human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

関心の模造・量産がもたらす世界観

 
『世界はなぜ存在しないのか』(マルクス・ガブリエル)という本に、
事実には二つの側面があるという論理があります。

実際になにかが現実に存在していること、ふつう事実と呼ばれるものとしてのこれ、
だけではなく、
それを認識する主体(の意識・存在)、またその主体と対象との関係もまた事実である。

簡単にいえば、事実の二つの側面とは「存在」と「関係(関心)」であるという。

これは科学的客観主義に対してガブリエル氏が立てた事実の定義ですが、
この定義の意味は、「存在」の側面しか持たない事実に意味はないことにある。
自分が死んでも世界(地球、海や陸や森、…)はある、これは考え方の一つであって、
しかしこの考え方(科学的客観主義)の徹底は、人間の価値を貶める。

論理自体は新しいものではないはずですが、氏の説明とともに読むと魅力的に響く。


この定義のことを、『民衆という幻像』(渡辺京二)の終盤を読んでいて思い出しました。
そして、これまで何度も曖昧に触れてきた「システム」の性質にはたと理解が及びました。

 私が見るまで、その草地は私にとって存在しなかった。たった一度のまなざしで、それは私の中に生きることになった。おまえはなぜ生きているうちにここに来ないのだ、来てこのしとねによこたわらないのだと、問いかけながら。
 私がこの地上から消滅しても、私が見た自然は存在しつづける。それはたとえようもない不思議だ。だが、私の偶然のまなざしが向かなかったなら、あの草地は現れなかった。あれを生命あらしめたのは私の視線ではなかったのか。ちょうど、私の関心あえていえば好意が、彼もしくは彼女を私にとって生ける人たらしめたように。

「まなざしと時」p.483(渡辺京二『民衆という幻像』

Youtuberという言葉をこのごろ身近でよく聞くようになって、
その仕組みに関する知識も少々得ることになりました。
こういう種類の職業が成り立つことに違和感はありません。
ただ、世界観というのか、このような仕組みが経済を回している現実に対して、
僕自身はあまり深くコミットしたくない気持ちがある。

以下に書くのは、その気持ちのよってきたるところのようなものです。

 × × ×

上述のYoutubeの広告収入システム、あと例えば食べログの投稿コメントなど、
ネット上で多数の人が匿名でやりとりをし、結果としてお金が動く場。
これらの本質は「関心の模造(仮想化)」にあります。
広告主は動画CMを、視聴者が見るために流す。
でも動画投稿者は、CM云々そも視聴云々より、動画が再生されることを一番に願う。
食べログの利用者は、情報を得たい店を利用した市井のコメントを知りたい。
その動機は、お互い様の市井の人々だけでなく、集客増を狙う店側の関係者にも利用される。

個人の関心を生の声として集める、これがネット上で情報として価値を持つわけですが、
ネット上の情報に対価が支払われる判定基準に「関心の真偽」の項目はない。
すると、市場原理の従うところ、「関心の模造」が当然のように行われる。


先にガブリエル氏提唱の、事実の二つの側面について書きました。
この二つの側面について、僕なりに言い換えます。

 事実が意味(価値)を持つのは、その人の意識の中に、
 この二つの側面(存在と関心)が揃って現れる場合である。

このように理解した時、ネット上で常態となっている「関心の模造」は何を意味するか。
渡辺氏の引用(ここを読んだ時に連想が働いたのでした)を借りれば、それはこうです。

 「彼もしくは彼女」の生に、
 「私の関心あえていえば好意」は関わりなくなる。

関心が仮想化され、量産されることで、人は他者の自分に対する関心を必要としなくなる。
そのような生においては、苦しみも喜びも共々、希薄になる。


設計や保守管理を担う人々の意志に関わりなく、
複雑さをどんどん増していく「システム」がその実現に向かうのは、
例えばこのような世界です。

 × × ×

なぜ世界は存在しないのか (講談社選書メチエ)

なぜ世界は存在しないのか (講談社選書メチエ)