human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

青豆とピーナッツ

 
『遠い太鼓』(村上春樹)をひさしぶりに再読し始めました。
一度目に読んだ時に書き込みがあって、初読は9年前だったようです。


つい最近オフィスで選書中にふと連想したのがきっかけなのですが、
他のきっかけが多すぎて、家にいるとそれが具体的に何だったのか思い出せません。

そういえば、家の本棚から本を取り出したのも久しぶりでした。
低いながらスライド式で幅と奥行きのある家で唯一の本棚は、
普段はインド雑貨屋で買ったテーブルクロスで覆われて居並ぶ本の背表紙は見えません。
では普段読む本はというと、本棚以外のあちこちにある積ん読からのチョイスです。

それはさておき。

『遠い太鼓』はギリシャ・イタリアの紀行エッセイ…ではなく、
氏の言葉でいえば「常駐滞在型旅行記」。
本書の時間軸の三年で氏は『ノルウェイの森』と『ダンス・ダンス・ダンス』を書き上げ、
その間ギリシャとイタリアを転々としながらどっぷり小説に浸かって書いていた期間のことを
「深い井戸の底に机を置いて小説を書いているようだった」と表現しています。
小説にもよく出てくる、井戸のメタファーですね。

それはさておき。


出だしをちらりと読んで、
9年前の自分が引いた線の箇所を読んで「ふーん」と思いながら、
最初に目に留まったのはまえがきのある部分。

氏が旅中に、自分を保つために書く文章である日記に対する姿勢について、
「シンプルでリアルに」、「ジェネラライズしないで」、と書いています。

これは氏のエッセイに限らず、氏の小説全般についても言える姿勢です。

が、そう思いつつも「あれ?」と思う。

僕が氏の小説や(特に)エッセイについて抱いていた印象の一つに、
「そこから引き出されてくる教訓の多さ、多彩さ」があります。


発端が具体的な事柄であるにしろ、
そこから教訓を導き出すのはジェネラライズ、一般化ではないのだろうか?

それは間違ってはいない。

けれど、重点の置きどころが違うのだ。


僕はつい、導出された教訓の方を「果実」だと思って読んでいました。
でもきっと、ハルキ氏が書くにおいて、教訓は「おまけ」なのです。
書く力点で言い換えれば、
瑣末で具体的な人や事件についてのシンプルかつリアルな描写に丹精を込め、
ついでのようにそこから出てくる教訓は「手癖」で継ぎ足される。

そう言って、べつに手癖で書くのが悪いとか誠実さに欠けると言いたいわけではない。
いわばそれは、遠泳のクロールにおける息継ぎのようなものだと思います。

深く潜り続けるには、途中で大きく息を吸って呼吸を整えなければ、体がもたない。


雑駁な経験を整え洗練することで生み出される教訓、
それは普遍の真理でもなんでもなく、
ただ「なんでもないこと」に過ぎない。

みんな似たような経験をして既に分かっていて、
敢えて言わずとも喉の奥に呑み込んでいて、
それでも口に出されれば「そうだよね」と頷き返す、
そのような「なんでもないこと」。

そのようなことがなぜか、格式ばって本に書かれると、
読む方は有難がって拝読してしまう。
そしてお墨付きを得たとばかり、説教してしまう。
それでも口に出されれば(以下同)。

 × × ×

今読んでいる『意識と本質』(井筒俊彦)に、こんなことが書いてあります。

 イスラーム哲学の初歩として、「本質」を2種類に分ける考え方がある。
 一方はマーヒーヤと呼ばれる、普遍的リアリティ、普遍性としての本質。
 他方はフウィーヤと呼ばれる、具体的リアリティ、個体性としての本質。
 世の習いとして、哲学者はマーヒーヤを、詩人はフウィーヤを追求しがちである。
 前者の好例はプラトンの「イデア」、後者はリルケの「即物的直視」。

本質を普遍性に見るか個体性に見るかで本質論ががらりと変わる、
というその多様な例を比較解説する序盤を自分はいま読んでいる段階で、
しかしマーヒーヤとフウィーヤを独特に結びつけようとしたのが芭蕉である、
というのとその概説を読んで非常に心惹かれた状態で上記について連想するのですが、


不易流行というのはマーヒーヤとフウィーヤの往還だと芭蕉はいう(と井筒氏はいう)。

一方で、小説とは具体的リアリティに徹するものであると、保坂和志氏はいう。

でもその保坂氏が、小説の中で一般化したり教訓を書いたりしないわけではない。
小説の中に現れる教訓は、個体性の内側でふと面影を見せる普遍性である。
その普遍性は、小説を規定することもなければ、登場人物を律することもない。
その普遍性は、いわば個体性が躍動するための「息継ぎ」である。

井戸端で痴話喧嘩の顛末を教訓化して「うんうん」と頷き合う生活者のリアリティ。
個体性に埋没する普遍性は、時に個体性を柔らかく包み込む普遍性でもある。


思えば、ハルキ氏の教訓は特に、「どうしようもない感」が強いような気がします。
そりゃそうなんだが、言っても仕方がないよ、というような。
でもそれでも、言わずにはいられない。
たとえば、予定が狂い続け、災難ばかりが起こる旅の道中においては。

そのような教訓を洞察と呼ぶには、俗に過ぎるし、役にも立たない。


そのような時、ハルキ氏は「やれやれ」と呟く。
スヌーピーの生みの親、C・シュルツ氏なら "Good Grief." と言うところだ。
 
 × × ×

遠い太鼓 (講談社文庫)

遠い太鼓 (講談社文庫)

救済思想と生産主義、なし崩シズムとAI化する人間

 

預言書からキリスト教に至る宗教は、未来へ未来へと向かう精神、現在生きていることの「意味」を、未来にある「目的」の内に求めるという精神において、この近代へ向かう局面を主導してきた。
(…)
 ことにダニエル書は、シリア王アンティオコス・エピファネスによる徹底した迫害と受難の時代に、この現実の地上の絶望の徹底性に唯一拮抗することのできる、「未来」の救済の約束として霊感された。現世に何の歓びも見出すことのできない民族が、生きることの「意味」のよりどころとすることができるのは、ひたすら「未来」における「救済」の約束、来るべき世に「天国」があるということ、現在われわれを迫害し、富み栄えているものには「地獄」が待っているということ、現世に不幸な者たちの未来には天国があるということ。そのような決定的な「審判」の日が必ずあるという約束だけだった。

「3章 ダニエルの問いの円環」p.96-97
見田宗介現代社会はどこに向かうか──高原の見晴らしを切り開くこと』岩波新書,2018

また、この前章である2章の末尾にはこのような表現がありました。
下記の「第II局面」とは、人類史における人口増大局面のことです。

生存の物質的基本条件の確保のための戦いであった第II局面において、この戦いに強いられてきた生産主義的、未来主義的な世の<合理化>=<空疎化>という圧力 (p.91)

 
見田氏のわりと最近の著書である本書は、氏の過去の論考を踏まえてはいるがそれらとは違って、非常にざっくりした手法で論理が展開されています。

日本や欧米諸国の青年の精神(価値観)の変化を、定点観測的な統計調査の数値をベースに分析する、その基本論調はきわめてポジティブなものです。
二つ目の引用は、現代世界は、その「圧力」が解除されて「この世界の中に存在していることの<単純な至福>を感受する力が、素直に解き放たれるということをとおして、無数の小さい幸福たちや大きい幸福たちが一斉に開花して地表の果てまでをおおう高原」に位置する、という文脈の中にあります。


それはいいのですが、

そうして一つ目の引用まで読んできて、
ここは生産主義的な価値観、未来を現在に繰り込む「無時間モデル」(@内田樹)の原型というか、
元をたどれば最初にあった思想がこの「救済の思想」であるというくだりで、
見田氏のこのまことに大づかみな発想が正しいかどうかはさておき、
思考を刺激される発想ではあって、
しばらく読む手を止めてあれこれと考えを巡らせたうえで、
ちょっと書いておこうかなと思って本をいったん座右に置いたのがついさきほどのこと。

というわけで、以下本論。
 
 × × ×
 
現代社会で主流となっている(別に傍流でもいいですが)思想の、
その原初形態、あるいはその思想の由来となる思想が仮定できたとします。

前者を現在思想、後者を原初思想と呼べば、
現在思想には原初思想の主な特徴との共通点がある(だからこそ「仮定」できる)と同時に、
原初思想のその他の特徴も何らかの形で引き継いでいる、と考えるのは自然な推論です。


主な特徴というのは、見田氏が書いているように、
「現在生きていることの「意味」を、未来にある「目的」の内に求めるという精神」
のことで、これが原初思想(救済思想)と現在思想(生産主義的価値観)とで共通している。

生産主義が救済思想を採用した、という言い方は違和感があるかもしれませんが、
そうして両者が結びついた理由を考えると、
救済思想が、ほかの考え方よりも「生産性の高い思想」だったからだと思われます。

現在に満足する人間よりも、現状に不満を感じる人間のほうが、より多くの努力をする。
その不満が軽微であるよりも、絶望的であるほど、その現状を打破しようと必死になる。

人類の人口増大期は、生活物資の供給が増え続ける需要に脅かされる時期で、
現状維持では食うにも困る、というギリギリの局面であったのかもしれません。
技術革新が時代を拓く以前は、人力をいかに最大化するかが最重要課題であった。
つまりは勤勉さや質素倹約などを推し進めるための、社会の共通認識の構築。
宗教もその手段として用いられたでしょう。

とにかく、
生産性向上のための思想として救済思想がその中核に据えられ、
その性質は現代の生産主義的価値観にも息づいている

という考え方は筋が通ってはいます。


それで、ここまでは原初思想の「主な特徴」について書いてきたのですが、
僕が考えたいと思ったのは、原初思想の「その他の特徴」の方です。

つまり、上に書いたこと以外にも、
生産主義が救済思想を引き継いだものがあるのではないか、
形を変えていても何らかの結びつきを想定できるものがあるのではないか、
という関心です。


