human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

毎日新聞(1/19 日)

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今週も、日曜版を読んで考えたこと。

1.

 
俳句を一つ取り上げて、何がしかのコメントを述べる小欄。
その小欄において評者は、交番前につくられた雪だるまを描写した一句に対して誰がその雪だるまを作ったのか、と想像を膨らませる。

 近所の子どもだろうか、派出所のお巡りさんだろうか。
 もし後者が、勤務中に作ったのだとしたら、職務怠慢だと叱られるだろうか。

その想像の結びの言葉に、ちょっと思考を刺激されました。
正確に覚えていませんが*1、子どもにせよ警官にせよ、遊び心はあってしかるべきだ(あるいは彼らの遊び心を周囲は大目にみるべきだ)、といった内容でした。


最初の違和感は、遊び心が当為の言葉で語られていることでした。
「遊び心を持つべきだ」あるいは「遊び心は容認せねばならない」、こういった語り口をとる人に、遊び心があるのかどうか。

けれどこれは揚げ足取りのようなものであって、違和感は別の進路をとります。

結句で用いられた「べき」はたんに、言葉のあやである。
深く考えず、筆の勢いに任せて自然に出てきたものである。
では、なぜそのようなことが起こるのだろう?

 × × ×

誰しも内にいくらかの遊び心を持っている。
そして誰しも、それを自然に表現でき、かつ周囲が認めてくれる(つまり、その表現が「遊び心の発揮である」と認識されて、軽く笑い飛ばすなどの応答が返ってくる)ことは、望ましいことだと思う。

訴訟社会アメリカの後を追ってのことなのか、ネット社会が実現させた個人の発言力の増大を主な武器として、”モンスター”を冠する人々が多方面において跋扈し、多種多様なハラスメントの主張に起因して発生する利害に組織も個人も敏感にならずにはいられない現代日本では、最早それは懐古的な願望であるのかもしれない。
相互監視社会の整備、PC(ポリティカリー・コレクトネス)の濫用といった状況に、それらがもたらした恩恵の裏で、多くの人がある種の息苦しさを感じている。

…という背景がまずはあって。

俳句の紹介欄を一読してまず考えてみたかったのは、ある願望が当為の形で(自然に)表現されてしまうことの意味についてです。
これはたぶん、個人の社会における発言が評論家的になったからですね。

「自分の発言を他人がどう解釈するか」、これは対面で会話する場合や、かつてのラジオの視聴者投稿コーナーのような場合においては、ある特定の他者に対する関心や、あるいは自己満足という指標のもとで考慮の対象となるものです。
一方で、社会的発言に責任を伴う職業や立場の人は昔も今もいるわけですが(マスコミ関連、有名人など)、そのような職業や立場に関係なく、インターネットというインフラツールの存在自体が、それを使用する人(だけでなく、直接・間接に関わる人も含めて)に、新聞記者や著名人と同じ責任意識をもたらすことになった。
その責任意識とは、つまりリスクマネジメントというやつです。

「こう言っておけば、無難だ・間違いはない・…「炎上」しない・クレーム対応可能だ・…」

一歩間違えれば(言葉遣いの一つで)大変なことになる、という理不尽さが、発言者に否が応にも保身の姿勢をとらせます。
そうして、リスク回避があらゆる言説に共通の「隠れた命題」であるかのように飛び交う言葉たちは、その生命力を削がれていき、「死んだ言葉」へと姿を変えていく。


ここ最近、ブログで何度か「言葉が死ぬこと」について触れてきましたが、今書きながら、この現象のひとつの定義ができそうだと思いました。
すなわち、「死んだ言葉」とは、言葉の宛先が血の通った一人の(あるいは複数の)人間ではなくなり、その代わり、情報化社会というシステム*2に基づいたルールに違反しないものとして想定される匿名的普遍的人間に向けられるようになった言葉である、と。

この「想定される匿名的普遍的人間」は、ルール化されてしまったという意味でだけ「普遍的」なわけですが、ここで想定されている判断基準はハイリスクベースド(high risk based)です。
つまり、リスク対象とされる人間像は巷で「なんたらモンスター」と呼ばれる人々にかなり近い。

それも当然のことで、なぜならリスクヘッジとは、彼らがもたらす理不尽な突発的厄災を未然に防ぐことだからです。
 

2.

