human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

Quindecim annos, grande mortalis aevi spatium.

 伝記のエクリチュールにおいて、これらの時系列の省略と対比は、ある自己の経験、すなわち不可避なものの経験を通して、自己が自己に決して一致しないということを繰りかえす経験を表わす方法である。もしくは別の言い方で言えば、世界と自己の歴史性の意識化もしくは表現である。記憶とは、「言語という手段を通して時間性の中で自分を煎じ詰めるこのような時間のエクリチュール」の媒体なのである。ある意味、シャトーブリアンは最初の自我=歴史家である!

第3章 シャトーブリアン p.158(フランソワ・アルトーグ『「歴史」の体制 現在主義と時間経験』)

抜粋した本は、かなり厄介な本で、ちょっと読んで間をあけて再読すると何が書いてあったかもう分からなくなるし、そもそも最初に読んだ時から自分が何を理解したのかわからない(人に説明なんて到底できない)という難解な本なのですが、それでも読み続けられるのは「エクリチュール」、内容そのものというよりは筆致とか著者の言わんとすること(←これは内容ですね)を言おうとする姿勢というのか、「簡単には言えないこと」を回り道を繰り返してねばり強く言葉にしていく、たとえば文机の前で正座して、真顔で懐手に腕を組む明治人のような…いや、よくわかりませんが。

その、ちびちび読むとわからないんですけど、途中からでもいくらかまとめて読むと、何か心に染み込んでくるものがあって、それは内容理解とは別の形で自分の身になっているはずなんですが、それは思考の種であって、自分でそれを育てないと芽吹かないし、放っておくと殻を破る力を失ってしまうかもしれない。
まあその、育てるというのが、ジョウロで水をやることでもあり、日光や雨に当たるように日なたに置くことでもあり、土を新鮮なままに保つことでもあり、介入の直接性・関節性には幅があって、より直接的であれば効果的であるとも言い切れない。

だからなんだという話ですが…

 × × ×

とっつきやすいところから始めましょう。

「記憶とは…媒体なのである」という表現に出会って、まず驚き、複数の連想が同時に発生して収拾がつかなくなったのでした。


記憶媒体という言い方がありますが、あるいは記憶メディアでもいいですが、たとえばそれはHDD、フラッシュメモリなどを指します。
そのスペックのことを記憶容量ともいう。
ただこれは、記憶を納める媒体(あるいは記憶できる容量)という意味で、記憶が媒体だと言っているわけではない。
媒体でなければもちろん、内容、コンテンツですね。
記憶とは内容である。

…ではない、というのがまずは、表面的な驚きでした。
つまり、常識からの外れ、奇抜さを最初に見て取ったということですが、ではこの表現そのものが非常識な、通常の感覚から理解しがたいのかといえば、そんなことはない。

僕はむしろ親近感を覚えました。
そういう考え方を自分の傾向の一部として持っていて、けれど名前を持たなかったそれに適切な表現を与えてくれた。
親近感、とはそういう意味です。

 × × ×

プロセスと結果の話について、最近の記事の中で幾度か触れたと思います。
あるいは前提と評価という対比をこの話に関連づけもしました。
この文脈に、本記事のテーマも連なります。

つまり、

 メディアとコンテンツの対比、
 一方的な重み付けと価値の転倒、
 意味の反転による本来性への回帰、

といったことです。

本当かな…
最後まで辿り着ける気がしませんが、とにかく続けます。

 × × ×

コンテンツが大事、という価値観は、それをどんどん推し進めると、コンテンツそのものの完結性に行き着きます。
完成度の高いコンテンツは、それが提供される前から、万人に価値(の高さ)が分かっていて、受け手の解釈や工夫の余地がない、あるいは拒みさえする。
これは、プロセスの消失、結果の一方的な享受、でもある。

ここで、コンテンツとしての記憶について考えてみます。
思い出と言った方がより実感しやすいでしょう。

観光業のタームで「思い出づくり」という表現があります。
親子向け、カップル向け、など対象を絞ったうえで「外れナシ」「感動間違いなし」などと銘打たれたお仕着せプラン。
これらの観光プランを練った人間は、この場所でのこういう体験が思い出に残るという幾つかの想定をして、それらをルートにしかるべく配置するでしょう。
それが本当かどうかは今は問題ではありません。
僕が思うのは、観光業者の考えている思い出が「客の個別性に関係なく定まったもの」であり、プラン内の体験が思い出として残ることの価値が「体験が記憶の中で(時間が経っても)そのままの形を留めること」にあると想定している、ということです。
これが、記憶のコンテンツとしての価値を極めた一つの形です。


