human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

ブックアソシエータのつぶやき 1

 
耳年増というのがあって。
経験はなくとも話には聞いていて、なんだか知った風であるという。
本読みにも似た傾向があり。
読んだ話と実際にあったこととがごっちゃになるともうダメで。

何がダメなのか。

古本屋を始めたのが、いや開店は最近ですが準備は半年以上前からしていて、
とにかく開店のちょっと前から商品にするための選書作業をしています。
そのときの本の読み方が、今まで自分があまりしたことのない拾い読みというもので、
手中の本がどういう内容かを理解するよりは、他の本とどう繋がるかの方が念頭にある。

それは作業上は拾い読みに違いないが意味合いというか目的が異なるために別名を付けたくて、
思いつきと変換の妙で「二割読み」としてみるが「二割」はニワリではなくフワリである。
選書中の感覚がフワフワしていてうってつけであるが、ではどのへんが二割なのか。
内容理解が? と、……あと2つぐらい挙げるつもりが思いつかない。そうなのか。

「可能が可能であつたころ」という言葉が好きで、勝手に漱石先生だと思っている。
可能性はタテマエでもホンネでも使える便利な言葉で、訳せば「可能がホンネであった頃」だ。
いや大体の言葉がそうで、タテマエはホンネの裏返りだから、可能性のタテマエとはああ怖い。
たしか、人生のうちの子どもの時代を指して言われたのではなかったか。

あるいは、何が「あるいは」なのか、つまり別の話だが価値という言葉があまり好きではなく、
なにか事が始まる前から終わっているような非活性が見ようによってはあらわである。
情報が増えるというのは価値があふれ返ることなのかと辟易させられる。
逆に言えば価値がつかない情報は流通しないのだが、そんな情報にこそ価値がある、

というクラウドネット奴隷根性が情報の海抜を押し上げる。上方に。情報だけに。

「二割読み」は正直言って、可能性のシャケの産卵である。ホンネのほうの。
シャケと同じく、孵る卵はごく少ないが。いや本当だろうか。どっちが。
考えようによっては、人間の限界に挑戦しているようでもある。
マルチタスクの鬼というか、デスクトップをどれだけアイコンで散らかせるか、みたいな。

ものごとを確定させていかないと、人は日常生活がままならない。
会話する言葉の意味はもちろん、契約書を切らないと部屋が借りられない。
「二割読み」の鎖書作りは、その人性の自然にあらがう営みである。
不確定をどんどん増やす。ぽんぽん増やす。というか増える。

それにどこまで耐えられるか。ガマン大会ですな。


え、そうなの?

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