「その他の特徴」として僕は、一つ目の引用の下線部中の太字部に注目しました。
下線部をもう一度ここに抜粋します。

現世に何の歓びも見出すことのできない民族が、生きることの「意味」のよりどころとすることができるのは、ひたすら「未来」における「救済」の約束、来るべき世に「天国」があるということ、現在われわれを迫害し、富み栄えているものには「地獄」が待っているということ、現世に不幸な者たちの未来には天国があるということ。そのような決定的な「審判」の日が必ずあるという約束だけだった。

 
われわれの未来に「天国」が待っていること

「天国」にたどり着くためにひたすら努力することへの誠実さには、
それが叶う可能性の低さを度外視することが含まれています。
100%叶わないと分かっている夢を追える、まともな人間はいない。
それは、ある面では現実を見ないことであり、抑圧でもある。

抑圧はその姿を変えて回帰すると精神分析学では言いますが、
たとえば、この誠実さは往々にしてファナティックな形態をとることでしょうか。
あるいは、実際にたどり着く見込みが現れた時に、それを拒否してしまうこと。
「天国」への努力が自分を生かしているとすれば、到着は死を意味するからです。

富み栄える迫害者には「地獄」が待っていること

被迫害者の救済が叶うのは、迫害者がその迫害を継続できなくなった時です。
「被迫害者が成り上がる」ことの裏面として、「迫害者が成り下がる」ことがある。
確固とした強者と弱者の関係が前提とされる限り、それを打ち破ろうとする意志は、
自分の幸福を願うだけでは済まず、必然的に相手の不幸を願わざるを得ない。

「下」にいる者は上がり、「上」にいる者は下がる運命にある。
盛者必衰のこの運命観はもちろん、これを運命と確信する点に強い意志が胚胎する。
そしてこの希望の運命観は、自分が「上」に立った時には逆に自分に恐怖をもたらす。
「上」に立った者は、今度は「下」に回った人々に不幸を願われる側となるからです。


さて。

これらの救済思想の特徴が、現代社会の生産主義的価値観にどのように反映しているか。
特に換言する必要もない気がします。
 
 × × ×
 
”生産主義は、生産の増大が死活問題であった時期には妥当なものであった。
しかし、社会に生産の増大が必要でなくなった時代に果たして幸をもたらすのか。”

見田氏は著書において、
「高原の見晴らしを切り開く」ためのプロセスとして、
このテーマについて検討することが必要だと考えているようです。

そうかもしれません。

が、価値観を維持するのか転換するのか、いずれにせよ、
「やむをえずそうなった」のではなく、
「自らでそれを選び取った」と考えることが大事のような気がします。


日本人は伝統的に、「なし崩し」を好みます。
根本的な変化の決断は自分が下すよりは誰かが下す方がよく、
その誰かは特定個人というよりは「お上」とか集団的意志の方がよい。

けれど、そうした「なし崩し」を落ち着いて受け入れるには前提がある。
それは、日本社会のマジョリティがその主体となる場合です。

ネット民主主義を新たな集団的意思とみなすことはできなくもありませんが、
匿名的、非身体的な現状のネットツールはその使用形態において個人性が強い。
ダンパー数(150だったかな?)というものがありますが、
日常的で身近な接触を前提としてネットがそのつながりを補間する、
という形態では規模が限られるし、
ネットだけでのつながりを何らかの意思を体現する集団とみなすには、
ネットツールはまだまだ未熟です。

共同幻想とインターネットの日常生活化の関係も興味深いですが、
現代社会の共同幻想は、孤立した個人が自己中心的に抱くものに思えます。
その内実は「タテマエ安心ホンネは不安」で、
「みんなが不安だと思っているから、今不安な私もそれで安心」という、
偏差値は変わらないけど全体の学力が落ちている学齢集団
というのと同じ状況を僕は想像しています。


結局のところ、
人が何を望んで、それが実現しようがしまいが、
そのようなプロセス自体はその人が望んだ状態であって、
その自覚が現状維持の納得や現状打破の決意につながるのですが、

橋本治なら「それこそがまっとうな人間の意識活動である」と言うところで、
彼もまたそう思っているように僕もそう思うんですが、
そもそも人は「まっとうな人間の意識活動」をしたいと思うのだろうか、
という疑問には答えようがありません。


話がどんどんずれたまま、”なし崩し”的に終わりますが、

アンドロイドは技術開発が進めばどんどん人間に近づいていきますが、
それはかつては、
グラフにすれば完全な人間性にはたどり着かない「漸近線」を辿る、
ようなイメージを持たれていたと勝手に想像していますが、
現代ではそれとは違って、
というか僕自身がつい最近抱いたイメージがそれとは違うという意味ですが、

グラフには曲線が一本ではなく二本あって、
そのグラフの横軸は人工知能等の技術進歩を、縦軸は人間度を示すのですが、
一本目はもちろんロボットですが、二本目はじつは人間のほうで、
縦軸の目盛り(つまり定義)は人間が操作できるという奥の手があるにしても、
その二本の曲線は交差する(いずれは、あるいは既に)。
森博嗣のWシリーズにはその交差の機微がいきいきと…ではなく淡々と描かれています。


それを人間の側が口では望んでいないと言っても、
それが結果であるのならば、それは人間がそう望んだものです。

自分の願望を自分で否定するのは精神分析でいえば分裂病なのでしょうが、
精神病というのはそのようにマッチポンプで創造されるものなのでしょう。
 
 × × ×
 

 

「前兆」の保存とその変容

 

 もっとも興味深い帰結のひとつは、十七世紀の信仰運動である。そこでは、救済の成就のための試みが私事化されたのであった。(…)
 [こんにち]すくなくとも、この信仰運動の二つの効果は心のうちに保たれているに相違ない。その第一は、自分自身の救済に必要なものとしての義援および慈善をべつとして、他者の経験に向けられていた諸個人の指向性は著しくその価値を減じた。(…)
 
 もしあなたが他者の役割を取得し、その献身を賛美するとすれば、あなたはすでに誤った轍に入り込んでしまったことになる。すなわち、献身は、すくなくとも意図的にはコミュニケートされえないのである。このことは第二の認識にいたる。真実のそして虚偽の献身は区別されえないものとなる。誠実さおよび真性さはコミュニケートされえない。しかし、もし他者が彼の誠実さを知りえないとすれば、個人は彼自身を信頼しえないものと感じることとなろう。同じ問題が恋愛関係にも生じる。恋の片われを確信しようとするものはだれでも、そのように試みることによって不誠実となる。唯一の逃げ道は、不誠実さの告白とならざるをえないであろう。

「第五章 個人的なるものの個的存在性」p.87-88
ニクラス・ルーマン『自己言及性について』

 
コミュニケーションの手段の変化・多様化は、コミュニケーションの質を変える。
その質の変化は、コミュニケーションの定義さえも変えうるが、
コミュニケーションを駆動するものが原初的なモチベーションである限り、
「コミュニケーションの成功」の内実とそのモチベーションは乖離を拡げていく。

ルーマンのいう「成功」とは、そのコミュニケーションが相手の行動に変化を与えることだ。
コミュニケーションの形式や内容が、痕跡を残すこと、保存されることは、「成功」とは関係がない。
そして、「成功」が記録され再現されることが「成功」の再生産につながる確たる証拠もない。
文字媒体の保存技術の発達はしかし、これにより「成功」が飛躍的に増加すると信じて進められた。


本来の「成功」は、生まれた途端に消えてしまう前兆のようなものである。
行動を、また行動の変化を軸に考える者は、「成功の保存」を前に頭を悩ませることになる。


形のないものに、形を与える。
与えられた形は、外形を不変のものとし、時間に対する耐圧を獲得する。

しかしその形はかりそめの、擬制であらざるを得ない。
残余を、行間の存在を前提とした実体化には、その前提を遵守する謙虚さが伴う。
これが、技術革新に伴う跳躍を自らに許した、発祥の者達の認識である。

 × × ×

「真実の献身」と「虚偽の献身」は、区別されえない。
「誠実さ」および「真性さ」は、コミュニケートされえない。
しかし「個人」は「彼」を信頼しうる。
「彼の誠実さ」はコミュニケートされずとも、それと知れうるからである。

ルーマンはこのように言う。
では同じく、こうも言えるだろう。

「献身」の「真実と虚偽」は、区別されえないが、そうと知れうるものである。

(偽善という発想は、「誠実さ」がコミュニケートされうるという誤解に基づく)


コミュニケーションには乗らないものがある。

たとえばそれは個人の内面であり、彼の内面である。
それらは、互いに内に閉ざされ、各々の身体という二重の壁に阻まれて見える。
しかし実際は、その二重の壁をすり抜けて、内面同士が照応し合う。
このことは、コミュニケーションの結果なのか、前提なのか。

内面の明示化、などと言われることがある。
それは記号であり、方便であり、端的に嘘だ。
それは、コミュニケーションに乗らないものを無理に乗せることである。
そうして、コミュニケーションの内実は重層化し、理解は表層化する。


「成功」の確約は、「成功」の質を落とさずには叶わない。
同時に、その質を落とさない唯一の方法は、それと知らずにいることだ。
そうして、存在を認識に従属させる方便が、さらなる内面の変容を導く。

