human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

ポスト・トゥルースの意味

 
ルーマンの文章はことさら、その文章だけ読んで何を言っているかがさっぱり分からない。
だからその文章に補助線をいくつもいくつも、たくさん足すことになる。
すると当然その理解は自分(の文脈)だけのものになるが、同時にもう一つ気付く。
補助線を描き入れて何らかの形を見出したルーマンの文章こそが、思考の補助線であったことを。

 × × ×

オートポイエティックな閉鎖性という考え方は、二分的選択が強制されるという機能の理解を可能にする。システムはそのオートポイエーシスを継続でき、また停止できる。システムの活動は、意識の状態の生産を、ただ終了するだけという選択肢とコミュケートすることを、継続できる^{*33}オートポイエーシスの観点では、第三の状態はない。これはパワフルな技術的単純化である。(…)社会システムができることは、ただコミュニケートするだけである。生命システムは、生存できるだけである。(…)オートポイエーシスを継続するかしないかということは、諸可能性の全体という内部的代理表象として役立つ。起こりうるすべてのことが、システムに対して、これら二つの状態の一方へと縮減される。世界は、それがなんであれ、この問題に対し無関心であろう。システムは、この選択をつくりだすことによって現れる。

社会のオートポイエーシスは、理解不足やあからさまな拒否反応にもかかわらず、その継続を保証する強力なメカニズムをつくりだしてきた。それは、相互行為上のコンテクストの変更や、再帰的コミュニケーションによって、継続する。コミュニケーションの過程は、コミュニケーションそれ自身へともどり、みずからの困難さをコミュニケートすることとなる。(…)このテクニックを用いるシステムは、みずからのオートポイエーシスを終了させることはなく、また終わりがくることもない。

*33 : それゆえ、この理論[=オートポイエティック・システムの一般理論:引用者註]の「最終目標」は、完全な状態という意味での「目的(テロス)」ではなく、まさに逆である。すなわち、再生産されゆく不完全で非蓋然的な状態によって回避されなければならないゼロ状態である。もっとも基本的な方法において、この理論は、反 - アリストテレス的傾向を有している。

「第一章 社会システムのオートポイエーシス」p.26-28,37-38
ニクラス・ルーマン『自己言及性について』

まず自分の読み込みの話ですが、

註33について、文章をそのまま読んでよくわからなかったので(註のついた一文のもってまわった言い方を僕は「システム主観」と呼びたい)、ここにある「最終目標」とは、文末を少し言い換えて”ゼロ状態を回避すること"だと理解しました。
そして「アリストテレス的傾向」とは、たとえばイデア的観念論、本質のイデア化、のようなことだと思います。
イデアが理想だとして論理が終わると、コミュニケーションも終わってしまうので。

また、これはただ連想だけを放り出すんですが、「パワフルな技術的単純化」について、たとえばウィトゲンシュタインの「語りえぬことについては沈黙せねばならない」という言葉がそれなのかな、と。
それは意味のオートポイエーシス・システムにおける閉鎖性の機能を表す言葉である、と。
オートポイエーシス・システムの構成要素が開放性と閉鎖性をもつことが、そのシステムの維持の前提だということです)
では開放性の方はなにかといえば、たとえば詩の活動や、辞書の改訂など。

あともう一つ、「再帰的コミュニケーション」、「みずからの困難さをコミュニケートすること」、これらは僕らの身近なコミュニケーションの例でいえば、メッセージに対するメタ・メッセージに注力することですね。

 × × ×

ここからは、記事タイトルに寄せての自分の連想と思考が主体の話です。


オートポイエティック・システムというのはあくまで一つの見方、観察方法なのですが(以下、システムと呼びます)、

いちどシステムとして生まれたものは、機能を持ち、システム維持という目的を持つ。
システムは維持するか廃棄するか、のどちらかの選択を常に行っており、その中間はない。
己を廃棄するという選択をし続けることも可能であるが、そういう事態を回避するための高度な機能も有している。
システムの(構成)要素の選択(たぶんルーマンが「出来事」と呼ぶもの)が、システムの維持か廃棄のいずれに寄与するかは、自己維持というシステムの目的とは関係がない。

いや、「関係がない」というか、システムの要素とは社会システムであれば僕らのことですが、僕らはシステムの維持(人類の滅亡を避けるとか、SDGsとか)にもちろん関心はあり、その関心に沿った活動がシステム維持に寄与することもあるわけですが、システム理解のためにはまず「それはまた別の問題である」と考える。

ルーマンはシステムの機能である自己言及性について、その構造レベルの自己言及性と、内部要素における自己言及性を分けて考えろというのですが、僕らのこの関心や活動とは、後者を指すのかもしれません。


それで本題ですが、

アメリカのトランプがその流れを決定づけたといわれるポスト・トゥルース社会、「真実のあと」、たとえばそこでは事件や現象、その歴史的事実や科学的正当性の「それそのものの力」が減殺されている。
事実や正当性の内容よりも、それを誰が言ったか、どう伝わったか、といった形式に重きが置かれる。
「誰が言ったか」、その回答として重きがおかれるのは、二極化が進むといわれる格差社会における上位の人々です。

別の側面からすればそれは論理の軽視、反知性主義のあらわれでもある。
そして言説のすり合わせ、論理の吟味、それらの機会が失われることは、ある面におけるコミュニケーションの減少である。
というのは、そこでは「再帰的コミュニケーション」がはたらかないから。

前にルーマンの「情報」「伝達」「理解」という三要素を取り上げました。
システム内のコミュニケーションの継続のために、これらは適切に相互作用をし、また継続のために適宜重み付けがなされる。
この要素を身近に引き寄せて使いますが、今の社会状況は、「伝達」のみがクローズアップされ、残りの2つが置き去りにされているように見える。
「伝達」だけでは、新しいものを何も生み出さない。
システム内のコミュニケーションは停滞する。

 × × ×

閑話休題

話が全然まとまりませんが、結論らしきものへ向かいます。

システムの作動という観点でみると、現代社会の極端にみえる動きは、どれもシステムのもつ(自己維持の、あるいは自己廃棄の)機能によるまっとうなふるまいであるかもしれない……という印象をルーマンの本を読みながら持ちました。

事態を説明できることと、その解決に一歩を進めることの間には、千里の径庭がある。

そりゃそうなんですが、

システムを維持しようとするつもりがその廃棄に向かっているのだとして、
自覚というのは自分(あるいは社会)の行動の意味の理解のことですが、
その自覚によって進む道を修正する入り口に立てるのがまず一つ、
それは修正する気があるならという前提ですが、
もう一つはそれほど違和感なく現状維持に邁進できるようになること、
これはつまり「自分たちは破滅に向かっているけどまあいいや」という開き直り。


何をどうしたいのであれ、
やりたいと思う内容とその行動がズレたままそれを放っておくと、
現状は悪化しかしないし、
その悪化への対処が「現状と論理にどんどん鈍感になること」しかなくなります。
自分が望んでいる状態があって、
そこに至ったのに喜べないというのも悲しいことです。


自分は自分で、正しいと思うこと、世の中のためになると思うことを、
しようと思うのであれば、する。
そのうえで、でも周りの人々がそうしない、
また社会が自分(のような心持ちの人)を評価しない、
という嘆きが自分のしたい行動に水を差すようなことがあるならば、
わだかまりなく信念を行動に移すための、
その「わだかまりをほどくための理解」には、
プラグマティックな価値があります。

グラスルーツの活動には行動だけでなく思考も必要だというのは、
こういう理路によります(いきなり話飛んでますが)。


…タイトルに触れていないような。
付言します。

端的にいえば、
ポスト・トゥルースは、
意味の創造という側面のコミュニケーションの減少を招く。

別の言い方をすれば、
他者とのコミュニケーションにおいて、意味の創造が減少する。
物語や論理の捏造は、それを押し通すためのコミュニケーションに利用されるだけで、そのコミュニケーションが再帰的にはたらいて意味を創造することはない