もちろん、極端な言い方をしたのはその方がわかりやすいからです。
では、他方の、メディアとしての記憶について。
こちらも極端に考えてみます。

…というか、「メディアとしての記憶」の極端な一例が、引用したアルトーグ氏の本の第3章で中心人物の、18世紀末フランスの歴史家・旅行家シャトーブリアンの一生なのでした。
第3章はシャトーブリアンの伝記のようでもあり、彼の生涯をたどりながら本のテーマに合わせてアルトーグ氏が解釈を加えていく、そのような記述の一部が上の引用です。

だから本書のこの章を読めば「メディアとしての記憶」のイメージがなんとなく分かるし、僕が可能ならそれをここで言葉にすればいいんですが、先に言い訳した通りたぶん「理解」はできていなくて、親近感を抱いたという、つまり価値観としてシャトーブリアンとそう遠くないところにいるはずの僕の解釈を書いてみよう、と思ったのが本記事を書く動機でした。

…やっとスタート地点に立ったようです。さて。


上でとりあげた「コンテンツの究極」と対比させれば、その特徴が見えてきます。
メディアとしての記憶は、変化を前提とし、変化の機を内在しています

またちょっと話がズレますが、思い出に関連して「後悔」について考えると、話が少し分かりやすくなると思います。
自分の昔の言動を後悔するという時、それは振り返る当時のある特定の経験を恥ずかしいと思ったり、その経験が今の自分の境遇や人間関係にマイナスの影響をもたらしたと感じるからです。
そして、未来の自分のことをちゃんと想像して、後悔のないように行動しなさい、といった説教が成り立つ。

でも実際、わかんないですね。
未来の自分がどう考えるかなんて。
想像しろと居う方は言えるし、する方は想像してみることはできる、でも当然、その想像通りの未来がやってくるかどうかはわからない。

「あんなことしなきゃ(言わなきゃ)よかった」と言えるのは、既に過去となった出来事と、現在の状況との因果関係を想定できる位置に自分がいて、現にいま自分がそう想定しているからです。
では、後悔の原因はどこにあるのか?
過去の出来事か?
違いますね。
過去の出来事を恣意的に今に結びつけている、「現在の自分の想定」が正しい。
現状の不満や不首尾が、頭の中を後悔に仕向けるのだとしても、その現状の言い訳をするためにひねくり回す自分の頭が原因であって、現状は動機、きっかけに過ぎない。

人が自分の過去の経験を後悔するかどうかは、経験の内容に関わりなく常に、現在に懸かっています
それは、経験の記憶、体験の思い出というものが後になってから、いくらでも変化するからです。


変化を前提とする記憶とはたとえば、このようなものです。
でもこれは、たぶん「メディアとしての記憶」の性質の一つに過ぎません。

 × × ×

…話が進みませんが、力尽きました。

触れたいことがまだあったのですが、そのトピックと、あと上の引用に続く気がかりな一節を引用しておきます。
「気がかり」なのは主観ですが、この引用はこれだけで「メディアとしての記憶」の別の特徴を表しているようにも思います。

・定点観測について
  「定点からの観測」ではなく「定点の観測」
  そもそも観測ではない、客観を捨てた(緩めた)体験
・脳内BGMの記憶としての性質
  音楽のリピート再生とコピペ文化
  一回性のライブ視聴と、思考とリンクする脳内BGM

 しかし、ここでシャトーブリアンは、特に自身のことをもはやこのように存在しない者であるかのように話している。時間の作用が、自己を、自分自身からいなくならせ、究極の不在にまで至らせる。それは物事の劣化であり、自同的なものの場所に忍びこむ他者である。(…)旅行者であり作者である者は常に時間のうえで二つの寄港地のあいだにいる。「私は常に自分をもうすぐ再び船に乗り込む船員としてみている」。

同上 p.158-159