「唯一の逃げ道」は、轍の消えた、かつて通りし獣道である。
 

「ここですね、ここにサインをお願いします」
「何の書類ですか?」彼はきいた。
「誓約書ですね、子供を引き取ったということに対する」
「いや、引き取ったのではない。自分の子供です」
「うん、でも、引き取ったことにした方が、結局は、処理が簡単になると思います。どうします?」
「なんでもいいですが」
「じゃあ、とりあえず、サインを」
 これまでに何枚の書類にサインをしたか、と思いながら、彼はそこに名前を書いた。世の中、肝心なことにはサインをする暇はない。どうでも良いことになるほど、サインが必要なのだ。
「はい、どうも......、これで、来月から、たぶん、手当もつくと思います」
 片手を軽く上げて、部屋を出る。外でまだ二人が立ち話をしていた。
「誰が墜ちたんです?」一人が彼に尋ねた。
「さあ......」彼は知らない振りをした。
 死んだら、誰が自分のための書類にサインをするのだろう。それとも、死んだときのための書類は、もうサイン済みだったか。そうだ、とっくにサインをしたような気もする。

森博嗣スカイ・イクリプス』中公文庫

香辛寮の人々 2-10 存在と意味

 
「僕にも昔ね、気になる女の子がいたんだよ。小さいんだけど妙に落ち着いていた。女子には珍しく女子同士でグループを作らずにさ、男子たちのノリにたった一人で違和感なく混ざりながら、その表情には妙に惹きつけられる可愛さがあった。
 ふつうの女子にはないような両極端な性質があって、でもバランスが悪いというのでなく、極端な性格の一つひとつが彼女の存在感を補強するような、不思議な統一性があったな」
「へえ、そうですか!
 聞くだに、フェンネルさんの好きそうな人ですね」
「わかるかい」
「はい。だって、わかりやすい人に興味ないじゃないですか」
「そんなことはないよ。
 わかりやすさの裏に潜り込めれば、そこには未知の世界がある。誰にしても、その当人にとってもね」
「そうかもしれません。みんな生活上の付き合いばっかりで、深堀りしませんものね。
 それで、その女性とはどんな関わりがあったのですか?」
 
「うーん、それがねえ、あったようななかったような」
「む? あれですか、お得意の『純粋な観察対象』というやつ」
「失礼だな。やりとりはいろいろあったさ。
 在校中の半分くらいは一緒のクラスで、その間は取り立てて喋った記憶はないけれど、卒業してからの方がなぜか付き合いが増えて、何度か旅行に行ったこともある。グループでだけれど」
「はあ。それもまた不思議な展開ですね。どうしてそんなことに?」
「僕なりに、具体的な行動を起こそうとしたんだ。大学に入ればクラスの目は気にならなくなるし、一年ずれたけれど同じ大学にもなれた。それがきっかけだったかな。
 ああ、無闇に周りを意識するのは昔も今も変わっていない。今はその自意識過剰を制御できる理論というか、知性を組み上げているけどね」
 
「そうですか。では、フェンネルさんの青春はその頃ようやく花開いたと」
「いやほら、そこはだから複雑なところで。
 ディルウィード君に失礼だと言ったのは言葉の綾で、正直なのは君のよいところで、つまりは正解だということで…」
「ええと、つまり?」
「一緒にいる機会は増えたが、ただそれだけのことだった。いわば間近で観察してたわけだ。これは君としては純粋な観察とは言えないことになるのかな」
「いや、別にそれはどちらでも構いませんが。すると、フェンネルさんが起こした具体的な行動とは?」
「それでおしまい」
「えええ!」
「おしまい、さ」
「えー。もう少し参考になる話かと思ったのに…」
「いやいや。落胆するにはまだ早い。話はまだ始まってないんだから」
「??」
 
「君は同学科のアニス嬢が気になるという。それは好意かもしれない。はたまた愛情かもしれない。彼女が君をどう思っているかはわからないが、それは二の次。まずは君自身の気持ちを君の中で解明しておいた方がいい。そのために僕のなけなしの青春時代を掘り起こしているわけだけど」
「はい。でも別に、フェンネルさんとその人との間には、何もなかったのでしょう?」
「その通り。僕と彼女のあいだで、どちらも相手に踏み込む行動を起こさなかった。そして彼女が僕をどう思っていたかも、全くわからない。
 それでも確実に言えることが一つだけある。僕の彼女に対する関心は、クラスが一緒だった当時から現在まで消えずに残っていること。これは考えてみれば、すごいことじゃないかな?」
「ほへー。するともう十年以上の片思いなわけですか。
 ああまた、フェンネルさんそうやって『片思いがプロセス志向の最たる恋愛の王道だ』とかなんとか言うんでしょ。結局それって『若者よ悩め苦しめ』ってバジル爺のいつもの繰り言と同じじゃないですか」
 
「待て待て、早とちりはよくないぜ。こういう問題への実際的なアドバイスは世の中どこにでも転がっているから、そういうのを欲しければ拾いに行けばいいさ。でも君はそうせずに、僕という人間を知っていて、その僕に聞きにきたのだろう?
 なら話は早い。何事も『話は全然早くない』ところがスタートなんだから
「またそんな…」
「特に人と人との関係には時間をかけないと、必ず失敗する。というか、成功しても失敗しても得るものが何もない。これを『無時間モデル必敗則』という」
「言いませんよ! ぷんすか」
 
「ごめん。真面目にいこう。話を戻すと、えーと何だったかな」
フェンネルさんの『若かりし何事もなかりし日々』についてのお話でした」
「まあまあ、怒るのもそのくらいにして。ちょっとコーヒー淹れようか」
「あ、自分がやります。フェンネルさんは座っててください」

────

「面倒な話になるのはいつものことだが、そこは我慢してくれ。
 僕がその彼女のことをいまだに考えているのは、僕が彼女のことをどう思っていたかが未だに呑み込めないからだ。当時はそれはシンプルに好意で、だから相手にそれを伝えられないことを片思いだと考えていた。でもね、進展しないまま付き合いが途絶えてから、あれは憧れだったんじゃないかと思うようにもなった」
「それは同じことなのでは?」
「違うんだ。異性としての憧れじゃなくて、人間としての憧れのほう。だから、憧憬の内容を具体的にいえば、僕が彼女のそばにいることではなくて、僕が彼女のような人間になるってこと」
「うむむ。そんなこと、あり得るんでしょうか?
 異性に憧れるというのはその人と、恋愛とか、あと結婚もなのかな、そういうプライベートな関係に至ることしかないように思いますが」
 
「それがねえ。だから僕もディルウィード君くらいの頃は同じことを考えてたさ。だけど長じてみると、そうだな、時間をおいて経験が客観化されるのと、本とかで知識を仕入れたりすると、話はいつもそう単純ではないとわかるようになるんだ。だから…」
「え、じゃあこの話って、自分にはフライングってことですか?
「いやいやいや。それは違うというか、知らないというか…まあそんなことはいいんだ。それも含めて話は単純じゃない」
「……もう何でもいいです」
「うんうん、話を戻そう。
 
 好意ではなく憧れなのか。しかもそれが異性を恋愛感情抜きで見る姿勢だという。この考えは、僕が当時二人の関係を積極的に進展させなかったことの言い訳にも思えた。僕が彼女みたいに明晰で冷静で透明な人間になりたいと思って、それを目指すのだとすれば、その僕の意志にとって、僕と彼女の関係に心を乱されることは邪魔になる、というわけさ。
 まあ確かにこれは、傍にいていろいろ想像するだけで充実だという片思い状態と見分けがつかない。
 うん、同じだ
「あれ、話が違ってきてませんか」
「ちょっと。もう少し待って。考えながら喋ってるから質問は最後にしてくれ」
「……」
 
「好意か憧れか。それはどちらが正しいかではない。どちらがもっともらしいか、でもない。過去の自分の心の状態を問うているわけだけれど、それは今の自分とつながっているんだ。だから歴史の同定とか過去の確定とかいう問題じゃない。
 そのどちらを取れば、現在の僕自身に資するか。意味があるか。発見があるか。関係そのものは一旦終わっているが、その関係がいまだに自分に問いかけてくること。これを正面から受け止めれば、回想はプラグマティックに行われなければならない。そして、そうやって腰を据えた今まさに生み出されたのが、第三の解答だ」
「第三ですか……いえ。邪魔はしません、続きをどうぞ」
「それがね、最近読んだ本で、非常に面白い小説論でさ、ページを繰るたびに思考が刺激されて疲れちゃって、読み終えるのにけっこう時間がかかった。いや、今君と喋ってて、その内容が天啓のように閃いてね。『主語が述語に根拠を与える』という…これだけ言っても意味わかんないんだけど」
「根拠、ですか? 文法の話でしょうか」
 
「違うんだ。たとえばね、『この物体は青い。』という一文があるとする。これが物体=青い、でないことはわかる。ひっくり返して『青いは物体である。』としても通じないからね。でもふつうは、英語でいうbe動詞で結ばれる主体と客体は、一方通行であれイコールのように使われている。
 でもそれだけじゃない、というか、文として全く別の機能をもつ種類のものがある。さっきの例でいうとそれはこういうものだ。『青い』は『この物体』によってその存在、手応えを保証されている。『この物体』がなければ『青い』の実体はなにもなく、空虚に過ぎない、と。ややこしいだろう」
「……?」
 
「この例じゃわからないね。元の話題に即していえば、そうだな、『私はあなたが好きです!』という告白。
 これはふつうに考えても事実というよりは、未来を見すえての意志が含まれているよね。お互いもっと知り合いたいとか、将来あなたを幸せにしてみせますとか。こういうのは言語学的には、行為遂行的言明というらしい。これに対して天気予報なんかは事実認知的言明という。
 それはいいんだが、さっきの『主語が述語に根拠を与える』というやつね。この見方でみると、この告白は『私の「好き」という感情は、あなたの存在によってその根拠が与えられています』ということを意味する。どうだい」
「…なんだか、シンプルな告白の、意味がぶ厚くなったような感じですね。当たり前のような、そうでないような、不思議な感触の言葉ですね」
 