ではこの流れ自体は社会システムの廃棄に向かうものなのか?
それはわかりません。
一面だけを取り出して総論の方向付けはできない。

でも、仮にそういう向きの流れがあるとして、
自分はそれに棹さすのは御免だと思うならば、
自分の地道な生活において言葉に対する姿勢もおのずと決まります。
 

重力距離の縮尺

「ピー、フィー」
 女は窓辺に駆け寄って、身をねじって探した。鷹の姿はどこにも認められなかった。しかし窓の外には思いがけない光景がくり広げられていた。向いの箱形のビルは黒々とそそりたつ岸壁に変わっていた。その隣りの白タイルの建物は山腹に横たう雪渓で、眼下の青葉を茂らせたニセアカシアの並木は、細長い森であった。女は森からたちのぼる甘い濃い香りを嗅いだ。山あいの村に、養蜂業者たちがトラックで運んでくる巣箱の周辺に漂う香りと同じだった。見慣れているはずの建物や街路に、いったい何が起こったのであろう。気温はさがっていないのに、女は急に肌寒さを感じた。自分が仕事をしているこの街は、たしかに都会の中心にあって、近代技術の粋をこらして造られている。でも実際は、はるか離れたあの山あいの村の模倣にすぎなかったのかもしれない。なぜならば高層ビルの山々と街路の谷間を見紛うことなく、断崖に巣くう土鳩をえじきにするために、鷹はこの都会にやってきたのである。女は両手で顔をおおった。あたしの目が鷹の目になってしまう……。

「主人公のいない場所 鷹の目」p.40-41
ジーンとともに』


人類は地球の陸地表面その一部に薄膜をめぐらせた。
道路も家も高層ビルでさえもほんの薄い膜の縮尺だ。
大地自然はその下とてつもない深さで蠢き活動する。
薄膜は破損しまた透けて見えるのは悠然とした大地。

自然は人の意識に関わりなく人の前に突然姿を顕す。
驚く人は自らが自然の一部であることを忘れている。
それから人は怯えうろたえはたと気付いて我に返る。
ちっぽけな自分は自然と一体であり全体でもあると。
 
安心するのも時にわからなくなるのもそのせいだと。
 
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こころのこどもとともに

 彼女はガールが運んできたミルクを飲もうと、つぼを傾けた。そのとき思いもかけず、つぼから流れでた液体が、紫の細長い滝のように見えてはっとした。それはすぐに影の悪戯、つぼの真上に干してあったスカーフの色が映っているのだとわかったが、つぼの注ぎ口からグラスへとつながった紫の帯は、生れて初めて出会う景色であり、感動せずにはいられなかった。こういうことが長い生涯のあいだに実にしばしば起こり、そのたびに彼女は新しい経験を積む子どものように歓喜に浸るのであった。

「主人公のいない場所 赤い山」p.23
加藤幸子ジーンとともに』新潮社

 
それが「初めて」のことならなんでも体験する。
目の前のことに「初めて」を見つけられるなら。
繰り返したはずのなにかを忘れていたとしても。
「初めて」の体験の中には必ず発見があるから。

行動の選択理由がおなじく様子見の理由にもなる。
直感は当てにすべき時と当てにならない時がある。
その当てにならない直感に気付く直感もまたある。
直感を助ける理性には大雑把な運用が求められる。

直感は変化に向かい、理性はその変化を許容する。
 
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システムの主観、遺伝子の語り

なにかが述べられなければならない。つまり、他者が存在すれば、すくなくとも善良で平和的な(あるいは邪悪で攻撃的な)意図が示されなければならないのである。

「第一章 社会システムのオートポイエーシス」p.14
ニクラス・ルーマン『自己言及性について』土方透+大澤善信訳、国文社、1996

 
「着実な隔日本」として、つまり長期にわたる、ちょっとでもいいから数日に一度は読み進める本として先日シュッツの『生活世界の構造』を読了した、と書きました。
これの前はアイン・ランドの『水源』で(半年くらい読んでた)、その前は忘れてしまいましたが、最近は「重め」を選ぶ傾向があり、では次はと一昨日手に取ったのがルーマンの本でした。

これもまた厄介そうで、長期のお付き合い必至ですが、テーマは興味があるので腰を据えて対峙するとします。
 

 社会システムは、オートポイエティックな再生産の特別の様式としてコミュニケーションを用いる。(…)コミュニケーションは、「生命体」に関する単位ではなく、「意識」でもなく、また「行為」でもない。このコミュニケーションの統一は、三つの選択、すなわち情報、伝達、そして理解(誤解を含む)の総合(ジンテーゼ)を要求する。(…)情報、伝達そして理解、それらはシステムの──システムにとって独立して存在することのできない──局面であり、それらは、コミュニケーションの過程の範囲内で、同時に造られる。

同上 p.11

 
ここを読むだけで、ルーマンのいう「コミュニケーション」が、僕らが日常的に人と交わすそれとは別の水準のものを指していることがわかります。

でももちろん、違うというだけで、関係がないわけではない。
その関係は目に見えず、幾重ものバッファを介して茫漠としている。
 

G・ギュンターによって提唱された術語を使えば、コミュニケーションの過程は、あるがままのものがあるといった意味での単純な自己自身に対する言及(auto-referential)ではないということができよう。それは自己自身の構造によって、他者言及性と自己言及性との分離、また再結合を強いられるのである。それ自身に言及することで、過程は情報と伝達を区別しなければならず、また区別のどちら側がさらなるコミュニケーションの基礎として供されると考えられるか、示されなければならない。

同上 p.12

 
文章に用いられる用語はそれほど専門的ではないが、日常語のようなそれらの意味が日常的な文脈から離れて使われているため、時間を要さない一読は可能であるものの、まず理解には届かないし、前後の文章の対応関係がちぐはぐになるため、その都度立ち止まってゆっくり考えるか、用語の定義的な文章に戻って照合する作業が求められる。

でもたぶんそれは、この本の読み始めに最も苦労させられる点でありながら、あるポイントを過ぎればルーマンの用語感覚に慣れて、一文ごとに考えさせられはするものの(それは僕自身はむしろ歓迎するが)、ページを行きつ戻りつする回数は減るのではないかという気もする。
 
まだ読み始めたばかりで言うのも何だけれど、ルーマンの文章は衒学的ではないし、支離滅裂でもない。
扱うテーマが日常言語から遠いこと、そしてルーマン自身がその「遠く離れたところの言葉」を我がものとして操れることが、そう思わせるにすぎない。


「システム」については、このブログの主要な関心ごとであって、言葉の定義も使い方もふらふら揺れながらであれ、何度も書いてきました。
それは僕自身が「システム」を理解するためですが、その目的のために、僕が書いてきた言葉は日常言語の論理が使われています。

ルーマンの文章はしかし、そういう頭の使い方で近づけるものではない。

だから、単純に文章の論理を理解するのとは異なる水準の手間がかかるのですが、そしてその作業を始めたばかりではあるのですが、この本は自分にとって重要だということは、既にわかっているような気がします。

 × × ×

システムは人が構築したもので、人が維持するものです。

単純なものから始まり、どんどん複雑にしていき、ひとりの人間ではその全てを把握できない規模にまで大きくしてきたのも、人です。
だから、人がシステムを理解できないはずはないし、扱えないはずもありません。

量が質に転化すること、構成が単純な部分の組み合わせが予測不能な「複雑系」を生み出すこと。
そういうことは事実としてある。
専門分化の長く続いた科学の発展が、分析の深まりを統合に生かすことを可能にしたとき、その事実に科学が追いつくための一歩を踏み出しました。

しかし、「発明は必要の母」となった現代では、工学は理学に先行し、産業は工学に先行する、つまり「実用」が理念に先行する。
科学の分析力の向上は、科学が扱う分野をさらに広げ、また従来は手を出せなかったその分野を科学的価値観に染め上げることもする。

「わかるとはわからないことが増えることである」、学問の基本姿勢は学問の現場では建前として生きながら、その実際(政治・社会・生活)的な利用においては「わかるとはわからないことをゼロにしていくことである」というモットーに成り替わる。
僕はプラグマティズムを「あらゆる主体の生きる方針」と理解していますが、そう考えたとき、「実用」とは何か、それはそれを問う主体の価値観によって様々に異なる、ということになる。
 
…散漫な話を戻します。

システムをつくる人、維持する人、集団の統治に利用する人、構成要素としてその中にいる人。
今並べたこれらの人のなかで、「システムの主観」にいちばん近いのは、最初の人です。

