human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

香辛寮の人々 2-4 「アニス嬢によろしく」

 
階段を降りる足音が聞こえたあと、ディルウィードが居間に姿を見せる。
彼はソファでコーヒーを飲むフェンネルに目を留め、笑顔になる。

「こんにちは、フェンネルさん。いい香りがすると思ったら」
「やあ。君も飲むかい? さっき淹れたところだよ」
「ありがとうございます。実はちょっと期待していました」

奥のキッチンへ向かい、カップとソーサーをそれぞれ手にして戻ってくる。
テーブルにそれらをセットしてから、フェンネルの向かいに行儀よく座る。

「実はちょっと、フェンネルさんに相談がありまして」
「へえ、珍しいね。いつもは僕が聞いてもらってばかりだから。なんだろう」
「いえ、そんな、自分は…いや、まあいいか。ええと、同じ学科に気になる人がいまして」
ディルウィードは寮から近い大学に通っている。
「その、女性なんですけど、この間いっしょに散歩に出かけたんです」
「デートでかい? 古風だね。まあ、この辺りに遊ぶところがそれほどないのは確かだけれど」
彼はフェンネルを見ながら、うんうんと頷く。
「ああ、自分もそう思ったんですよ。年寄りくさいというか…あ、誘ったのは自分ですけど、彼女が提案したんですよ。『どこか行くなら近くを歩きましょうよ』って」
「…そりゃ素敵な彼女だね。僕と気が合いそうだ」
「あ、すみません、別にフェンネルさんが年寄りくさいと思ってるわけではなくて」
「いいんだ、間違ってはいない。それで、話の続きは」

こほん、と咳払いを一つして、彼は腕を組み、視線を上に向ける。
天井には反射を繰り返した午後の光が、濃淡を交えて斜めに差している。

「彼女とは同じ講義を取っていて、グループワークがあった時に何度か話したことがあったんですが、当然というか、いやどうかわかりませんが、その間の話題は講義のことばかりでした。だから自分は彼女自身については何も知らなかったんですが、ただ実用的な話を一緒にしているだけでも、どことなく魅力を感じたので、ある日講義が終わってから、思い切って話しかけてみたのです」
「それで、話がいい方向に弾んで、デートすることになったと」
「はい。で、この辺りは自然道の通った森や山があって、散歩には事欠かなくて…ということを彼女と歩いて初めて知ったんですが、それはさておき、いちおう望みがかなって、彼女とプライベートな話ができたわけです。だけど」
ディルウィードの俯いた顔は、ただ真剣なようにも、憂いを帯びたようにも見える。
「彼女のことをいろいろ聞けたのは良かったのです。自分のことも話したし、そうして彼女に自分を知ってもらえたことも良かった。一緒に歩いている間は楽しかったし『また会いましょうね』と言ってくれたんで、自分に対してわりと好印象を抱いてくれたのだと思います。ただ、どう言えばいいのか、うーん」

彼は目を閉じ眉間に力を入れて、うーんと唸る。
彼女と歩いた時間を思い起こしているのだろう。
ただ口元に、楽しい思い出の反芻に伴うはずの微笑は観察されない。

「その日待ち合わせ場所で顔を合わせた時と、じゃあねと別れた時とで、彼女が全く変わっていないという印象を受けたのです。なんか、つい最近の自分のことを分析するのも妙な気分ですが…彼女の趣味とか、好きな食べ物とか、そういうことを知って、なるほどなとか意外だとか思って、自分の彼女に対する印象が変わるのがふつうでしょう? もっと彼女のことを知りたくなったとか、なんか自分とは合わない人かもしれないなとか、いや評価という言い方は好きじゃないですが、彼女自身の情報が自分にある種の価値判断を起こさせて、見る目が更新される、変化を受けるはず。その「はず」が、全然そうではなかったことが、どうも腑に落ちないのです」
「ふうん。それは、君が彼女と一緒にいた時間という経験が、その時間それ自体は充実していたが、その経験は君と彼女の関係に何ら影響を与えていない、ということかな? 話を聞いていると、彼女の印象ばかりを意識しているようだけど、たぶん君は、その逆もそうだと思ってるんじゃないかな。つまり、デートの前後で、彼女の君に対する印象が全く変わらなかった、という印象を君は受けた」

彼はぎょっとして、見開いた目をフェンネルに合わせる。
「いや、そんなはずは…むむむ」
顔のパーツが統一を欠いたような、わりと穏当だが奇妙に見えるには違いない福笑いのような表情には、驚きと困惑と、一匙の悲哀が現れているようだ。

「…実のところ、そうなのかもしれません。思えば、大学の講義で最初に会話した時から、彼女は自分には親密に接してくれて、それは今も勘違いではないと思っていますが、でもその親密な感じは、最初からこの間のデートの後まで、一貫して揺るがない。いやでも、彼女は誰にでも愛想を振りまくような八方美人というわけでもないのです。やかましく絡んでくる男にはイヤな顔をするし、食堂でグループで食べている時なんかは、中立的というか、冷静というのか、感情を表に出さない落ち着いた表情をしているのです」
「よく観察してるね」
「た、たまたま目に入っただけです。そんなじっくり見つめるなんて失礼ですから。…それはいいとして、フェンネルさん。彼女の親密さは、何か意味があるのでしょうか? そこに…いや、期待しているわけではないですが、好意、みたいなものは含まれているのでしょうか」

彼の頬には、わずかに赤みが差している。
若いなとフェンネルは思う。
これは良い若さだ、とも思う。

「そうだね。僕にわかることは少ないけれど、言えることはある。その彼女のことだけれど…名前はなんていうの」
「あれ、忘れてましたね。すみません。アニスさんです」
「アニス嬢ね。いい名前だ。甘くて苦い」
「はい?」
「いや、聞き流してくれていい。そのアニス嬢のことだけど、僕とだいぶ違う人間ではあるが、性格の一部に共通点もあるらしい。君は僕を知っているから、この話は君にもわかりやすいだろうと思う」
「はい、お願いします」
「そうだな。一言でいえば、彼女は実験屋なんだ」
「ジッケンヤ?」
「一般的には研究者、かな」
「それはどういう…」
「つまり、君は研究されている。抽象的に言えば」
「?」

今度の福笑いは、目隠しを取って為されたらしい。
明確な困惑。

「解釈は君の自由だ。ただ、間違いのないように言っておくと、僕は君のことが好きだからね。君は人に誠実で、裏表がない。君といると僕は、前向きになれる」
「はあ、ありがとうございます…?」
「研究者だって誠実だし、裏表がない。ただ、その素直さが顕れる場面が、ふつうとちょっと違うというだけだ。アニス嬢と仲良くなれるといいね」
「ええと、それは応援してもらっているのでしょうか」

フェンネルは、満面の笑みを浮かべる。
笑顔の比重は、水より小さいのだ。

「アニス嬢によろしく」