「うん、僕もよくわからないんだけど、まずここには時間が介在してるよね。私があなたを好きだという状態がポンとあるだけなら、それは瞬間でもありうる。そうではなく、私の「好き」という感情、これは言葉でもあるけれど、そういう抽象的でもありうる曖昧なものが、あなたという存在によって確たる手応えを得ていて、その手応えはあなたと私とがある関係をもつ限りにおいて維持し続ける、あるいは強まったりする、弱められることもありうる、という」
「この告白そのものが、力を持っているみたいですね。好きだと相手に言うことでその好意に気付く、とかもっと好きになる、とか」
 
「そうだね。そういう側面もある。でもね、僕が言いたいのはつまりこういうことなんだ。
 『存在が意味の実質を生む』。意味というのは、単語ごとにいくつか備わっていて、それを組み合わせて文章や発言にして相手に伝えたい内容を伝えるものだとふつうは考えるよね。これは言葉のツール的な、道具としての側面。でも、それは意味の発祥の形ではないし、辞書が整備されれば意味はもう生まれないのかといえばそんなわけもない。
 言葉になる以前のものを伝えるための言葉は、辞書的な意味だけでは力不足だ。定義された意味は社会の共通認識であるとともに、コミュニケーションの微妙なニュアンスの中でその定義から外れていくための土台でもある。その動機、つまり定義から外れて、個々の関係において独自のニュアンスを創造していくモチベーションはどこにあるか。それが『存在』なんだ。『存在が意味の実質を生む』の意味はここにある」
「うむむ。気の遠くなるような…では話を戻していただくと、どのようになりますか」
 
恋は人間を成長させる、かな」
「いきなり俗に戻ってきましたね。今までの話はいったい…」
「うーん、まあそれはいいんだ。こういうのは断片だけ印象に残れば、のちのち必要な時に浮かび上がってくるから。ディルウィード君、話に整合性を求めすぎると禿げるよ
「何をまた。フェンネルさんの方が…」
「み、皆まで言うな。墓穴でした。。
 
 そうだね…君のアニス嬢に対する気持ちが何なのかは、あまり決めつけない方がいいんだが、アプローチを変えてみるのも一興だよ。
 つまりね、それを恋心だと仮定すれば、ディルウィード君のイメージする恋愛という言葉にひとつの実質が与えられるわけだ。すると、小説や哲学書なんかを読んだ時に、そこに書いてある出来事や論理と、君のイメージとを比較することができるようになる。その比較によって、君の恋愛という言葉が新しい意味を獲得して、君がアニス嬢を見る眼もそれに応じて変わっていく。
 大事なのは、彼女と君との関係が恋愛かどうかではなく、君と彼女との関係を通じて恋愛とは何かを知っていくという姿勢なんじゃないかな。関係は固定しようとするより、変えていこうとする方が面白い。恋愛はそう言えると思うよ、結婚はまた別かもしれないが」
 
「なるほど。
 自分は考え方が保守的になっていたような気がします。いや、でも積極的に行けばいいわけでもないですよね…そうか、彼女のことをちゃんと見た方がいいとおっしゃるんですよね。言葉に囚われ過ぎるのはよくないと」
「そう。言葉は媒体だからね」
「難しいですね。彼女と喋っていても、一言一句に敏感になっちゃうもんなあ。
 そういえば、話を蒸し返しますが、フェンネルさんの『第三の考え方』でしたっけ、結局あれは何だったんですか?」
「ん? なんだっけな。えーと、恋でも憧れでもなく?
 
 ああそうそう。つまりね、あれは僕にとっての宿題なんだ。『存在が意味の実質を生む』。僕にとってはもう十数年会ってすらいない彼女が、いまだに意味ではなく存在として僕の中にいる。それは端的には謎で、謎だという認識は昔から持っていたけれど、君と話していて気付けたのは、彼女が存在であり続けることによって、それが僕の現在と未来の経験に対して相互作用をすることで新たな意味の実質を生み出す可能性を持っているということ。だから第三というのは、『未確定』か、『募集中』でもいいな」
「ははあ、前向きですねえ。とすると、彼女に会ってみたいとは思わないんですか?」
 
「どうだろう。会えば何かが更新されるか、別の何かが生まれるか、あるいはデリケートな何かが脆くも崩れ去るか。起こりうることが想像できないから、どちらでもいいのだと思う。
 それは巡り合わせ次第だけれど、星が回るためにも、少なくとも生きていては欲しいね。その辺がちょっと危うい子だったから」
「えっ」
「彼女のことを透明だと言ったよね。そういうところにも当時は憧れたんだと思うけど。
 卒業文集か何かにさ、当時流行っていたアニメで、朽木ルキアに似てるって書いたんだよ。誰も同意してくれなかったけど、顔が似ていた。でも今思えば、本質的には黒崎一護の方が近い。教室とか何かの集まりでいつの間にかいなくなることが多かったのは別にしても、『ふっと消えてしまいそう』な感じが、時々あった」
 
「すみません、そのアニメ知らないです」
「そう。僕もそんなに詳しくはないけれどね。有名な海賊アニメでたとえれば、サイボーグの逆三兄ちゃんが仲間になったぐらいまでしかフォローしていない」
「すみません、そのアニメ知らないです」
「そう。……アニス嬢に嫌われちゃうかもよ」
「!!」
 

出生率改善の劇薬、野党「ババ抜き」必敗則

『老いてゆく未来 GRAY DAWN』(ピーター・G・ピーターソン)を読了しました。

2001年出版、原著は1999年でデータは当時のものですが、
少子高齢化問題について包括的な考察がなされています。
未来予測というより問題提起に力点があるので、
統計データが古くなっても、読む価値があります。

何より、当時よりも当の問題が身に迫ってきていることは、価値をむしろ上げている。

というわけで、本を考えるために読む僕にとっては格好の素材本で、
読中に考えていたことが多くまた広く、とても整理仕切れませんが、
なかでも印象に残ったことだけ書いておきます。
付箋貼りすぎて引用箇所を探すのも面倒なので、
本書の内容もつい今しがた読み終えた自分の記憶からの参照です。

 × × ×

ひとつめ。

少子高齢化と切っても離せない出生率の低下ですが、
その原因について言及された本は何冊も読みました。
その中で世界的傾向として正しかろうという論はエマニュエル・トッドのもので、
女性の識字率の向上(教育機会の増大)と、…あれ、もひとつ忘れました。

ほかには、家族単位の縮小(核家族化)、個人主義、現在主義、晩婚化、
中流家庭の収入減少と養育費の増加、…
原因というか、次元の違うのがいろいろ混ざってますが、
まあいいとして、
本書には僕が今まで聞いたことのない項目が原因として挙げられていました。


それは「年金」だそうです。

本書は世界のデータを取り上げていますが、著者在住のアメリカの事情が多くて、
そういう前提で書きますが、

年金とはもともと戦後の傷病者などの、
社会的事情に起因する困窮者を対象とした制度が発祥で、
それがだんだんと全国民(の高齢者)に対象が広げられていった。
そこには、若い世代が親世代を養う経済的負担を軽減する意図もあったらしい。

 賦課方式の年金というのは、経済成長を前提としていて、
 年金を積み立てた世代とそれを受け取る世代が異なる。
 積み立てる方の人間が増え、またその額も増えるという前提があって、
 若い頃に積み立てた人間は、自分が払った額よりも多くを老後に受け取れる……

いや、賦課方式にしろ積立方式にしろ、年金の役目は、
高齢化して仕事効率が下がり、収入が減ったり無収入になった時の保険にある。

このことが意味するのは、
親の自活能力が低下した際には子が支えるという家単位で閉じていた扶助活動に対して、
年金という公的な金銭的補助はその代替手段となる
、ということ。

だから、年金があるなら親の面倒みなくてもいいじゃない、
という考え方は当然生まれる(というかもともとあった)。

これを親の視点に切り替えれば、
年金がなければ老後の世話は自分の子供に頼らざるを得ないが、
年金があれば、選択肢はひとつではなくなる。

自分の子供に(将来)頼らなくてよい、という選択は、
自分に子供が(生涯)いなくてもよい、という選択と、
ものすごく近いところにある。

もちろんここには、子育ての喜びみたいな、非金銭的価値が存在する余地はない。
拝金主義と合理的思考の正義があって、初めて身に迫る考えなのでしょう。
個人主義や現在主義とどちらが先なのか、とりたま(鶏と卵)ですが。


よって、たとえば、
本当のホントに出生率を上げることが至上命題なら、
年金制度をやめちゃえばいいのでしょう。

「子どもを産みたいから産む」よりも、
「子どもを産まないとどうしようもなくなるから産む」方が、
圧倒的にインセンティブ高いですからね。

という発想は今まで見聞したことがなかったように思います。
…このこと(発想が初耳だという)自体にも興味が湧いてきます、
年金制度を疑う発想が出現しないほどその存在が当然になっている、とか。

あ、該当箇所あったんで抜粋しておきます。

世界中の国の人々に、自分の子供を将来の財政的支援の供給源と見なすかどうか尋ねると、肯定的な回答の比率は、当の国の貧困や出生率と正比例して増加する。それに加え、国が豊かであるか貧しいかにかかわらず、公的年金制度の給付額もまた、多ければ親は子に経済的に依存しなくてすむから、子供を産む産まないの選択に影響を及ぼす。東欧と旧ソ連のほぼすべての国には巨額な年金制度があり、出生率は低い。一方、一人当たりのGDPがほぼ等しいイスラム国家(たとえばモロッコチュニジア、トルコ、イランなど)の裕福な階層の年金制度は不十分だが、出生率は高い。 p.171-172