「システムの主観」とはなにか。
それは、システムが人の言葉を借りた時に、システム自身について語られるものです。

それはシステムの自己観察、作動についての語りかもしれない。
でも、一人の人間の主観ではない。

上で「複雑系」の話をしました。
人が作り上げたものだが、複雑化によって、独自の言語で語らねば理解できなくなったもの。
システムはおそらくそのようなものの一つです。
というより、いくつもあるそのようなものの上位概念をそう呼んでいる。

だから、システムの設計者が「システムの主観」を理解しているとは限らないし、おそらくはしていない。
母親が我が子の思考回路を理解することはないことを思えば、当たり前のことではあります。
 
システム運用者は、その全容把握を曖昧にしながらもなんとかやりくりをしています。
極端にいえば、出たとこ勝負、あるいは自転車操業、的な側面もある。

致命的なリスクへの対策は準備しておきながら、個々の障害はそれが発生してからデバッグにかかる対処療法。
これ自体は人間の生活的ふるまいとして普遍性があるといえます。
知識がどれだけ増えても、即時的な活動はルーティンや慣用知がメインとなるし、わからないことに対しては姿勢で備えるしかない。

システムの複雑化は、「致命的なリスク」の重篤化と、その予測不可能性をもたらしました。
それによって、システムの運用には、際限のない精緻化要求と、埋めようのない不安が伴う。


……ここまでのシステムに関する記述は、すべて日常言語によるものです。
つまり、システムに当事者として組み込まれた人間の価値観が表れたもの。

そして「システムの主観」は、これらとは異なる論理と価値観をもっています。
 
だから、「システムの主観」を人間が、たとえばシステム運用者が理解したからといって、その運用技術が向上するとか、リスク管理がより適切になる、といったことはない。
でも、もっと大事なことがわかるようになる。

 「僕たちはなにをつくりあげたのか」

母子のたとえをもう一度使えば、それは「親は我が子のことなんて理解できないのだ」という涼しい達観と似ているかもしれません。
その達観は冷静な知性の活動を呼び込み、今考えるべきことに対峙する勇気と必然をもたらします。

 「AIが人の仕事を奪うようになる」という。
 ではそのAIとは何か?
 AIが姿形不明の影でなくなれば、
 それが奪うといわれる仕事の意味もわかる。
 AIが労働をして給料をもらうのだろうか?
 いや、そうではない。
 そもそも労働とその対価とは何であったのか?
 それは歴史上ずっと変わらないものなのか?
 それとも、今ここで大きく変わろうとしているのか?

バタフライ効果」という言葉があります。
南アフリカの一匹の蝶の舞いが、アメリカ大陸に大型ハリケーンをもたらす。
この表現は卓抜ではあれ、何かについて理解をもたらすわけでもないし、不安を解消してくれるわけでもない。
どちらかといえば、「理解なんてできないよね」「不安は抱えてかなくちゃしょうがないよね」という諦念の表現です。

それを一種の「知性の居着き」の状態ととらえるならば。

それとは別の道があり、
ここにその一つが示されている、
ではちょっと、その道を歩き始めてみようか。

そう思ってルーマンの本を読み進めてみることにします。


(引用の内容に触れるの忘れてました…

ので、少しだけ触れておきます。
「システムの主観」の言葉が僕らに与えてくれる認識は、
「ぼくらはシステムを通じてなにをしているのか」です。

システムの運用事情とは別に、
ぼくらは日常生活の必要に引きつけてシステムを利用します。
けれど時々、自分がシステムに利用されている気分になる。
それは、どちらとも考えられる気持ちの問題かもしれない。

でも、もしかすると、両者の認識には境界があるかもしれない。
その境界を明らかにしてくれる論理が存在するのかもしれない。

たとえば引用後者の下線部、
「過程は情報と伝達を区別(しなければ…)」というその、

情報と伝達を区別しているのは誰か?
情報と伝達は同じ主体が担っているのか?
その区別の評価(「区別のどちら側がさらなるコミュニケーションの基礎として供されると考えられるか」)をしているのは誰か?
評価主体は情報と伝達を担う主体と同一であるべきか?
あるいはその各々が異なる主体となることで、どのような事態が生じているのか?

生活感覚から離れて設計されたシステムを利用するのが生活の場であっても、そのシステムの理解を生活言語のみで行ってスムーズに事が済むとは限らない、そこで生まれる違和感が必然のそれとは限らない。

それを試し、確かめる機会を、生活の場に設けることは可能です。)
 
 × × ×
 

「殻を破りなさい」と。その声に従ってはならない理由は何一つなかったので、私はふにゃふにゃの首を懸命にたて直し、そこだけは幾らか固まっていたくちばしでやみくもに部屋の壁をたたき始めた。
(…)
 とうとう殻に細い割れ目が走った。私はそこにくちばしを入れて、ぐりぐりとこじ開けた。ぐしゃりと音がして、私の頭は卵の外に出ていた。初めて対面する楕円形ではない世界に、体内時計の針が時を刻みはじめたのはその瞬間からだった。どうして、と問われても答につまる。私は生まれつき時計をもっていたのだし、そのとき動くように予じめ決められていたのだ。
 ふたたびあの声が聞こえた。
「時間は容赦なく進みます。一刻も早く”地上”に出ましょう。今はそれがいちばん大切なこと。もうむだなことをする余裕はないのです」
 声の響きはやわらかく優しかったが、同時に疑問を放ったり、抗ったりすることができない力強さがあった。私は素直に声の指図に従った。

ジーンとともに」(加藤幸子ジーンとともに』新潮社、1999)

 
ルーマンのことを書こうと思って、「システムの主観」という言葉を思いついたときに、同時に読んでいるこの本のことを連想しました。
(この本を読むきっかけは梨木香歩の『ぐるりのこと』に書いてあったからです)

そして、短編タイトルの「ジーン」について、これは登場主体の鳥の名前だろうという先入観から読み始めていたのですが(ちょっと前に読んでいたオノ・ナツメの『ACCA 13区監察課』の主人公の名前がオータス・ジーンだったというのもある)、この認識は短編を数ページ読むうちに修正されました。

それはさておき、
いや、この本を子ども(たち、図書館なら)に読み聞かせなんかしたら面白いだろうと思うんですが、
それもさておき。


「感情移入」というのは人に限りませんが感情をもつと想定される生物に気持ちとしてなりきろうとすることで、いや生物に限らずヤオヨロズ・イマジネーションで何でもかんでも憑依して表現することを「擬人化」といいます。

僕の頭の中でつながった上記の二冊は、安直にも「システムの擬人化」と「遺伝子の擬人化」として括ることは可能なんですが、いや、それは違う。
両者とも、そう言い表されるような姿勢から程遠いところにいます。
その説明はとても難しいのですが…


今思ったのは、"彼ら"が自らの言葉をもって語ることについて、
「人間っぽさ」よりも「人間でないっぽさ」に注目したい
そこに驚きたい、という思いがあります。
だから、人の言葉を借りているとはいえ、
彼らは感情を持たず、人から遠く隔たるように感じられる、
でもそれを人は言葉を通じて感じることができる。

 「人間っぽさ」とはそれだけ相対的であり、もっと言えば「狭い」。

そしてそれが同時に意味するところは、

 「人間っぽさ」の範囲は可動であり、「広がる」余地がある。


「人間以外」を人に近づけるのではなくて、
「人間以外」をそのままに、人がそちらに近づいていく。
そうして人が「人間以外」のほうへ拡張していく。

言葉にはそういう力があり、
それは主に文学の力だと思っていたのですが、
ルーマン加藤幸子氏の出会いをここに見て、
学問にもそういう力があると改めて思いました。
 
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 × × ×

ジーンとともに

ジーンとともに

ぐるりのこと(新潮文庫)

ぐるりのこと(新潮文庫)

Can one speak about unspeakable? (6)

 
沈黙を思う。


ひとりの沈黙。
共同的な沈黙。

ひとが誰かといる時、
その場に一緒にいることがコミュニケーションとなる。
何かを伝えあい、なにかが通じあう。
意図から外れて、意図をすり抜けて。
沈黙は二人のかたわらにつねにある。

雄弁の沈黙、無口の沈黙。
それは空白、余白とも呼ばれる。
余白のないコミュニケーションを想像してみればよい。
彼らは息つぎができず、息がつまり、息も絶えだえとなる。
沈黙は恐いか、しかし沈黙は空気だ。


