません。
今の自分はこんなことはしないが、時と場所と立場が違えばわからないぞ、と。

けれど、上で「再考の余地」と書いたのは、また別の解釈があるということ。

すなわち、同族嫌悪

先の「鏡」の捉え方は、あくまで基本姿勢は他人事で、
抽象化したうえで我が身に引き寄せるという迂回をしています。
だから、自分の精神にダメージもなければ、抑圧もない。

けれど、実際は誇張された存在であるとしても(国家官僚が官僚制の典型には違いない)、
メタファーとしての「鏡」ではなく、まさに現実の鏡を見ているかのように、
われわれが「彼ら」を直視しなければならないのが本来であるとするならば。

そこには「みずからが吐瀉物」であるような精神的ダメージがあり、
それがなければ、後々訳の分からない形で回帰してくる抑圧がある。
それも、その訳が分かるまでは「繰り返し」で。


とまあ、そのような視点でヴェールケ氏の文章を読むと、
その一語一語に対して身につまされる思いがしますが、
先に引用した節の最後にはこのような記述があります。

 要約すれば、官僚制は、オートポイエーシスの意味では、ますます複雑になる構造と機能を独立させる傾向がある。日常の言葉では、これを官僚の行き過ぎという。このように調整されすぎているシステムの働き方のために、めまぐるしい要求に適切に答えることができなくなる。その場合、社会的エントロピー二つのパターンで働くようになる。当該の組織が多発性硬化症の犠牲になるか、それとも、例外を通例にすることによって、必要な柔軟性を当該の組織が保持するか、そのいずれかである。後者は、機会主義に門戸を開くもので、マックス・ヴェーバーが想像したのとはかなり逆のことを意味している。

同上 p.226

 
太字部の二つはエントロピー増大の二つのパターンということで、
氏の意図としては、どちらも無秩序の拡大を意味します。

融通の利かない組織の硬直化、僕が杓子定規や形式主義と上で書いたのが前者。
後者は、組織レベルの視点でいえば規則の形骸化、恣意的な弾力的運用のことで、
これ自体は当たり前の認識なんですが、僕がふと思いついたのはこの個人レベルについて。


本記事で何度も挙げた、官僚制の4つの性質。
これは、それぞれある面では「非人間性」の一面でもあります。

僕が言いたいのはこういうことです。

官僚組織の成員は、組織上の役割として規則に基づく非人間性の発揮を義務づけられる。
その成員にとって、規則に反する「例外」は人間性を取り戻すための「息抜き」になる。
別の表現をすれば、抑圧された個性は「例外」により己のアイデンティティを取り戻す。

後者に対しては、制服を着崩す不良高校生などが典型例です。
一方の前者の例になるかはよく分かりませんが、今パッと思いついたことには、
理由も必要もないのに自分の衝動を止められない万引き常習犯、
飛行機内でマスク着用に執拗に抵抗して緊急着陸騒動を起こした大学講師、
のような人々に、当てはまると考えられるかもしれません。


……ここで終わると「例外を通例にする」ことがネガティブに響いたままになるのですが、
あらゆる物事には両面があります。

官僚制内部における例外の実行は、人間性を取り戻す行為でもあるわけで、
それが組織や社会からすれば秩序撹乱要因になるわけですが、
その主体である個人にとっては、動機としては至極まっとうな振る舞いといえます。

つまり、要はやり方次第というわけです。

そして、「多発性硬化症」が必然だとして、
その時限タイマーがいつ切れるかは分かりませんが、
(現代の風潮は「よもや自分が生きている間に切れることはあるまい」ですが)
「その時」にその犠牲にならない選択肢は、これしかないのです。

そして、
結局いつもと同じ結論が出てきましたが、

例外の発祥はつねにグラスルーツにあるのです。
 
 × × ×

 

*1:
あるいは「常識の専門家」というものを考えてみてもいい。
ヴェールケ氏の皮肉とユーモアあふれる文章を引用しておきます。

社会学者といえば、わずかなことに関して多くのことを知っている専門家であるのがごくふつうである。エントロピー力学の犠牲者として、彼らは時が経つにつれ、ますますわずかなことをますます多く知るようになり、あげくの果てには、ないことについてすべてを知るにいたる。これに対し常識は、たいてい多くのことをわずかしか知らない多面的知識の持ち主の知的働きである。彼らがエントロピー力学の犠牲者になると、ますます多くのことについてますますわずかしか知らず、あげくの果ては、すべてのことについてなにも知らないようになる」(p.44)