 
 × × ×
 
ふたつめ。

…やっぱり抜粋しないと話が始まらないので抜粋します。

両派〔右派と左派〕が一致しているのは、ここ数十年もの間、大人の時間と努力、子供に注ぎ込む公的財源、私的財源が明らかに減少しているという点である。アメリカ上院議員ダニエル・モイニハンは、われわれが「子供の育て方を忘れた初めての種」となるのではないかと思っている。(…)
 この傾向の社会的影響が広がれば、経済への影響は明らかである。次世代の人的資本は危機的状態にある。その危機はあまりに深刻なため、専門家の多くは、今後の労働者賃金の伸び率見通しにおいて、加速が現実的な目標なのかどうか疑問視している。次世代の労働者が、現代の世代が押し上げた生産性のレベルまで高められるかどうかでさえ、疑っている人は多い。これが、今日の長期的な財政見通しのベースにある重要な仮定なのであるが。 p.175

正規雇用の開放政策とその結果としての非正規雇用の増加を考えると、
これは現代日本にもそのまま当てはまる指摘です。

で、引用最後の一文を見て「あれ?」と思う。

太字部を読み替えると、
労働者の賃金の伸び率や生産性の向上が長期的な財政見通しを明るくする、
ということが財政戦略上の王道であるといったことのはずですが、
今の日本はその真逆を、しかも財政戦略の要として進めている。

非正規労働者の増加が国民間の収入格差を広げると言われ、
日本政府はそれを推進する政策をとっているわけですが、
これを「財政を悪化させたい」という自爆的な動機に基づいているとは考えない。

やはり財政を健全化したいと思ってやっているわけで、
そうするとその元というか裏にはなにがしかの戦略があるはずで、
その戦略は上述の「王道」とは違う戦略であるはずで。


たぶん、
「二極化」と言われている両極の「上の極」に頑張ってもらおう、
ということなのだなと、引用文を読んでいて思いつきました。
代表的には大企業、グローバル企業、ですね。
彼らがより儲けるには、「下の極」、下流の非正規雇用からより多く搾り取る。

そうして搾り取られた世代は「再生産」、家族を養う余力を失うわけで、
この財政戦略は一世代を消費し尽くしてその命脈が尽きることになりますが、
短期利益しか頭にない株式会社ライクな政府はそれを欠点だとは考えない。


…あ、別のところを読んでいて思いついたことなんですが、
野党の政権奪取というのは全部「ババ」ではないかと思いました。

欧米の二大政党制というのは、
主義主張の違う二派がつねに理念と政策を闘わせて、
一方が過度に突出しないように、時に応じて与党が入れ替わる、
二派の勢力は拮抗しているのが理想であるもの(のはず)。

日本の与野党はその二大政党制をモデルにしようとしたのか、
その辺は全く詳しくありませんが、まあ似ても似つかないのは確かで、
「野党は批判オンリー政党で政権担当能力を持たない」などと言われ、
東日本大震災の際の民主党が結果的にその典型例だと見なされていますが、
それが野党に能力がないのではなく、野党の機能そのものだったとすれば。

つまり、政府与党が政治的危機に陥った時に、
では我々がと野党が矢面に出てくるわけですが、

そうして実現する政権交代は、
「失敗した自民党よりもまともな政治を行うこと」
 ではなく、
「失敗した自民党よりさらに失敗して『やっぱり自民党だな』と思わせること」
 が、
目的であるというか、成功であると。

政治の実質も何もありませんが(これを劇場型政治と呼ぶのだったか)、
役割が明確でバランスが良いといえば、そうなのかもしれません。
まあ、スキル的には役者ですね、大根でもいいが胆力だけが要求される。
下手に正義感や責任感に駆られると命を落とす、メンタルな綱渡りに耐える胆力。

「末は博士か大臣か」とかつての日本で言われていたようですが、
大臣が憧憬の対象だった時代というのは、
なにもかもが本当に素朴だったのだと思います。

その素朴な時代の価値観で育てられた現在の世襲政治家や、
彼らが牛耳る政治の世界で立身出世を遂げた他の政治家が、
政治理念を持つことは…

考えても仕方のないことですね。
なんでこんな話に。。

 × × ×

余力がなくなってしまいましたが、
「高齢化」というのは現代のあらゆる社会問題とつながっている、
という印象を読後に強く持ちました。

最後にひとつ引用しておきます。

現在主義と消費主義がつながり、
また消費至上主義と相性が良い現在の若者が「老いた幼児」に見える、
その若者の青春が投資的冒険ではなくひたすら現状維持の消費に向かう、
そういったことを連想させる単刀直入な指摘です。

市場原理主義的な言葉遣いには馴染めませんが、
ある面では鋭く本質を突ける利点もあり、
現代日本には相当浸透した表現でもあるのでしょう。

労働者にとって、自分以外の誰かに使う収入というのは、その支出が自分の子供に対する任意の犠牲であろうと、税金から年金となって見知らぬ退職者に支払われるものであろうと、負担という点では変わりがない。とりわけ本質的には、私的支出において投資か消費かは区別されない。高齢者に支払われる年金は、本質的には消費であり、子供に使われる金は投資である。 p.130

 
 × × ×
 

「真実はいつも一つ」どころか無限に増殖しているとすれば

 
毎日新聞書評欄の、ちと古い2020.12.19号を読んでいて、「ん?」と思いました。
 
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 × × ×
 
原発事故後に福島の支局で取材をしていた朝日新聞記者が書いたというルポルタージュ『白い土地』(三浦英之)の書評で、評者は国際政治学の岩間陽子という人。

様々な理由から報道されなかった「不都合な事実」を本書で知り、評者はこう書く。

一体いつから私たちは、瓶詰のベビーフードのような情報にならされてしまったのか。刈り込まれた盆栽のような、行儀よく整った報道を、当たり前と思うようになってしまったのか。
 報道はそれ自体が「他人を傷つける」という行為を内包している、と著者はいう。私たちは、いつの間にか、真実が人を傷つけることを忘れてしまっていた。風評被害を避ける」ため、地元を傷つけないためと称して、事実が覆い隠され、オブラートに包まれ、捻じ曲げられていく。「白い土地」に広がる闇は、都会に住む私たちに届けられることはない。

毎日新聞2020.12.19(土) 第11面「今週の本棚」

単語の連なりから評者の言いたいことはわかるのでさらさらと読み進め、
でも一度「あれ?」と思って止まったのが下線部の一文。
とりあえず最後まで読んで、もう一度戻って、でも「あれ?」はそのまま。

 「不都合な事実」が報道されないのは、
 「真実が人を傷つける」ことを念頭に置いてというか、
 過剰に意識しているからではないのか?

ではこの一文は述語が間違っているのか、それとも別のことを表現しているのか。
…という評者の意図詮索はそこそこに、僕の中ではまた違う思考(以下参照)が動き出しました。
 
 × × ×
 
評者がここでいう「真実」は、事件や事実というフェーズではなく、一つ繰り上げた、それらに対するメディアの姿勢であるところの「不都合な事実を覆い隠して報道しないこと」を指している(としよう)。

その「真実」が明るみに出ない(出さない)ことを前提にメディアは手前勝手な忖度、上っ面の気遣いを大義名分に報道を捻じ曲げるが、その姿勢には、「真実」が知られてしまうと、つまり隠していた内容がその隠蔽姿勢とともに暴露されてしまうと最初からその内容を事実として報道するよりもずっと当事者を傷つけてしまうという認識が欠けている。

それはそれで事実ではあり、でも「真実」という言い方はちょっとズレるような…
という違和感がまた新たな思考の端緒となる。


普段使いの「真実」が指すもの、それはメディアの文脈では「中立的な報道」であり、今やそんなものはないのですが、つまりこの「真実」とはイデア的な何かである、と。

 実際にそんなものはない、
 でもそういうものがありうるとして目指すことに意味がある、
 ようなもの。

それはまあよくて、
ではその普段使いの方ではなく、書評から僕が勝手に読み取った方の「真実」とはなにかといえば。
それは、その逆を考えればよくて、イデア的でないもの全て、生情報、養老孟司氏が解剖対象の死体を指していう「なまもの」である。


情報というのは「なまもの」を記号化したもので、言葉だって同じ側面がありますが、そこではイデアならではの真実性(真か偽か)の判断ができます。
たとえばそれは純粋な論理の問題でもあるし、歴史事件を情報化した歴史事実との照合性の問題でもある。
言い換えると、というかほぼ繰り返しですが、
情報は「なまもの」ではない(なぜなら情報は「なまもの」を記号化したものだから)。

しかし、情報を扱う者は、本人もその行為もすべて「なまもの」である。
「扱う」とは、それを客体として用いる主体がいるということで、これを逆から見れば、記号化とは脱主体化でもある


工藤新一が「真実はいつも一つ!」などと言うわけです(@名探偵コナン)。

その発言はもちろん、容疑者に紛れた犯人が言うウソは真実ではないという認識に基づくのですが、
犯人がウソを言った、という行為そのものは「真実」です。


このような考え方で世の中を見ると、
人が何かをするたびに、「真実」が一つ増える。
本人がどんなウソを信じて、そのウソを広めたり、「いやホンマやねん信じてえな」と強弁したとしても、そのことで彼は「真実」を一つ増やす。

だから、人類社会の規模を考えると「真実」は無限増殖しているに等しい(と近似できる)。
この「無限」のスケールは、人間の認知能力に対する相対的なものです。
だからAIの処理能力がどんどん発展していけばこれが「有限」になり、計算処理が可能になるかもしれない…のですが、それはまた別の話で、統計処理はまたスケールを殺す記号化です。