空気の沈黙は内なる沈黙を囃したてるといわれる。
隙間があればそれを埋めようとする意思がはたらく。

だが隙間は埋めるべきものだろうか、
路肩ではアスファルトの継ぎ目に雑草が生える、
雑草の意思はその隙間を埋めることにはない、
隙間であろうがなかろうが彼らは所構わず繁茂する、
そこは空間であり空気のあるところすべてである。

彼らは沈黙しているだろうか、
彼らは沈黙なのだろうか。
草木とともにある人は彼らの声を聴く、
その声は沈黙の声か、沈黙を破る声か。
耳をすまさねば沈黙と関われないのだとすれば、
それはそのどちらだろうか。


鼓膜はつねに震えている、
空気はつねに振動し身体もつねに振動する。
耳が聞くのはすべての振動でありノイズであり、
沈黙が一切の音と無縁であるならば人の手には届かない。

しかし人は沈黙という言葉を生み出し感じるに至る、
その過程は絶対でなく相対というのでもなく、
たどり着けない星を仰ぎ見る彼方の理想というでもなく、
沈黙である者を見た誰かが、
自分との違いを明白に感じたからだ。

沈黙である彼と沈黙でない彼とがその場に居合わせたからだ。

沈黙はそこにある、ただ注意深くあらねば近づけない。
その近寄りがたさに驚いた彼がそう名付けたのだ。

繰り返すがそれは絶対でなく相対というのではない。

そして沈黙は普遍である、
感じる者が注意深くあれば沈黙はそこにある。
そして彼はそれに触れることはできない、
差し出す手をすり抜け近づく足音はそれをかき消す。


沈黙とともにあるとはそれを遠目にうかがうことである。
作業の手をおろし歩む足をとめ、それ以上近づかないことである。

では彼はその場でじっとしているしかないのか、
触れれば崩れる砂上の楼閣の前で呆然と佇むか、
進めば消える蜃気楼を座していつまでも拝むか。
それは博物学的対処である、
そして沈黙は保存も効かねば分類もままならぬ。

沈黙はなまものである。

その発祥が示すとおり、
沈黙とともにいる者から沈黙を感じることができる。
あるいはそれは伝播するのかもしれない、
もちろんニュートン力学には従わない、
測れば消えるそれは量子力学的ふるまいにも見える。

沈黙を統御できる法則が発見されるとしよう、
その法則はさっそく当のそれをすり抜ける、
沈黙を破るとはそういうことをいう。


沈黙はつねに人とともにある、
沈黙する人とともに。
それを語りつぐためにできることは、
彼じしんの内がわにしかない。
人がこの世からいなくなれば、
沈黙もまた消え去るのだから。
 

『生活世界の構造』読了

『生活世界の構造』(アルフレッド・シュッツ、トーマス・ルックマン)を本日読了しました。

長かった。
一年くらいかかったでしょうか。

監訳者あとがきを読んで、巻末の事項索引にまで線を引いて、そしてその流れで最初のページから(自分が線を引いた所だけ拾い読みのつもりで)読み始めてみると、線の引いていない最初の一文から内容が凝縮されている感じがして、この感覚が続けば(じっさいは続かないのですが)「読了直後の再読」であってもまた最後まで読めるのではないかと思いました。

ルックマン氏の筆による「序」に、このような一節があります。

日常生活の構造分析とは、永遠の哲学と歴史的な社会理論とが取り組むべき終わりのない課題である。

「序」p.023

終わりのない課題。
いつまでも関心を惹く、そして分析の深まりとともに関心も変わり続けていく。
それだけで日常生活ができるわけではないが、その在り方がまるで日常生活そのものであるような営み。

学者がこのテーマを扱う利点は、「それ(日常生活の構造分析)が日常生活になりうる(学者の仕事として業績になる)」というだけであって、体系化が未知の増殖に阻まれてその構築と崩壊を繰り返すようなこの分野の探求は、日常生活の主観的経験にどっぷり浸かって暮らす「素人」にこそ、その動機が内に息づいている。
 
この本は、経験として呑み込んでまた別のいろいろな本へ向かう「長い階段の一段」としてではなく、つねに座右にあり、いつも繰り返して読むわけではないが、必要があれば、日常生活から少し離れて腰を落ち着けてゆっくりページを開く「螺旋階段の支柱」として、そばに置いておいた方がいい気がします。

思想の根源、いつでも帰りを待ち受ける故郷、ではない。
そこに還れば安心する、場所や姿勢というわけではない。
思想に故郷はない。
けれど、思考は故郷のような、身が心地よく収まる場所を求める。
いわば思考の根源的な動機、未来の理想郷を目指す羅針盤として。

 × × ×

抽象的な思考の本領は、具体的な状況に適用(演繹)できる可能性の広さにあります。


刻々と事態が遷移し、
予想外の出来事が頻発するかのような、
新聞の第一面で大文字が毎日踊り続けるような、
感覚が麻痺して非日常を日常と錯覚してしまうような生活。
常識が変わり、
慣例が崩れ、
既知が定着しないまま無用の長物になる。
腰を落ち着けてなどいられない、
チャンスを逃してはならない、
バスに乗り遅れてはならない。
生活が懸かっている、
他人に構う余裕はない、
親切はリアリズムの餌食になる、
現実はお花畑ではない。

状況は変わり、人は適応する。
それが人間の性(さが)である、の一言で済む。
済ませられる話ではある。

それは日常の不可避性、シュッツは本書でそれを、
「大切なことを真っ先に」という原理、
と呼んでいる。

その人間の性は昔も今も変わらない。
変わったのは社会の方である。

社会は、集団を統治するシステムや集団を匿名化して利益を生み出すシステムは、システムの目的のために人間の性をうまく利用する。
システムに属する人々(その元はやはり一人の人間である)は、「大切なことを真っ先に」という人間の生活原理に基づいて、計画を練り、設計を重ね、「時間を先取りする」ためのシステムを構築する。
ありうべき未来を想定し、それを必然とするためのシステム。
それは未来を現在とみなす、時間の幅を極限まで短縮する「無時間化システム」でもある。
本来的には無理筋である、未来は時間が経たねばわからないのだから。
だがそれを実現する、そのために捨象されるのは人間の複雑さであり、そのために覆い隠されるのはシステムの複雑さである。

人はよりよき未来を目指し、それを確実にしようとし、それは確実にやってくると思い込むために、どんどん複雑なものを作り上げる一方で、自分自身は単純であると認識していく。

そのようにして、人もシステムも、人の手を離れていく。

 × × ×

話を本書のことに戻します。

「生活世界」は、人間の一人ひとり誰もが、等身大のそれとして営んでいます。
システムを設計する人だってそう。
でも、システムの運用(運動)自体は、「生活世界」を超えています。
個人を単純化し、匿名化し、指標化しないことには集団として扱えないから。

だから、社会システムが高度になるほど、システムそのものは人間から遠い存在になる。
そして、どんどん高度化するシステムは、人間の生活世界に影響を与えずにはいません。
発想の出どころ(システム設計者)は等身大でも、その価値観は等身大を遥かに超えたもの、そんなものが僕らの生活世界に直接介入し、成立させています。
 
それでも人間は、適応します。
今まで適応してきたし、現在もそうし続けています。
その「適応」は、人間の性に基づいて行われますが、果たしてこの「適応」は、人間がこれからどうなっていくことなのか。
人間の性自体が変化していくのか、人間の性に背いた「適応」が人間をだんだんと「人間ではない生物」へと向かわせるのか。

そんなことは単に言葉の問題だと思われるかもしれません。
それにもちろん、これほどのシステムの高度化は過去の歴史になく、経験知も直接その解答を教えてはくれません。

でも、状況が急速に変わりつつある現在でもわかることはある。

それは、「変わることで僕たちは何を失うか」です。


本書には、僕らの生活世界の成り立ちについて、事細かに書いてあります。
それは具体例を交えながらも抽象的で、その意味するところは、時代状況に捉われず普遍的な内容であるということ。
だから現代人の僕が読んでも意味は通じる。
そして、その抽象的な構造分析の記述の一端を読んで、現代に翻訳し直すことができる。
その翻訳によって、現代社会が、人間の「生活世界」のどの部分を強調し、また価値のないものとみなしているか、そういったことにも思考が及ぶ。