 
上の話を書いてみて気づいたのですが、今日の新聞記事でもう一つ僕の関心を惹いた「炉辺の風おと」(梨木香歩)にもつながることでした。


梨木氏の父は介護士の介護を受けていて、ある介護処置上の不手際があった時、その経緯を知るために梨木氏が施設の担当者と話をした場面が書かれていました。

 その担当者は個人として好意的な人物であり、これまで何度も助けられてきた。
 けれど今回起きた問題に対する正確な説明を必死な気持ちで求めたこちらの問いかけは、
 電話の中で別の話題に振られることではぐらかされてしまった。

その瞬間に梨木氏は、場違いにも(まだ電話で会話しているのに)大笑いしてしまった、と書いています。
そしてあの笑いは、怒りの表現ではなかったか、と。

コラムの最後には、個人としていかに誠実で好意的な人物であろうと、彼(彼女)がそれと同じように組織人として振る舞うとは限らない、といったことが書かれていました。


コラムに書かれている、この個人の人間性と組織の冷徹さ(会社的プラグマティズム)の落差というのは、人間性が問われずにはいられないサービス業の中で特にその傾向が強い介護の現場において、劇的に現れるものなのだと思います。

この落差は、同じ種類の職業においても、時代を経るに連れて変化するとは思いますが、今自分が考えるには、この「変化」とはおそらく一方向的な増大、です。
当然、この落差に直面した人が受ける精神的衝撃も、大きくなっていく。

そのような流れの中で、「適応」という現象が起こります。

繰り返し起きる難局がもたらす苦痛を和らげるために、個人あるいは社会が採用する方策。
自然界の淘汰とは異なる、意識的なもの。
僕は、その適応の中身は「感度を下げる」つまり物事に対して鈍感になっていくことなのだろうと思っています。
現代社会は、そういう流れの中にある。


でも、別の方策もあります。
それを一言でいえば「自覚」です。

個人的なやりとりと組織をバックにした対応が異なるレベルで行われるのは当然である。
その落差が、組織(あるいは社会全体)の専門分化が進み、生活の利便性が向上するにつれて(たとえば通信技術の発達に伴ってコミュニケーションにおける身体性が取り除かれていくために)大きくなるのは、構造的帰結である。

こういった認識自体が、冷めた考え方であるとか、人間性がない、というのではありません。

自覚とは、行動や態度の基盤であり前提であって、そのアウトプットはもちろん人によって千差万別となるはずです。
そして冷静さとは、ある種の人物の特質(キャラクター)ではなく、あらゆる人が時に応じて取りうる状態のことです。
 

3.

 
話はころりと変わりますが、夕食時に時々読む内田樹氏のブログ記事の中に、ハッとさせられる言葉がありました。

blog.tatsuru.com

この記事の内容に関してついては実際読んでもらうとして、僕が目に留めたのはこの言葉です。

 「書物を商品ではなく、『人間にとってなくてはならぬもの』として扱う仕事」

本は、僕自身にとって「なくてはならぬもの」です。
読書は趣味ではなく生活であり、人生の主要な一部分である。
そして今僕がしている本の仕事は、この認識に支えられています。

一方で、僕が本や読書において考えている大事な要素は「自覚」です。
読書は本質的には人と本との一対一の対話であり、同時に読み手の孤独な営みでもある。
きっかけとして、人に薦められたり、みんなで一緒に読んだり紹介したりすることはあっても、人が実際に本と向き合う読書という場に、他者は介在しない。

これは僕の考え方であって、他にいろいろあるとは思いますが、僕のベースにこの考え方があることは、僕の仕事観にも影響を与えています。
それは、「”本はなくてはならぬものである”という認識を他人に押し付けることはしない」というものです。
この認識が、上の言葉に触れた時に僕の中に降りてきました。
(ちなみに「書物は商品ではない」ことは、僕もずっと考えてきたことです)


ウチダ氏の言葉に感化されて、今こんなことを考えています。

本や読書の効用を、声高に訴えるようなことはしたくない。
でも、個人的な利益とかコストパフォーマンスとか、そういうことを超えて、
「人間が本を読むこと」という普遍的な次元で思考を進めることはできるのではないか。
このような思考の展開と、本の仕事とをリンクさせることができるのではないか。

…何が起こるか、楽しみです。
 

*1:朝刊はすぐ手元にあるので見返せばいいのですが、自分が読んだ記憶をもとに書くという方針にとりあえずしています。

*2:システム:人間が社会の利便性向上のために組み上げたが、高度化するにつれて、もとは運用主体であったはずの人間の顔がどんどん薄れていき、ひとりでに組織化・再構成・増殖などを行うように見えるもの。そして運用主体の価値観をどんどん「システムの維持発展」が主目的となるように染めていくもの。