話を戻して…いや、逸れてないのか。


「真実」の膨大な増殖、実はこの認識はきわめて人間的なのではないか、
とふと思います。

ただ、情報社会ではこの膨大さが尋常でなくなり(逆から考えれば、遠距離通信が手紙とか伝書鳩の時代を想像すれば、ある人間にとって、身の回りの人々の行為がもたらす「真実」の増加は、身の丈に留まるものだったのではないか)、それを「真実」であると認識することに疲弊し(事実そんなことしてたら「発狂もの」だと思います)、記号化による「なまもの認識の外部委託(アウトソーシング)」をどんどん推し進める過程にある。

その弊害として、
ポストトゥルースだの、
歴史修正主義(言語論的転回がその前段だそうですね)だの、
やってる感(それっぽさ)至上主義だの、
その全部を「脳化社会」(@養老孟司)の必然過程として語れるような現状がある。
 
 × × ×
 
僕自身はつねに「身体性の賦活」を念頭に生活し思考していますが、
「なまものとしての真実認識」というコンセプトは新しいなと、
書きながら考えながら自分で感心してしまいました。

 百聞は一見に如かず、
 この「一見」こそが自分にとっての「真実」である、
 という気概。

このコンセプトはプラグマティックでもあって、
では現代社会で「外部委託」をしないで済む生活方法とはどのようなものか、
を考える入り口を与えてくれるからです。


勝手に「塞翁が馬」だと思ってますが、
昨年末に首をケガしてからボルダリングを長期で休んでいて、
(これはかなり良くなってきて、来週には再開できそうですが)
その代わりに読書熱が倍増して頭の回転も前とは違ってきて、
いやこれは『自己言及性について』(ルーマン)の影響が多々ありそうですが、
なんにせよ、コトはどう転ぶかわからんものです。

 …読み返してて思いついちゃったんですが、
 上で書いた「人が何かをするたびに「真実」が一つ増える」という、
 この認識はルーマンのコミュニケーション論的には、
 彼のいう失望に対する「希望」ではないかと思います。
 というのも、
 「真実」の発生とは、コミュニケーションの成功のことなのだから。


ああ、首のケガについては、完治する前に経過を文章化しておくつもりです。
また登り始めると前のことなんてどうでもよくなりそうなので、予告的メモ。
ボルダリングと漢方」というタイトルになると思います。
 

「TRAVERSES/6」を読む (2) - 言葉は社会を動かせない

 
2021.1.16追記

タイトルで言いたかったことが本文に尽くされないまま途絶しているので、最初に要点だけ。

仮説ですが、六十年代後半からの世界的な若者の運動、それに呼応する現代思想の躍動がバネにしていたのは、「強い(鋭い)言葉は社会を動かすことができる」という認識ではなかったのかと考えています。

それがどこで反転したかは歴史に疎くて言えませんが、実質より論理重視、いや「先に言ったもの勝ち」で論理的に見えせすればそれでよいという、現在あらゆる場面で見られる言説傾向は、その「強い・鋭い言葉信仰」の反動ではないか。

そしてその反動がもたらしたのが、
メタファーとか類推とか、読み手の想像力の自由を前提にした「曖昧な」言葉の軽視。
言葉の道具的使用ともそれは合わない、
なぜなら明確な目的も明示できる内容も持たないから。
人によって解釈が分かれたり、いくつでも意味がとれるような言葉はコスパ概念でいうパフォーマンスがない、正しくない(これだけは正しい認識だが)ゆえに実質がない、などと思われている。

言葉に対するこのような姿勢には、言葉は社会どころか個人を動かすものでもない、そして言葉において重要なのは「それっぽさ」であって、言葉が自分に響く前提にその言葉の「それっぽさ」との照合がある、といったニヒリズムが感じられる。

敗戦が戦前の価値観を全否定したように、言葉による社会改革の失敗を、言葉の無力という確固たる認識に転化したことを真摯な反省だと思ってはいけない。

言葉の原点を忘れてはいけない。

言葉には個々の受け手があり、
一人が自分の中に言葉を浸透させた結果として初めて、
「言葉は個人を動かす」。
それは対面でも、紙面を通しても、ネットを介しても変わらない。
 
 
これ以下の文章はかなり雑然としています。
「いつもそうやんけ」と言われると…沈黙。

 × × ×
 
2021.1.上旬

だが人々が支配者を「もはや愛さない」ということ──権力者のイメージがもはや父の、庇護者の、長兄のイメージと結びついたり混同されたりしないということ──はまちがいなく現代の最も確実な、最も希望のもてる成果のひとつである。つまり民主主義とは根本的に無機的なものであり、またそうあらねばならないのだ。その長所のひとつは、制度的関係と人間関係の、政治的絆と感情的依存との、また同意とヒエラルキーへの愛との乖離を維持しうる点にまさしく存在する。だがこの乖離を維持することは一見したよりはるかにむずかしい。実際、個人の関係も政治的関係もひとしく、仲間うちで「有機的な」相互依存を形成するという危険な傾向をもっている。それは関係そのものへの執着にほかならない。

グザヴィエ・ルベルト・デ・ヴェントス「意志と表象としての政治」p.100

通念とは逆の価値判断がいくつも配置された、難しい一節です。
ただ、その「逆」の説明論理が進むうちに別の通念と結合すると。驚きを覚える。

慣例や常識は社会でそのつど起こる集合的経験が生み出すもので、
時を経れば、また制度や法律が変わればその各々が対立することがある。
社会の自浄能力とは、社会がその対立を解消する、つまり慣例や常識を更新できること。
…社会を擬人化してますが、つまりは「そういう社会システムが設計されているかどうか」。


引用の内容に戻ります。

「無機的な民主主義」とだけ書かれると、なにか「冷たい社会」を思わせますが、
民主主義であれ何であれ、それが制度であるなら無機的であるべきである。
これは妥当な一般論であり、引用した文章のベースにある認識かと思います。

筆者が挙げる「維持しうる乖離」の三組は、対応する順番は前後していますが、
どれもその次文にある「個人の関係」と「政治的関係」の対の例であると読めます。
この後者は、集団関係、匿名性に基づく関係、などと読み替えればわかりやすくなる。
「個人的関係」も「政治的関係」も、複数の人間のあいだにある関係に違いありませんが、
前者にあって後者にないもの、それは身体性、身の丈感覚といったものです。

引用後半で、「有機的な相互依存」が「危険な傾向」であると指摘されています。
それが危険なのは、それが「関係そのものへの執着」に転化しやすいからで、
その転化を抑制するのが、先に挙げた身体性や身の丈感覚であると僕は考えます。

 「人間味のある政治」と言えば温かみがありそうでポジティブに聞こえますが、
 政治家が政治の場で人間味を発揮することは、実は誰も望むべきではない。
 政治とカネの問題、汚職事件は制度や法律の抜け穴が利用されている面がありますが、
 当事者は誰しも「人間味を発揮」することで不正に手を染めるからです。
 …これは別の話でした、また戻ります。


いや、戻ると言いながら引用を離れるんですが、
この論文集を読み続けていて、全体的に感じるところがありました。

論理をギリギリと研ぎ澄ませる、あるいは詩的表現を爆発させる。
内容はわからないながら、そういう強い意志を文章に感じました。
そしてその勢いがどこを目指しているのか、を考えました。

それはたぶん、
「社会を動かすための言葉」
を、見つける、創る、発する、
といったところにあるのではないか。

吉本隆明谷川俊太郎か忘れましたが、
「世界が凍りつく一言」という言葉を見た覚えがあります。
言葉にはそういう力がある。
そう信じられた時代は、確かにあったのだと思います。
それを無垢に信じた者こそ、その言葉の担い手にふさわしくあった。


そして今は、
そういう時代ではなくなったのだと思います。
では当時が適していたのかといえばそういうわけでもなく、
「言葉が社会を動かす」ことのリスクが、
ローテクの当時よりも情報化社会である現代の方が圧倒的に高い
ということです。


原理的に考えると、
言葉が動かせるのは、
ある言葉がその内で響いて行動を起こさせるのは、
人ひとりだけです。
言葉がひとつの意味を持つのは一人の人間の頭の中だけのこと。
この原理に従うならば、
言葉が社会を動かすというのは、
その言葉に感銘を受けた一人が、
ただ一人だけでなく沢山いる場合を指します。
あくまで、その言葉を受け取る「個人」がそこには必要だ。

ただ、そう、
言葉へのこだわりは、「言葉そのもの」へのこだわりに転化する。


「やってる感」という表現が最近よく使われています。
ちゃんと仕事をやっている、役割を果たしている、ように見えることへの執着。
この「ように見える」ことの主体は誰でしょうか?
「やってる感」を判断しているのは誰でしょうか?