ここで大事なことは、それを読む僕自身が、「生活世界」のどの部分を価値があると思っているか、です。
僕が重要だと思い、大切にしたいと思っていることに対して、社会は特に意味があるとは思っておらず、そんなことやめちゃった方が効率がいいよ、てなことを言うようであれば、僕はそれを守るために社会(の価値観)からある一定の距離を置かなければなりません。


「生活世界」はどうあるべきか、社会はどうあるべきか、といったことは書いていません。
「生活世界」と社会はこのように関係している、という現象学的・社会学的な記述がある。
その「関係」は今の自分にとって、また現代社会において、どうなっているんだろう。
本書はこの関心を呼び覚まし、その思考を深めるツールとなり、そして自分なりの理想を描く羅針盤となってくれます。

司書ブログ更新

 
一年ぶりですが、個人事業HPのブログを更新したのでリンクしておきます。

選書したセットが自分の仕事の価値観に関わるものだったので、
これを機会にと考えてみました。

この089は相当に内容の濃い鎖書なので、引き出せるものはもっとあるはずです。

もとい、「三冊セットの魅力」を僕が完全に引き出し得たことなど一度もない、
ということが商品の価値を表している、という逆説的な話です。

bricolasile.mystrikingly.com

3tana.thebase.in

デジタル平安時代の崩壊とその先

日本の歴史を見ていると、外国でもそうかも知れないが、何か外来の事変に出くわすと、内に蔵せられて今まで気のつかなかったものが、忽然首を動かして事物の表面に揺ぎ出て来るのである。何か刺戟をもたぬと心の働きの鈍るのは、個人生活の場合は固よりそうであるが、集団生活でも実にかくの如きものがあるのである。鎌倉時代に、それまで長いあいだ外国との交通が途絶していたのが、また始められたという事実は、日本文化の発展史上決して見逃すべきでないと思う。平安時代が政治上に崩壊的気勢を示し、文化的に爛熟期をすぎて頽廃期に入ったとき何かの衝動が与えられないと、民族精神は萎靡[いび]不振、ついに取返しのつかぬほど腐敗するのであった。そこへ大地の声が、農民を背景とする武家階級から上がって来た。そこへ南宋を圧迫した勢で、日本の西辺を侵しきたらんとする蒙古民族の猛進が頻繁に伝わってくる。入宋の僧侶たちは新しき大陸の空気を呼吸して帰ってくる。今まで沈黙を守るよりほかなかった庶民階級の思想と感情が、武家文化──大地精神──を通じて開かれるようになる。何か日本民族霊性そのものの響がこの間に鳴りわたらなければならぬのである。果然、武家階級は禅道に入り、庶民階級は浄土思想を創案した。武家文化は更に公卿文化を統摂することによりて、禅精神をして日本人の生活および芸術の中へ深く浸透せしめていった。一方、浄土思想系は日本霊性の直接的顕現として大地に親しむものの中に結実した。

「第二篇 日本的霊性の顕現」p.78(鈴木大拙『日本の霊性岩波書店、青三二三-一、1972)
原書の出版は昭和19年12月

 
引用箇所を含む第二篇を読んでいて、現代日本平安時代に似ているという連想を持ちました。
年号の語感から、現代日本とは平成から令和*1のあいだのことです。
 

 平安時代は、なんと言っても女性文化時代である、(…)この時代は、奈良時代の豪壮雄大なるに対していかにも繊細優美であった。(…)佶屈聱牙[きつくつごうが]の漢文学に対抗して、「女[おみな]もじ」を考え出して、それを自由自在に駆使して、柔らかく細やかな感情を表現した平安朝時代の女性は実に偉かった。(…)
 
 仮名文字の発達がどのくらい日本思想の独自的展開に資することがあったかは、十分に認識する必要がある。(…)屈伸に自由でなく、連結に緊密を欠く漢文字では、思想の表現はおのずからそれに制せられる。みずから作った道具でみずからをくくることは、人間万事の所為の上に現れる。近代の思想も、自分で作り出した科学と技術と機械とで自由を失って、かえってみずからを破壊に導いているではないか。仮名文字がなかったら、日本は明治維新の大業を成しとげ得なかったと思う。外来の文字・思想・技術等は、いずれも仮名文字の屈伸性・弾力性・連結性などによりて、国民精神発展の上に自由に取入れられたのである。この事実を考えてみると、我らは平安朝女性の創造的天才に対して、十二分の謝意と敬意とを表すべきである。

同上 p.79-80

 
平安文化、そして「仮名文字の屈伸性・弾力性・連結性」から、つい橋本治の『桃尻語訳枕草子』を思い起こして読みたくなってきたのですが、それはさておき。

日本的霊性が伝来仏教の影響を経て開花したのは鎌倉時代であって、それ以前の平安時代ではない、という文脈で、平安時代の「よきところ」も上で引用したように述べられてはいるんですが、本筋はその「あしきところ」が次の時代の下地になったというところにあって、たとえばこのようなことが書かれています。
 

 女性文化の欠陥は、しかし、その長処そのものがそれなのである。和らぎはよいが、時には骨がなくてはならぬ。柔らかみはよいが、「女々しさ」はあまり歓迎できぬ。泣くもまた妙だが、いつでも「涙ぐましい」では埒があかない日本民族の感情的性格は、女性によりて十分に代表せられているが、我らの実際生活は感情だけではいけない、理知も入用だし、また霊性の動きもなくてはならぬ。女性は感覚性と感情性とに富んでいるが、論理と霊的直覚に欠けている。(…)女性文化は箱庭で出来る、温室性をもっている。平安朝時代は日本が箱庭式に生きていた時代である。日本民族の女性的性格の方面の発展するに最も好都合な条件を備えた時代である。風にも当らず雨にも濡れずに育つ苗はかよわい。頑強で根づよい大木は、どうしても暴風雨に曝されて、深く深く大地に根を張らなくてはならぬ。こんな強靭な根幹は、「物のあわれ」の世界では生長せぬ。

同上 p.80-81

 
女性の性質について云々されていますが、現代的に言い直せばこれは「女性性」ということでしょう。
生物学的性差としては男性か女性かのゼロイチではなく、グラデーションがあって、男性は「女性に比べて、女性性よりも男性性のほうが平均的に高く発現している」というのが実際のところです。
社会的性差つまりジェンダーの見直しは、この生物学的性差という科学的概念が近年より正確になってきたことに対応しています。
…いや、これも本論に関係のない話ですが。

引用の下線部などを読むと、夜のテレビドラマが恋愛ものばかりだとか(韓流ドラマもそうだし、「恋の落下傘」だったか、今は脱北ドラマが流行ってるそうですね)、「あつもり」「マイクラ」といったデジタル箱庭もののネットゲームが思い浮かびます。

…またまた話が逸れますが、アレクサンドル・コジェーヴという人が60年代初期に「ポスト歴史時代は西洋の日本化に帰着する」と言っていたそうですが、コロナ禍の巣ごもりツールとして世界的人気を博している「あつもり」のことを考えると、コジェーヴが当時語ったことを今また参照し直す価値があるかもしれません。
長いですが抜粋します。
 

「ポスト歴史の」日本の文明は、「アメリカ流の生き方」とは正反対の道を歩み始めた。おそらく、日本にはもはや「ヨーロッパ的」意味での、あるいはその語の「歴史的」意味での、宗教道徳政治もなかったであろう。しかし、純粋状態で育まれたスノビズムによって、「自然的」ないし「動物的」所与に対する否定的な規律が生み出され、これらの規律は、日本あるいは他の国で「歴史的」行動から生まれた規律、すなわち戦争と革命による闘争ないし強制労働から生まれた規律を、その効力においてはるかに凌駕するものであった。確かに、能楽、茶道、華道といった(どこにもそれに匹敵するもののない)日本特有のスノビズムの極意は、身分が高くて裕福な人達の占有物であったし、今なおそうである。しかし、経済的社会的不平等が存続しているにせよ、今日日本人はすべて例外なく、全く形式化された価値、すなわち「歴史的」意味での一切の「人間的」内容を完全に捨象した価値に応じて生きることができる。かくして、極言すればすべての日本人は、原則的に、純然たるスノビズムによって完全に「無償の」自殺を行うことができるのである(飛行機や魚雷が伝統的な侍の刀の代わりになりうる)。この自殺は、社会的政治的内容をもつ「歴史的」価値に応じて戦われる闘争に生命を賭すこととは何の関係もない。以上のことから、日本と西洋世界との間で最近始まった相互交流は、結局は日本人の再野蛮化にではなく、(ロシア人も含めた)西洋人の「日本化」に帰着するだろうと、信じることができると思われる。

