human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

保坂-森リンク、予感が賭けるもの

『血か、死か、無か?』(森博嗣)を図書館へ返却する直前に、剥がしてなかった付箋箇所を読み返すと、つい今しがた読んでいた『小説の自由』(保坂和志)へと連想が繋がる。

シンクロニシティは客観と意味の結合だとか、図書館で借りる本は自分で購入する本とはまた違った緊張感がある(出版界の各方面の事情はどうあれ、読者自身は「どちらの方がいい」というものではない)とか、そういえばこのWシリーズ第8作は待たずに借りれたけど次作は予約が30人待ちで一方大阪市内の図書館所蔵は3冊でベストセラー本の複本問題はなかなか複雑だなと司書講習で他人事のように習ったことの実際を目の当たりにして思ったりとか、いろいろあるんですがとりあえず本返すんで抜粋メモだけしておきます。
太字にした部分は、文脈とは別の興味です。

 この[柴崎友香『青空感傷ツアー』の主人公の]わたしは、『金閣寺』[(三島由紀夫)]の私のようにバザールに火をつけたりはしない。このわたしが視線に先行してはまったく存在せず、視線によってもたらされた私に完全になっているとまでは言いがたいし、この場面が『子どもたち』[{チェーホフ)]ほどに拡散的な視線の運動を作り出しているとも言いがたいけれど、方向としてはそういうものと言えると思う。
 この視線の運動と私の主体性なり私の意志なりとは、同じ場所を占めることが難しい現象なのではないか
「現象」という言葉は、それ自身が原因とはなりえない言葉で、私というものを指すときには不適当と感じる人もいるかもしれないけれど、私も私の主体性も私の意志も、すべて現象であり、小説には、本当の意味でそれに先行するもの(原因)はない、という認識が視線の運動の基盤にあるのではないか

保坂和志『小説の自由』

 頭の中の発想というのは、逆戻しができない。これは、理屈がない、時間がない、前後関係、因果関係がないからだ。元を辿れないというよりも、元がない。つながらない、ばらばらの離散イメージだから、一瞬だけリンクらしいものを予感しても、実は、なんの関係もない。

森博嗣『血か、死か、無か?』

小説の自由

小説の自由

 × × ×

ついでに、『血死無』から抜粋をあと2つ。「考えたい欲求」がむくむくとわいてくる箇所。

不思議なもので、以下2つと上の1つ、計3つが「残していた付箋箇所」なのですが、上の1つがいちばん「考えたい欲求」の強度が低かったはずで、けれどそれは強度云々よりも、きっかけ待ちというか、欲求を起動するための入力が不足していたのだと後付けですが推測できます。

予感とは、それは予知とか予測とは違って、「思った通りのことが未来に起こる」ではなく「この先何かが起こる」という、それらよりもっと漠然とした感覚で、内容が曖昧なら当たり外れも曖昧であって、未来への投資でありながらすぐれて現在的な現象である、のだと思います。

なぜなら、予感の当たり外れに賭けられているのは「自分自身」だからです。

つまり、仮説が正しければ、結果は順当なものになる。意外な発見がない方が良い。それでも、なんとなく、イレギュラなものを求めてしまう感覚はたしかにある。そういうものを人間は、面白い、と評価する傾向にある。意外なものに出会ったとき、人は笑うし、興奮するものだ。
 多くのエンタテインメントが、これをやり尽くして、人々は面白いものが目の前に現れる日常を楽しみすぎた。だから、意外なものが展開するのが日常になっている。きっとそんなところだろう。僕が特別なのだ。そういうものを極力見ない生活をしているし、いわゆる「遊び」のような行為からすっかり遠ざかってしまった。
 遊びって、何だろう、とふと考えてしまうほどだ。


 電子は光速で走る。それが宇宙の限界を決めている。あらゆるものは、この物理法則に従っているのだ。もしも、ミクロ化しないコンピュータ、つまり思考形態が成り立つとしたら、それは……、おそらく、高速ではないものになる。それは、我々から見て、高速ではない時間を持っていることになる。
 ゆっくりと思考するのか……、と僕はそこで息を止めた。
 スローライフとでも呼べそうな生体なのか。
 たしかに、それは永遠の存在に近づける一つの道かもしれない。
 だが、残念ながら、手が届かない。人間の時間、思考時間では、そこへ行き着けないのではないか、と予感した。
 もしかして、我々が、速すぎるのか?
 これまでに考えたことのない方向性だった。
 ただ、それ以上に、発想を絞り出すことができなかった。

同上