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読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

毎日新聞(2/2 日)、アラブ社会に想像を巡らせる

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「ストーリー」という特集記事(たぶん外国の特派員記者が担当するシリーズ)では、アラブ社会のグラスルーツの「風刺の精神」について書かれていました。

記事の中では、アラビア語でジョークや小話を意味する「ヌクタ」がいくつか紹介されています。

エジプトでは1970年代からあるという「伝統的」なヌクタを教えてくれた。
「男が虫歯を悪化させた。でも歯医者には行かなかった。友人が理由を尋ねると、こう答えた。『この国で今、誰が口を開けられるんだ?』」言論の自由に気を使う庶民の気持ちが伝わる。

毎日新聞2/2日 1面 取材・文 篠田航一

「飛行機がサウジに着陸すると、機内アナウンスが流れる。『皆様、ようこそサウジへ。時計を現地時間に合わせてください。現在、当地は7世紀です』」
 預言者ムハンマドが生きた7世紀から、保守的な社会は変わらない。そんな現実を皮肉るジョークだ

同上 4面

ジョークや風刺は、その面構えだけで「言葉通りの意味」以外の意味を、伝える相手に想起させる。
そして、状況を共有している人同士であれば、これはジョークだという明示がなくとも「裏の意味」が伝わる。
だから言論の統制や弾圧が激しい国では、身の危険から口に出せない、でも言わずにはいられない本音を表現するための技術が、特に日常生活のレベルで発達する。

記事には、アラブの街角でおしゃべりに興じる人々の話題に常に「ヌクタ」がのぼる、とあります。

表現の自由が議論されたり、失言が失職につながることはあっても、少なくとも日本では、言語表現が即座に身の危険につながることはありません。
ジョークや風刺に対する価値観は、日本とアラブ諸国とでは大きく異なるのでしょう。
風刺に期待する機能は同じでも、その実効性に対する信頼度、それから喫緊性に落差がある。

政治や文化の背景が異なることはさておき、風刺の精神が日常に息づく文化というのは、どう言えばいいのか、「言葉に活気がある」と感じます。
下手なことを公然と口にすれば己が身に厄災が降りかかる社会、今の自分からすればそれは恐ろしい社会に違いありませんが、見方を変えれば、そういう社会は言葉に重みがある、言葉のもたらす影響力が大きいとも言える。

そういう社会では、とにかく危機を避けようと押し黙る人々がいて、同時に、なんとか危険の網の目をかいくぐって発言してやろうという人々がいる。
人間が、言葉を話さずにはいられない、人になにかを伝えずにはいられない存在であるなら、後者のような人々は、どれだけ言論統制の厳しい社会であっても少なからずいる。

彼らは自分が発する言葉に、とても重いものを懸けているわけです。

言葉の存在感を、
身に迫る危険によって必然的に理解せざるを得ない、
そのような状況を、
大変だ、不幸だと思うこともできるし、
羨ましいと思うこともできる。

 × × ×

読み進める目がしばらく固まり、眉をひそめる事件の記述が、同じ特集記事の中にありました。

 メッカの女子学校で火災が発生し、
 黒衣(アバヤ)を着けずに避難しようとした生徒が宗教警察によって押し戻され、
 火の広がる校舎内に黒衣を取りに戻り、
 その結果14人が死亡した。

厳格な宗教規律やそれに基づいた法律の存在によって、日本の価値観からすれば痛ましい事件が、アラブ社会では起こります。
逆に、宗教性に馴染みのない日本で生活するアラブ人が、宗教に対する日本人の無邪気な対応に尊厳を傷つけられ、それが政治問題に発展することもある。

日本とアラブの文化の違いが、それらが交差する際に驚きや衝突を起こす、これは要するに文化摩擦です。

日本の国際化が進むにつれて文化摩擦も大きくなっていくが、その摩擦は異文化理解の必要性も同時に高めていく。
ただ、日本人が異文化理解や多様性の尊重を問題にする場合に、相手に関心を持って理解を深めるのではなく、「勝手にすればいい」という放任・無関心の方向へ進みがちのように思えます。

実際に個人的な人間関係がある場合は別ですが、街でよく外国人を見かけるなあ、という程度の人の多くはおそらく、そう感じている。
外国人に「君のすることにとやかく言わないから好きにすればいい」という態度をとることが、多様性の尊重になるという考えが、存在しているように思える。
でも、文化摩擦が異文化に対する無理解から生じる限り、無関心が摩擦を減らすことはない。


事件の記述を読んで、僕はかつて日本の高校であった「校門圧死事件」のことを思い出しました。

たしかあの事件で亡くなったのも女子学生で、学校の生徒管理に関わる事件ということで連想したように思いますが、この事件はサウジの事件と背景は全く異なります。
それでもなぜか僕に、事件の当事者たちの主観を想像してみたいという気が起こりました。

校門圧死事件の方は、女子生徒も体育教師も「まさかそんなことは起こるまい」と思った。
 走って向かう先で門がガラガラと閉められているが、
 教師は自分が通る直前に止めてくれるだろう。
 相当に重い門が目の前で閉まっていくのだから、
 生徒は危ないと思って直前で足を止めるだろう。
その「まさか」が実現してしまうに至る要因はいくつもあったはずです。
 いつもやっていることだから、という認識がもたらす、目前の出来事に対する不注意。
 管理のノルマをこなす、緩んでいた規律をひきしめるといった動機。
 生徒の教師に対する甘えまたは侮りや、生徒の侮りを覆すための教師の威厳。
複数の要因が重なった不幸な事件ではあれ、想像に難いということはない。

一方で、サウジの事件で焼死した生徒たちは、なぜ火の中に飛び込んだのか。
 火はまだ弱い、
 置き場所は近いからすぐ取りに行ける、
 そういった見通しの甘さか。
理解は容易いが、たぶんそうじゃないと思う。
 燃え盛る校舎から飛び出してくるまでに、命の危険を感じた。
その校舎に再び戻ることに、身体は恐怖を覚えたはずだ。
それでも、宗教警察(この実態も全く想像できない)に従って、戻った。
 日頃からのこの警察の取り締まりが凄まじかったのか。
 黒衣を着ないで出歩くことに対する格別の恐れがあったのか。
 成員の年齢を問わず、宗教的戒律は身の危機感に勝るのか。

日本人は宗教を観念的なものだとするが、彼らはそれを身体化している。
アラブ文化は観念的なのではなく、きっと観念を身体化する規律をもった文化なのだ。
そういう文化と、日本とでは、命の価値観も異なるかもしれない。
人間一人の命が、軽いか重いか、ということではない。

「一人の命は地球より重い」というフレーズを、過去にどこかで聞いたことがある。
日本かもしれないし、もとは欧米の思想かもしれない。
おそらく、アラブではそういう言い方はしない。
それはアラブ社会では一人の命が軽い、ということではない。
人の命に対して、そういう考え方をしない、そういう物差しを持ち込まない。


異文化理解の道のりは、遠い。
それも、現地で暮らすならまだしも、日本で、実際の異文化交流もなく想像するだけなら、なおさら。
けれど、想像することは重要だと思っている。
想像することで、理解が全く及ばない範疇の広さを実感できる。

相手の中に、自分には理解することができない領域がある。
他者の尊重、そして多様性の尊重のために、これは常に念頭におくべきことだと思う。