ルイ・マラン「アレクサンドル・コジェーヴ「歴史の終焉」をめぐる二つの注記」p.241-242
(『TRAVERSES/6 世紀末の政治』今村仁司監修、リブロポート、1992)
太字は本文太字部、太斜字は本文傍点部

 
引用中の「日本特有のスノビズム」については、前にボルツの本(ここでもコジェーヴが取り上げられていました)について書いた記事↓も関連しています。
cheechoff.hatenadiary.jp
妙な字面ではありますが、僕自身が命名したこの「純粋暗箱形式主義」というのは、直上の引用でいえば、
 " 一切の「人間的」内容を完全に捨象した価値に応じて生きること "
と対応します。
これにちょっと言い足せば、「捨象したり利用したりがフレキシブルにできる」、いわば「"非原理"原理主義」という……
もはや非論理の世界観ですね。

今朝の毎日新聞書評欄に、紙面下の半分近くを使ってこのような広告が出ていましたが、こういう話が「本質」にもなり「流行」にもなる
西洋知識人が時に己の価値観を覆すほど心底驚く、これが「日本特有のスノビズム」の現れなのでしょう。

『日本人は論理的でなくていい』(山本尚)
Amazon(日本語11/26)
オール紀伊国屋書店(ノンフィクション11/16~11/22)
ベストセラー1位

日本人は論理的でなくていい

日本人は論理的でなくていい

 × × ×

えーと、話が逸れすぎですね、何の話だったか…。

鈴木大拙の本に触発されて、日本のこの先についてあれこれ想像していたのでした。

時代は常に最先端で、未来は五里霧中の暗中模索でありながら、「歴史は繰り返す」ともまた常に言われてきました。
先見の明のある人もない人も、未来を予言し、当たっても外れても人は大騒ぎしますが、もっと抽象的に考えて、予言の実際的効果は歴史にもあります
その妥当性を事後的に検証するのではなく、人々に(それが希望であれ絶望であれ)未来のイメージを描かせる物語としての効果。
論理学でいう「行為遂行命題」というやつです。


さて、
鈴木大拙の日本霊性論で展開されていた平安から鎌倉への時代変化を読んで、これを現代日本の「導きの糸」として見るとどうなるだろう、と思いました。
連想が導いたその文化的な類似性から、デジタル平安時代とも見なせる令和日本がどこへ行くのか、その手がかりが『日本的霊性』にある。
そういう姿勢で続きを読むと、まあ妙なバイアスがかかる一面もありますが、おそらく「とても身に沁みる思い」で読み進めることになるでしょう…というのは僕自身の話なのでさておき。

ひとつ「手がかり」のような部分を抜粋します。

 平安朝文化の崩壊は種々の原因によることであろう。が、真の原因は文化そのものを作っていた思想の中に行きづまりがあったからである。即ち公卿文化──女性文化・概念性の文化──は大地に根ざしていない、いわゆる霊性の上皮部に浮動しているものであるから、それだけではいつまでも自体を維持していくわけにはいかないのである。自分自身の力を自覚するにしても、ひとたびは崩壊の機会を経過しなければならぬのである。それには何かの条件で対外的なものにぶつからなくてはならぬ。鎌倉時代はちょうどそんな機会と条件とを与えてくれた。(…)果して然りとすると、平安末期の騒動、政治や経済上の不安、人心の攪乱[こうらん]、それに加えて国難到来の予期では、物の哀れを鑑賞してのみいられなくなった。国民は何か霊性の上に深き震動を感じ始めたに相違ない。固よりかくの如き根源的なものは、有意識的に感じられるものでない。人間はこんな場合では──ことにまだなんら深刻な宗教意識の覚醒を経験したことのない民族のあいだでは──只なんとなく一種焦燥の念に駆られるに過ぎないであろう。そうしてこの焦燥不安の心持ちは、ただ在来の表現方法でそのはけくちを見出したに過ぎなかったであろう。

同上 p.82-83

キーワードとしては「思想の行きづまり」「崩壊の機会」「対外的なものにぶつかる」、このあたりですが、僕はちょっと違うところを考えてみたいと思います。
それは、抜粋の中で太字部にした箇所ですが、「不安」と「焦燥」についてです。


現代は「不安の時代」と言われています。

能天気に過ぎた高度経済成長期から我に返った結果に過ぎないといえばそうで、プラスの見方をすれば「冷静の時代」(惜しいですね、「霊性の時代」ではない)とも言えますが、だとしても普段から気が晴れないのは居心地がよくない、だいいち景気が悪い、言葉通り消費経済が停滞しているじゃないか。
しかし、「不安」が何の原因であり、何の結果であるか、このことはじっくりというか、多方面に思いをめぐらして考えるべきだと思います。


不安のせいで経済が停滞している、そう思える一方で、不安こそが経済成長の原動力であるという一面もあります。
現状に満足し、安心し切っていたら、人は身の丈を超える消費に向かわないからです。

メディアに載り、同時にメディアを延命させてもいる広告は、受け手の嫉妬や羨望を煽りますが、それらの感情が広告上で肯定的に語られることもありますが(というかそれが方便ですからね)、実際のところそれらは「安心」からは程遠く、むしろ限りなく「不安」に近い感情です。

不安から抜け出したい、そう思ってお金を稼ぎ、情報を集めてよりよい消費活動に勤しむ、その消費活動自体が「不安を煽り合う競争」に過ぎないという達観に至った人は、競争の舞台から降りることになるでしょう。


あるいは、「不安」とは何なのか、またどういう状況から抜け出せば「安心」なのか、当たり前のようにこれらのことを使っているが僕たちはどこまで正確にこのことを知っているのか、そういう反省があってもいい。

「不安」は個人の感情であるという常識になっていますが、「不安」は伝播する、それも親しい人や家族の間だけでなく、すれ違う人やメディアを通じて社会的にも伝わっていく。
それは相互参照的ということで、また共同幻想としても現れる。

「周りの人間と同じことをする、同じ価値観でいる」「悪目立ちしない、出る杭にならない」ことに肯定的価値がおかれる文化において、個人の「不安」がどう作用するか。
こう書けばするひらめくと思いますが、「周りのみんなが不安なら自分は安心」という考え方が実際的な効果を持ち得る、ということです。
それを逆から「みんなと違って私だけ安心だとなんだか不安だ」と言ってもよい。

では、私たちが望む「安心」とは、いったい何だろう?
周りの人間なんてどうでもいいという個人主義を徹底してリアルでは鈍感を追求しながら、ネット上の情報の海にキャッチアップして共同幻想に浸る、現代世界の「リアリスト」にとっての「安心」とは?


さて、では「不安」に対して「焦燥」とは何なのか。
引用中での鈴木大拙の使い方を参考に、こう表現してみます。

「不安」:
 現状維持の心境。「このままがいい、なぜこのままではいけないのか」
「焦燥」:
 現状打破の心境。「このままではいけない、なぜかはわからないけど」

辞書を引けばまた違う意味が載っているかもしれませんが、僕が思ったのは、これらの2つの感情が「現状に対する違和感をもった時の心の遷移プロセス」であるということです。

上の引用で、キーワードとして「崩壊の機会」を抜き出しましたが、このデジタル平安時代の「崩壊」がどの段階に至ってそう言えるのかは知りませんが、「崩壊」と「焦燥」は機を一にして起こるだろう、とは言えるでしょう。

あわよくば、これも鈴木大拙の挙げた「自分自身の力の自覚」もまた同時に。


こんな考えを巡らせていると、時代変化に希望を感じることができます。
即物的に起こることは、恐らく楽しいことよりも苦しいことの方が多い。
それでも、抽象思考に価値を見出せるならば、
時代の変化はまず間違いなく、興味深いものになるでしょう。

 × × ×

冒頭の引用で太字部にした部分に触れる余裕がありませんでした。

岩永亮太郎の『パンプキン・シザーズ』をちびちびと何度も読み返しているのですが、おそらくここからの連想で、ふと「禅の精神」とは「日本的ノブレス・オブリージュ」と呼べるなにかではないのか、と思いつきました。
近いうちに掘り下げたいトピックとしてメモしておきます。