特定の個人ではない。
おそらく、そこに「社会」というものを擬制している。
仲正昌樹のいう「みんな」でもいい。

便利で無時間的な現代社会の随所に配された「落とし穴」の先に待ち受ける、
この「もとの目的を離れた手段への執着」
というのが、
どれも危険な傾向に思えます。
リーズナブルに見えて、実質がどんどん骨抜きになっていく。
便利さの追求が、ほどなく易きに流れていく。


話をタイトルに戻します。

人を動かす言葉。
現代は、それが特定の個人を想定しないで生み出されています。

たった一人の人間だけを動かしてもペイしない。商業主義。

そして、そういう言葉にも人は学び、順応します。
「人を動かす言葉」とは、個人そっちのけでいかに「それっぽい」かである、と。

そして「個人そっちのけの言葉」がその人のためを思って個人に向けられる。
それに違和感をおぼえる人のほうが「人間味がない」と言われる。
順応は連鎖します。
 

個人と集団とは、「志向」が違います。

個人が目指すものと、集団が目指すものは、だいたいが対立する。
集団の維持が個人維持の前提にもなるわけで、そこで妥協するのはほぼ個人です。

ただ、個人の志向が全て失われるともはや個人でなくなるわけなので、
個人は各々「ここから先は"集団"には入らせない」というプライベート領域を確保する。
物理的には家(部屋)がそうだし、意識でいえば好き嫌い、価値観、考え方、等々。
 
どうも、「鶏と卵」でどれが最初かというのはわかりませんが、
現代は過去のどの時代よりも、「集団の志向」が個人に入り込んでいるように思えます。

個人の人権、プライバシーの思想などは個人の志向の尊重の流れに見えます。
学校の制服廃止、一家で一人一部屋なども、子供を個人として尊重する方針に見える。

ただ、こう書いていて気づいたんですが、
個人の意識のほうに「集団の志向」がどんどん侵食しているのではないか。
衣食住をはじめとした、物理的な条件や制度法律が個人を尊重するようになった反面、
「個人の領域」を確保したはずの一人の人の頭の中が、知らず集団志向になっている。

言葉が道具化していく傾向と相関があるかもしれません。


…また飛びますが、

未開の文明を下に見る西欧中心主義を覆すきっかけはレヴィ=ストロースですが、
そうした文化人類学等の学問の進展が進歩史観を突き崩してきたことがまた時を経て、
思想の自由の実質を失うこと(これは「退歩」です)への無関心をも生み出した。
進歩がないなら退歩もない、というわけ。


話がごちゃごちゃし過ぎています。
僕自身が深い関心をもつテーマがいくつも混在しているので、
また改めて考え直す機会が、必ずあると思います。
 
 × × ×
 

若い女の子が大好きで、浮気ばっかりしてたのだってそう。根っこはひとつよ。そういうドラマみたいなことばっかり続けてないと、生活していかれないのよ。そんなふうにしてはしゃいでいないと、生きてる実感がしないのよ。
 石津さん、あたしね、小さい時には相当に父に可愛がられたの。チヤホヤちやほや、宝物みたいに扱ってもらった。だからあたし、父が大好きだったわ 。父にとっても、あたしは自慢の可愛い娘だった。すっごく美しい関係でしょ? 父はあたしという娘じゃなくて、そういう美しい関係を愛してた。だから、あたしが幼くて自分の意思を持たなくて、お父さんの可愛い人形でいるうちは山ほどの愛情をかけてくれたってわけ。(…)」

宮部みゆき『R.P.G.』集英社文庫,2001

 
 × × ×
 

Metaphorical Multiple Reflection

 

「共通する3つのモチーフ」

  • あらゆるものを見、体験する旅。

  (内面と事物の創造的対応、象徴が現実を生むこと)

  • 無関心でいられないこと、理解欲は生命力。
  • 不可視にいたる門は可視であらねばならないこと。
「新たな問い」

  • 旅の終わりは変化の兆し。

  (そして旅は終わらないこと)

  • 知がかたちを始め、かたちが知を終わらせる。
  • 希望はつねに身近にあらねばならないこと。

 
 × × ×
 

類推の山 (河出文庫)

類推の山 (河出文庫)

世界が個人になってきた

 この理論は、非蓋然的なコミュニケーションを三つの基本的諸問題の諸側面に関して蓋然的なコミュニケーションへと変換する際に必要とされる一連の媒介物を包みこむ一般概念を要請する。そのような媒介物を「メディア」と称することとしよう。
「第三章 コミュニケーションの非蓋然性」p.55-56
ニクラス・ルーマン『自己言及性について』

これは第三章の「メディアの概念」の節の冒頭文です。

こんな面倒な調子で文章は続くんですけど、
回りくどさと断定キッパリさが並存して訥々と続くと、
そこに奇妙な説得力があるように感じられてきて、
見限って読み飛ばさず、立ち止まって考える気にさせられます。

そうして4ページばかりにうんうん唸っているうちに、
面白い考えが浮かんできたので、私的読解を織り交ぜながら、
そこまでたどり着けるようになんとか書こうと思います。


この節でルーマンは「三つの異なった種類のメディアの意義および作動範囲」への言及を通して「メディア」の分析を試みています。
と、この括弧書きは抜粋なんですが、こうして三つと言いながらその三つは具体的に明示されておらず、不親切なんですが、この本の原著タイトルが「エッセイ」なのでまあ仕方ないか…と思う箇所だらけですが(だから「翻訳が悪い」という可能性はとりあえず考慮外)、それはさておき。
僕自身の考えが膨らんだから、というヨコシマな根拠による僕の読解によると、その三つとは以下のようです。

  1. 記録(=有形化、空間に対する固定)
  2. 保存(=不変化、時間に対する固定)
  3. 「第三の種類のメディア」

この三つが並列されるような同位相であるかは疑問なんですが、ルーマンのエッセイは「既存の単語を既存でない概念・意味で用いる」ことが常態化しているので、とりあえずそこは深くツッコまないことにします。
この言語運用法は、言語(発話)の限界に挑戦し言語の機能を拡張しようとする一方で、表現された文章の一般性(文法や論理に従えば誰もが一定の理解や結論を得られること)を著しく損なう側面もあるんですが、この話もまたエッセイの別の箇所のテーマであって面白いんですが今は深入りしない。

さて、「第三の種類のメディア」についてはこう書かれています(p.57-58)。

第三の種類のメディアは、シンボルによって一般化されたコミュニケーション・メディアといえるであろう。というのは、それらだけが効果的にコミュニケーションの目的を達成するからである。社会システムに準拠して、[タルコット・]パーソンズは、この種のメディアの例示として、貨幣、権力、影響力、そして価値コミットメントに言及している。さらにこのリストに、科学の領域における真理を、親密な関係における愛を付け加えたいと思う。

[このメディアは、]普及技術によって対面的相互作用の諸境界が超越され、情報について正確な知識をもたず、またそこにいあわせない公衆のために、またいまだはっきりとは決定されていない諸状況のために貯えおかれることを可能にする場合にのみ成立する。換言すれば、それらは、一般的に利用可能な書き記すという形式の[持つ側面である]より重要なる発明に依拠しているのである。

[ ]内は引用者付加

先に並べた三つの種類のメディアは、この引用にある「第三」の例示と性質を対照の基準として僕が考えたものです。
…いや、違いますね、すみません。
「第三のメディアだけが効果的にコミュニケーションの目的を達成する」というルーマンの断言をスタートに、ルーマンのいう「コミュニケーションの目的」を思い起こし(それはエッセイのもっと前半に書かれていたはず)、三つのうち残り二つはこれとは対照的な性質を持つだろうと仮定して、それに見合うものとして残りの二つを本節の文章から抜き出したのが上の1〜3です。

つまり、「第三のメディア」は、記録と保存が持っていない性質(「時間・空間に対する固定」に抗する趨勢)を持つものとしてその機能を効果的たらしめている、と考える。
すると、パーソンズルーマンが「第三のメディア」として例示したものが、(個人目線からは隠れていた)両義的な機能をもっている視点が得られる。

たとえば、貨幣、権力、影響力といったものは、これを扱う(特に他者より多く所有する)個人にとっては確定(固定)させたい対象ですが、これらメディアそのものとしては、それが個人に滞留するとメディアとしての機能は減じていくことになる。
「価値コミットメント」は、コミットメントの意味を関与や言及とすると、批評活動や議論・意見交換などを指すと考えられます。
つまり、ある存在価値に対する関与・言及によってその存在価値を変化させるムーブメントのことで、これはそのまま変化することがメディアの機能になります。
「科学の領域における真理」、あらゆる科学的言説は仮説であって反証可能性がその存在根拠であることを思えば、真理が「不変の真理」として固着してしまえばそれはメディアとしては死ぬことになります。
「親密な関係における愛」、この愛を共有する人々の意思はその不変と永続を願うものですが、幸せと同じく愛とは加速度(傾き)であり、元の形を留めないことがその状態の持続条件です。

…こうして例を検討していくと、「第三のメディア」というのはすべて、メディアの志向とその所有者の志向が逆向きのベクトルであることがわかります。
考えてみれば当たり前のことで、特にお金については昔も今もうるさく言われ続けていること(たとえば「守銭奴」と「金は天下の回りもの」)です。
でも、現代社会のことを考えると、「第三のメディア」に対するバランス感覚が崩れてきて、両者のうちの「所有者の志向」を強調、重要視する流れがあるのだと思います。


ルーマンは、文明の発展に伴うこの「第三のメディア」の種類の増大(社会システムの分化)が、コミュニケーションの諸可能性が増大する程度と相関するといいます。
しかし、コミュニケーションの普及や到達の可能性が増大することは、その成功(相手の理解やその行動変容のきっかけとなること)の非蓋然性を増大させることでもある。

社会システムの分化とは、たとえば学問や職業の専門領域の細分化による増大のことですが、そうして増え続ける個別領域(これはまた恣意性の増大でもある)をシステム内に取り込むには、「恣意性を、たえずさらに広範に制度化していく必要が生じる(p.59)」。

このことを、僕は「恣意性の普遍化」と読み替えて、なんだか二頭の牛に両手を繋がれた人間が引き裂かれるようなムチャな話だと思ったのとは別に、「そもそもこれは人間の志向そのものじゃないのか」とも思いました。

僕自身は橋本治森博嗣の著作を多く読み込んで感じるようになったことですが、専門性とか、自分自身のことを深く深く掘り下げていって、その先に普遍的な思考や価値観を見出すことが人間にはできます。
この意味では「普遍性」は「一般性」とは違います。
…すごくテキトーな言い方をすれば、普遍性は「よく考えればあたりまえ」、一般性は「表面的にわかるあたりまえ」。
世の中が回るには表面的な理解に基づいたスピードが必要でもあって、必ずしも普遍性は世界の現実(プラグマティックな価値観)に対して妥当であるとは限らないんですが、知性と時間への信頼に基づいた思考が到達するのが普遍性。
んーー、でもこれ余計な脇道でした。忘れてください。