 × × ×

日本的霊性 (岩波文庫)

日本的霊性 (岩波文庫)

世紀末の政治 (TRAVERSES)

世紀末の政治 (TRAVERSES)

  • メディア: 単行本

*1:「令和」が漢字変換で出てこなかったんですが、つまり年号が令和になってから僕がこの語を打ったのは今日が初めてということを知りました。まあ、興味がなかったというだけの話ですが。

「不気味の山」とリアリティの解像度

 電子の仮想空間が誕生する以前から、人間は夢を見ていた。夢と現実を取り違えないでいられたのは、夢が現実に比べて圧倒的にデータ量が少なかったからだ。多くのメモリィを必要としない、解像度の低いものだった。合理的な秩序も、緻密なディテールも、そしてなにより再現性が不足していた。リアルは、相対的にそれらが完備した、ほぼ整った世界だっただけだ。この関係は、ヴァーチャルとリアルでは、既に逆転し始めているといっても良い。

森博嗣『神はいつ問われるのか? When Will God be Questioned?』講談社タイガ、2019

山田 この頃のテレビドラマでは、お父さんお母さんというのは、ほとんどコメディ・リリーフみたいな役どころで、実態を描こうなんて気は作者にもさらさらない。
見田 バックグラウンドというか、舞台装置ですね。
(…)
山田 テレビの現実感に与える影響力は思っている以上に大きく、深刻なもので、作り手はかなり注意深くなければいけない時代になってきていると思いますね。昔は、あれはお話だよ、という認識が当然のごとくあったから別に問題はなかったんだけれども、だんだんそうじゃなくなってきて、テレビで人生を学ぶのですから、由々しきことですよね。それで結婚すると、相手には匂いもあれば、手触りもある。髭は痛いし、汚すし、これは非常に特殊な人じゃないか、と思ってしまう。そこで現実に気がつくというのなら、まだいいのですが、現実感のない自分のほうが正しいと思ってしまう(笑)。不思議な倒錯が起きてきている。
見田 オウム真理教ですね。

見田宗介×山田太一 母子関係と日本社会」p.172-173(『超高層のバベル 見田宗介対話集』見田宗介講談社選書メチエ、2019)
対談の初出は『大航海』第五号、一九九五年八月。

 
見田宗介の本を読むのはこの対談集が初めてですが、とても興味深いです。
多様な専門の対談相手に対して、相手の(というか対談として設定された)テーマに合わせながら、どれも社会学的見地から日本を深く分析していく論理に、読み手は思考を刺激されます。

直近二つの記事もそうですが、これもそのようにして触発されて書いています。



不気味の谷」は有名で、アンドロイド等の人間を模した人工物の洗練度と、その人工物に対する好感度のグラフを描いた時に現れる谷のことです。
ではタイトルの「不気味の山」とは何かですが、もちろんこれは「谷」に関連したものです。


一つ目の抜粋、これは22世紀を舞台にした森博嗣SF小説ですが、「解像度」とは、文字通りの意味では、テレビやスマホ等のディスプレイのスペックとして語られる、映像の精巧さのことです。
それがここでは、映像という視覚情報だけでなく、リアルを模擬するメカニズムの全体に対する「再現性」、感覚器でいえば五感を含むもの、そして生活・社会環境の役割性や時間感覚でいう秩序、そういったものの再現性能を指しています。

ヒューマノイド、作中でウォーカロンと呼ばれるものが生物学上(つまりもちろん見かけ上も)人間と同一になり、不老不死が達成されつつあり、VR技術も相当進歩した遠未来のことなので、「ヴァーチャルとリアルが逆転し始めている」と書かれているわけですが、この点を除けば、現実の現代社会に対する分析としても通用します。

このSF中にも書かれていることですが、ヴァーチャルとリアルを混同する要因として「解像度」が高くなってきたこととは別に、人間は生活環境の内実に関わらず「ルーティンに慣れる」、つまり繰り返しに対して惰性化するという性質があることも挙げられます。


二つ目の抜粋は、その「ルーティンに慣れる」ことの一例としてリンクしました。

核家族化、個室を与えられた子供、その子供部屋も含め家族に一人一台テレビがあること、そのようにして家族間のコミュニケーションの質が変わり衝突の少ないものになった、という脈絡において、テレビドラマが提示する家族像が「本来の家族というもの」であると信じ込んでしまう、これは子供に限らず、その親だって同じ認識になり得ます、その環境に呑まれつつ自分たちでその環境を作っているわけだから。

そして、密度の薄いというか、ほぼ定型だけで作られた家族像(ドラマでは「その定型からの外れ方」がまた定型になっている)を抱えた子供が成長して家庭をつくり、現実の家族生活とその家族像とのギャップに直面して、家族像が現実によって修正されるならまだよいが、(それに従って相手を選んだり子育ての方針をつくってきたかもしれない)強固な家族像が現実生活の方を否定してしまって、「リアルの方がリアリティがない!」という認識に至る場合、このことを山田氏が「不思議な倒錯」と表現し、オウム真理教に傾倒した若者のメンタリティに通じるものがあると見田氏は指摘しています。


さて、本記事のタイトルの話に入りますが、このことを思いついたのは、冒頭で抜粋した箇所の少し手前を読んでいた時でした。

見田 ぼくの業界の話をすると、八〇年代には疎外論批判」というのが流行ったんです。ゼミでレポーター[発表者]の学生が、たとえばなにか「本来の」あり方みたいなものを前提して、それが現在失われているという言い方をすると、「それは疎外論的な発想だ」という言い方でみんなにやっつけられる。そういうパターンが流行ったんです。
(…)
 例えば、一人の青年が「本来」というと、それに対してそれは「疎外論的発想」だとクールな人が批判する、というパターンがあった。それは、どっちが正しいといってもしようがないんじゃないかと思います。例えば、本来はあるはずだとどうしても思えることのリアリティがあるわけでしょう。(…)同時に「疎外論批判」をする人がなぜ批判するかというと、批判したいことのリアリティがあると思うんですね。どっかで回復不能な傷を負った姉がいるとすると、「本来」を信ずるナイーヴな弟の健康さに苛立ってくる。
(…)
 一方で夢のリアリティがある。他方で、なぜかやっつけたくなる、批判するリアリティがある。このリアリティの対峙する水準できちっと捉えないと、現在の日本のリアリティは捉えられないんじゃないか。

同上 p.166-167

 
見田氏の「リアリティの対峙する水準」を、内田樹氏の思考を借りて「主観的合理性の分析」と言い換えることもできると思います。

それはさておき、この抜粋にある「疎外論批判」という言葉を聞いたのが僕自身は始めてで「へえ」とまず思いました。
そして現代日本の言論状況、実質皆無の「言った(押し通した)もの勝ち」、論理の整合性に関係なく負けを認めた方が負けというチキンレース的似非ディベート、炎上工作と紙一重のネット民主主義(中国共産党人海戦術によるネット規制とどこか似ている)、などを思い浮かべ、そういうものがあるとして、疎外論批判」からここに至った脈絡を発想しました。

疎外論」が意味するものを詳しくは知りませんが(なにしろ今日初めて出会った言葉なので)、「疎外論批判」は、ウーマンリブフェミニズム思想)とかポストモダニズム相対主義と同じ思想の流れを汲んだものだと思っています。
既得権益を貪る人々を批判し、既成の価値観を打ち破る、という意志。
この意志は、それが芽生えてしばらくは、これまで不文律とされた既成観念をテーマに掲げて議論を進めることで正義や客観的(あるいは科学的)な価値を追求するものであったはずです。

そして、「疎外論批判」という一語で括られるように、だんだんと議論が定型化する。
それはまた、その意志や姿勢が定型化することでもある。

何事においてもそうですが、定型を獲得した行為は、効果だけが期待され、本来の意志や意味は空洞化します。
今の文脈でいえば、「疎外論批判」はそれが定型化するに至って、そのリアリティを失うことになった。

いや、見田氏の議論の中ではまだそこまで時計の針は進んでいなくて、本来性の追求と「疎外論批判」は議論として対立していたが、どちらが正しいかというよりも、お互いの立場がもっているリアリティに対する視点を持たないと現代社会のリアリティを掘り下げられない、と氏は言うわけです。