話を戻すと、
ルーマンの論理を僕の関心に引きつけて解釈すると面白いアナロジーが出てきたという話で、

社会システムはその運用過程で「分化・特殊化に向かう傾向=恣意性の増大」と「制度化による秩序形成=普遍性の増大」という逆向きの二つの傾向を持つ、それは文明が発達するほど顕著になるもので、今世界で言われる様々な「二極化現象」をその現れと見ることができますが、その二極化のベクトルは一個人が内に抱え込んでいるものでもあって、個人においては身体性がそのバランスを取り持っていて、だからこそ「現代社会で取り戻すべきは身の丈感覚である」という言説が説得力を持つんですが(これは僕も強く同意します)、

世界が、文明が、自らの二極化傾向を顕著にしてきた現代というのは、
この世界文明が「一人の人間」としての姿を現してきた時代なのではないか。

そういう視点をもったときに、
「世界の中に生きる自分(個人)」が、
昔と今とでその感覚が随分と変わってくるなあ、と。


個人の感覚が変わってくるというのは、
それに応じて集団内で個人を律する道徳や倫理も変わらざるをえない、
ことも意味します。

それは「一人の人間としての世界」の自己破綻や自殺を防ぐために、
必要不可欠なことなのかもしれません。
 

「TRAVERSES/6」を読む (1)

 
20世紀末のフランス思想誌(の翻訳)なるものを読了しました。
テーマは、冷戦とか、共産主義とか、ポストモダンとか、第三次世界大戦とか…

世紀末の政治 (TRAVERSES)

世紀末の政治 (TRAVERSES)

  • メディア: 単行本

近現代の世界史(=本書を読む大前提の知識)に疎い人間が手を出す本ではなく、
ただ「今村仁司監修」という文字(と価格の安さ)につられて手に取ったのでした。

正直言って難し過ぎて、1割も理解はしておらず、
わかる文章だけ拾おうと思って読み始めたのが…だいぶ前です。


なんとか橋本治本(難解でもわりと前知識無用)に食らいつくように読むだけは読んで、
おかげでわからんなりにスゲー! と思える人(ルーマンとリオタール)にも出会えて、
頑張った甲斐はあるにはありました。

記録として寄稿者を列挙しておきます。
少なくとも名前は聞いたことが…という人は下線。

 アレクサンドル・ジノヴィエフ
 ジャン・ボードリヤール
 クロード・ジルベール
 マルク・ギヨーム
 セルジュ・ラトゥーシュ
 ジャック・ドンズロ
 フランソワ・リオタール
 マルク・ル・ボ
 グザヴィエ・ルベルト・デ・ヴェントス
 マリオ・ペルニオラ
 フィリップ・キューヴァル
 ミュニッツ・ソドレ
 マイケル・マッカンレス
 ルネ・シュレール & ガイ・ホッケンゲム
 レックス・バトラー
 ポール・ヴィリリオ
 ベネッタ・ジュール=ロゼット
 ダリュシュ・シャイェガン
 ニクラス・ルーマン
 ルイ・マラン
 ティモシー・シモン
 シルヴェール・ロトランジェ
 パオロ・ファブリ
 今村仁司(監修者あとがき) 

内容について批評や分析ができるはずもありませんが、
今村氏があとがきで言ってくれているように、
自分の「関心に応じた素材」、思考材料として利用させてもらおうと思います。

 とりあえず、核心になると思われる論点を指摘したにすぎないが、本書の諸論文は、現代が直面する主題・課題・様相を多面的に提示している。読者はそれぞれの関心に応じて自由にこれらの論文をさしあたっての素材として利用されることを希望する。

「監修者あとがき」p.317
文末の日付は、1991年10月20日

…あえて抜粋する文章でもありませんが、背中を押してくれるようでもあるので。
なんだか学生の気分ですね、久しぶりの感覚。

ついでのちなみに、僕は(自称文系の)工学部出身です。高校は理数科(へんなの)。
学部時代の三度の文転(経済・文・法)は軽重あれど全て未遂に終わった過去を持つ。
 
政治思想や歴史の内容云々にはとっつきようがないので、
「言葉」の使われ方や意味などに反応していくと思います。
 
 × × ×
 

権力とは、自らが、あるいは人々が設定するその対象がしばしば幻想であったとしても、また個々人の同意がたいていの場合形式的であったとしても、行使されうるのだ。端的にいえば、権力はこうした限界内でのみ、社会的政治的形式の一状態を保つという展望においてのみ行使されうるのであり、このことがおそらくは今日の劇的変化の特性なのである。

クロード・ジルベール「契約の終焉」p.34

権力志向は、「上を目指す」と言われるように変化を求める形態もあるはずですが、
このように言われると、本質的に保守的な姿勢なのかもしれないと思います。
持てるものを増やしたいというのは、今持っているものを失いたくないことでもある。

そして対象が「幻想」や「形式」でも行使されると言われれば、
会社や組織に限らずあらゆるところに権力(を行使できる場面)があり、
それは対他的でないところ(つまり自分一人の事情の内側)にもある。

そう考えると、権力志向の増進は社会生活に「不変のもの」が溢れてきたことと対応する。
傍目には劣化しない生活品だとか、電子信号、データだってそうですね。
その傾向が「本人の意思に関わらず」という面もある。

だからこそ、その自覚が重要だと思うのですが。
 

オーウェルは文学作品[『一九八四年』]を書くことを通して、理論は官僚主義支配に抵抗しうる様式ではないことを示唆する。理論と官僚主義支配との間には、むしろ類似性ないし共犯関係がある。両者は共に、自らが関わる領域を完全に管理しようとするからである。(…)ところで、ヴァルター・ベンヤミンが指摘していたことだが、語り手は自らが語る世界に常に巻き込まれていく。それにひきかえ、理論家はどんな場合も、自らの対象を概念的に練り上げる操作に巻き込まれることはないのである。

フランソワ・リオタール「抵抗線」p.75

科学は政治利用されやすい。
そうして科学の皮を身に纏った政治は「他人事」風情になりがちですが、
その因ってきたる性質が政治ではなく科学のものだ、と考えられます。

また、「科学主義」という思想を考えれば、組織だけでなく個人の問題でもあります。
理論と官僚主義の類似性は、科学主義信奉者が管理社会を望む傾向をも示唆する。
それは、管理する側だけでなく、管理される側の人間にも当てはまるように思います。
 

瞬間と個別性とに対するこの殺戮との対照として、ヴァルター・ベンヤミンの『一方通行路』と『ベルリンの幼年時代』を構成する短い散文を援用したい。テオドール・アドルノであれば、これらの散文を「ミクロロジー」と名づけたことであろう。(…)ある言葉との出会い、ある香りとの出会い、ある場所との出会い、ある本との出会い、ある顔との出会い、こうした出来事を作り上げているのは、他の「出来事」と比べた場合のその新しさなのではない。こうした出来事はそれ自体で密儀の価値をもつ。それが知られるのはもっと後になってからでしかない。出来事は感受性にひとつの傷口を開いた。それが知られるのは、ひそかでおそらくは気づかれることのない時間性を刻み取りながら、その傷口がその後に再び開いたからであり、これからも再び開くからである。この傷口が未知の世界へと入り込ませたのである。しかも全くそれと気づかせることなく。密儀は何の手ほどきもしない。それは始まりを告げるのみである。

同上 p.78

美しい文章だと思いました。

「密儀」の価値、それは無時間モデルでは表せず、他人と共有もできない。
その価値を得るには、時間への信頼、あるいは時間への諦念を前提とする。

この消費社会で、「密儀」の価値を教えてくれるものが、あるでしょうか。
また、それを肯定してくれるものが。
 

 少なくとも二世紀にわたって、近代性は我々に政治的自由、科学、芸術、技術の拡張を欲するよう教えてきた。近代性が我々にこの欲望を正当化するよう教え込んだのは、この進歩が人類を専制政治、無知、野蛮、悲惨から解放するはずだと言われていたからである。共和国、それは市民たる人類である。この進歩は今日では開発というさらに恥ずべき名のもとで追求されている。しかし、人類全体の解放という約束によって開発を正当化することは不可能になっている。この約束は守られなかった。約束の不履行は約束の忘却によるのではない。約束を守ることを禁じるのが開発そのものなのである。新たなる文盲、南と第三世界の人民の貧困化、失業、意見の独裁政治、したがってメディアに影響された偏見の独裁政治、性能の高いものが良いとする法則、こうした事柄は、開発の欠如に起因するのではなく開発に起因している。それゆえに、もはやそれは進歩とは呼びようもない。

同上 p.83

太字部を最初に読んで、その表現に衝撃を受けました。
それで印をつけていたのですが、今抜粋してみて、考え込んでいます。
構造主義的発想なのはわかりますが、一体どういう意味だろう?
レトリックに気をとられて、具体的な内容を考えていなかったのかな。

「約束は守られなかった」、ただ未来にそれを達成する努力を続けている、
という目標を掲げているのなら、その達成により約束は守られるのではないか?
いや、そもそも「約束を守ることを禁じる」という言い方が、
その目標の実現性(がゼロに近いのだとしても)とは別のところを指している。
 
…たぶん「開発の正当化」というのが、僕がよく使う言い回しであれですけど、
「発明は必要の母」という科学技術観を指しているのではないかと思います。
つまり、目的とか用途は、発明が生まれたその「後にくっつける」ものだという考え方。
名目の曖昧な予算があって、それを(次年度も欲しいから)使い切るために使うのと一緒。

発明の、つまり開発の本質が「出たとこ勝負」なら、約束もへったくれもない。
 約束が(主体の意思の問題や不手際等によって)守れないのではなく、
 約束が(「開発の正当化」という前提によって)禁止されている、
ということだろうか?

文脈からすれば唐突な解釈ですけど…

(つづく)