それで、僕はここで言及されている疎外論批判を展開する立場の人のリアリティ」という視点に、ある連想を刺激されたのです。

…ふう。
ここからやっと本題です。
 
 × × ×
 
最初のほうに「不気味の谷」について触れました。
擬似的なヒトの精巧さと、それに対して人が受ける好感度の相関性。

具体的には、ちゃちなロボットが人間らしくなっていくに連れて好感度は高まるわけですが、あるレベルまで人間に近くなると、急に好感度が落ちる。
人は「人間のようで人間でないもの」に対して過剰な反応を示す。
それは得体の知れなさにたいする恐怖かもしれません。
そして、そこからさらに人間に近くと、好感度はまた上昇する。
不気味の谷」を超える、つまり、そこに達したロボットを人は「自分たちの仲間だ」と思う。


さて、この話における好感度とは、主観的な人間の感覚です。
好感度について数値的な大小を厳密に比較することはできない。
だから、「不気味の谷」のグラフは定性評価ということになる(はず)。

ここで、冒頭でSFを抜粋した内容を思い起こしてもらうと、それは擬似リアルの解像度がヴァーチャルとリアルの逆転をもたらす、という話でした。

この「解像度」はメカニズムのスペックだと言いましたが、ふと「リアリティの解像度」という主観的な人間の感覚指標を設定できるのではないかと思いつきました。
これは上記の好感度の上位概念になりますが、つまり、人が自分の周囲環境に対して、それがどの程度複雑であればリアリティを感じるか、ということを示す指標となります。

そして、これが本記事のテーマで一番大事なところですが、
人が生来備える「繰り返しに対して惰性化する」性質によって、この「リアリティの解像度」は変化します。


さて、仮に「不気味の谷」のグラフに「リアリティの解像度」のグラフを合わせ込むと、どのような曲線が現れるか。

いや、何か妙なことを考えているなと思われそうですが、自分でも書きながら考えていて本当かなと思ったりもしていますが、アンドロイドに対する好感度だけを取り上げている時はおそらく「人間が感じるリアリティの感度」は一定であるという前提となっています。

食べ物の味で例えれば、料理が美味しいか不味いかをなるべく客観的に議論しようとする時に、素材の鮮度とか調理方法はとうぜん俎上に乗せるが、「料理を前にした人の空腹度」までも考慮するわけにはいかない。
なぜならそれは客観評価に馴染まない、主観的な感覚だからです。

今考えようとしていることは、空腹度から料理の味を評価するというのと、立場的には同じです。


話を戻して、
一言でいうならば、「リアリティの解像度」グラフは「不気味の谷」と逆相関になるのではないか。

人が「ヒトのまがいもの」、ヒトのようでヒトでないものに接すると不気味さを感じる、違和感をもち恐怖すら覚えるというとき、その人はリアルとバーチャルの境目を強烈に意識し、曖昧になったように思われるその境界を再設定せねば気が済まないという境地にある。
つまりこの時、その人の「リアリティの解像度」は急激な上昇を示している。
そして、「不気味の谷」を超えた精巧なアンドロイドに対しては安心してフレンドリーに接する、彼も自分と同じリアルに属するという評価を下す。

これらをまとめると、
ヒトを模した人工物に対する好感度の軌跡である「不気味の谷」に重なるのは、それと接している人の「リアリティの解像度」の軌跡である「不気味の山」とでも呼べるものである。

もちろんこれも定性的な比較であって、「谷」の深さと「山」の高さの大小比較に意味はありません。
 
 × × ×
 
長々と妙な論理を進めてきましたが、僕自身の動機はどこにあったか。
実はそれを言うのは簡単です。

現代社会で生活する僕らの「リアリティの解像度」はどんどん低下している。
これを由々しく言い換えると、
僕らの生活は「低解像度というリアリティ」に囚われている。
本来リアルでないものにリアリティを感じるというのは、要するにそういうことです。


解像度が人間の主観的感覚にもなるという発想を持った瞬間に持ったイメージがあります。

ムーアの法則というのがありますが、電子機器の集積化が進んでディスプレイはどんどん高精細になるわけです*1
ディスプレイが高精細になり、色再現性が増し、あるいは立体感さえ表現できるようになり、それに応じて視聴者はディスプレイに没入し、映像にリアリティをいや増して感じ、「映像の外」に対するリアリティが相対的に減じていく。
頭に浮かんだのは、ディスプレイの解像度と、人の主観である「リアリティの解像度」との逆相関を示す、反比例のグラフです。

それは、「毎晩がステーキと食後のチョコレートケーキ」というアメリカの富豪の悲哀(@河合隼雄)や、毎日がお祭り化して「ハレとケ」の境界を見失った都会人の平板な日常などを連想させます。


だからなんだということもなく、それが良いとも悪いとも思わない、
と上記SFの主人公グアトは考えていますが(森博嗣本人の考えはもちろん知りません)、
僕はそこまでフラットな考え方はできません。

…と書いていてちょうど今思いついたことですが、
冒頭に抜粋した本の別章、見田氏と小説家の黒井千次氏との対談の末尾を、わが意を得たりという思いで最後に引用しておきます。

黒井 フォークソングとか風俗的なものまで含めて、実質的には表現の手段は実に多様化している。ただ、そういうものが驚くほど急速にパターン化するんですよね。自己表現が自由であればあるほど、まったくパターン化しちゃって、あるところまで出していくと、そっから先出していく行き方というのが、みんな似てしまう。これは情報の量の多さとか、いろんなこともあるでしょうが、クリエリティヴなものが自分の表現として出ていかない。一人の絵を見ると面白いが、次のを見ると同じで、みんなこいつら同じかい、という感じなんだ。そのくせ衝動としては既成のものに飽き足らない感じがあって、いろいろ工夫してみる。工夫する内容は、自分の内側から込み上げてきたものじゃない。それで満足しているかというと、必ずしもそうではない。そういうことからいくと、自己表現の可能性と現実性のあいだにかなりギャップが大きくて、現実性のところで見るかぎりは、若者のもってるエネルギーがうまい具合に出ていっていない傾向が強いですね。
見田 そのフラストレーションは、自分でガーンとやって、壁にぶつかってフラストレーションが起こるのじゃなくて、何でも言えるけども、自分が言葉にしたり、絵にしたりした途端に、それがたちまち自分のものではない、みたいな苛立ちというのはかなりもっていますね。

見田宗介×黒井千次 日常の中の熱狂とニヒル」p.146-147
同上
対談の初出は『展望』一九七一年四月号。

 
ああ、上のほうで現代日本の言論状況に対して愚痴っぽく列挙しましたが、
この引用を読んで思いついたので、もう一つ追加しておきます。

"「やってる感」&「それっぽさ」至上主義"

情報過多は「定型過多」でもあって、目の前に広がるが身の丈で扱えず収拾のつかないそれに対する生活感覚的(つまりプラグマティックな)解決策がこの「それっぽさ至上主義」だと思うのですが、このことのしわ寄せ(見田・黒井両氏が語っているのがこの一例です)に自覚的であり続けようと思えば、「別の解決策」を模索した方がよいと個人的には思います。
 
 × × ×

 

*1:余談ですが、僕は昔半導体系の研究所で、高精細ディスプレイの不良解析として顕微鏡で画素の一つひとつを仔細に観察する仕事もしていたので、テレビを見ると、その奥の何百万とも知れぬ画素の存在をつい意識してしまいます。

先天性ニヒリズムの克服法

 
 スニーカー刑事は立ち回る。

 事件は人心の闇への招待状。
 参加は強制の呪われた祝宴。
 死の足跡をたどる即席の詩。
 生の所業は諸行無常への道。

 手応えはたしかに存在する。
 闇を照らせば有象が浮かぶ。
 光は見えぬ無象を消し去る。
 後先はなくただ存在がある。

 止むに止まれぬ犯罪の動機。
 社会に養われた狂気の必然。
 偶然の余地を蝕むシステム。
 動悸だけが謎に挑む覚醒剤

 この足を止められない恐怖。
 
 × × ×

太陽を曳く馬〈上〉

太陽を曳く馬〈上〉

  • 作者:高村 薫
  • 発売日: 2009/07/01
  • メディア: 単行本