human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

トラックのダッシュボードにイリイチがある世界(1)

 
『街場の現代思想』(内田樹)を、学生の頃に好んで読み返していました。
こういう仕事がしたい、という明確な像を持っていなかったし、そもそも仕事に対する強い意志もなかった時期、大学院生の頃でした。

こんな極端なニュアンスではなかったと思いますが「思想は暇人が紡ぐものである」みたいなテーマの断章があり、その中で長く覚えているフレーズが「トラック運転手は現代思想なんて絶対読まない」というものです。
運転手の仕事と、その仕事を成立させるための日常生活、それはきっと、「かなり即物的な生活」と言えると思いますが、現代思想の営みはその真逆に位置するわけです。

現代思想形而上学の一種で、と言って僕は形而上学に詳しいわけではなく、せいぜい形而下でないあらゆる事象を扱う学問のことだろうと思うくらいで、まあこれでは何も分かりません。
もっと砕けた言い方をすれば、日常生活と何らかの関係はあるのだろうが直接的に関係することはまずありえない事柄のこと。
直接、これがほぼ即物的と同じ意味を指す。

そのフレーズは、読んだ時はまあそうだろうという程度の感想を抱き、しかしどこか引っかかるところがあり、時々思い出すことがあるごとに、「忘れていた」ではなく「覚えていた」という印象を持つくらいに、僕の中に留まり続けていました。
暇人が新しい思想を生み出すのなら自分が創造してやろう、という思いもありました。
それは今だってあまり変わらないというか同じ強度の興味を持ち続けていますが、その野心と呼べるようなものは、関心のエネルギーを一定度備給しつつも、先を見据える方向に変化が見られる。

その関心事に前向きな状態の自分は、腕をいっぱい伸ばして斜め上方を指差す、それは夜で、過去も今も肘の角度は等しく、指の先ではなく「指の先にあるもの」を見ているのも同じ(いや、その腕は自分ではなく、師のものである。)、けれど過去に見ていたのは一つの星、対して今は無数の星を含む夜空全体である。

 × × ×

唐突ですが、共通思考の話をします。

森博嗣講談社タイガという文庫で出している未来小説、W(ウォーカロン)シリーズに出てきます。
善悪の齟齬、思想の対立、国同士の戦争、人や集団が敵対し、多くの人間を巻き込み、傷つけ合い殺し合う、繁栄を目指す人類においてはそのような事件は問題であり失敗である。
共通思考は、そのような間違いを繰り返さないための、多様な異文化集団が平和にコミュニケートするためのデータベース、それは現代人がその呼称から想像するよりもずっと動的でフレキシブルなもの。
人工知能が国の政治決定に携わり、また各地で起こる事件をリアルタイムに把握して複数の未来情勢を重み付け計算できるほどに高度化した世界の、その人工知能たち(なのかな?)が構築を目指すのがその共通思考です。


人工知能がそれだけ発達して、人間は物事に対して深く考える必要がなくなった。

些事に煩わされなくなれば、もっと大切なこと、もっと本質的なことに関心を向け、エネルギーを割くことができる。
便利さの追求とは、もともとそういう発想が動機の、手段の一つだった。
それが、利便性追求の独り歩きになると、手段が目的になる。
「もっと大切なこと」「もっと本質的なこと」と、かつて呼んでいたもの、それらは姿を変えて見失う、あるいは明確な一つに統一されて目前に現れる、「便利さの追求」という姿で。

共通思考によって安定化された世界は、ユートピアであり、ディストピアでもある。
それは矛盾ではなくて二極化である、つまり本人の認識次第でどちらでもありうる。
なぜか、それは安定化が、正確には安定の定常化が、極端であり異常だからである。
極端を目指す意識の志向性、かつて身体が抑制し得たそれを科学技術が解き放った。

 × × ×

共通思考の話にどうしてなったのか、ここまで書いて少し見えてきました。

と言いながらまた話が変わりますが、『パンプキン・シザーズ』(岩永亮太郎)の20巻か21巻で、正義の話が出てきます。

 人の数だけ正義がある。
 人々に共有される意味を持つように思われるが、人はそれに寄り掛って、あるいは利用して、自分の正義を語ることができる。
 そして一つの正義は、別の正義と対立し、また批判することができる。
 定まった形がなく、それでいて永遠に対立を生み出し続けるもの。
 正義とは、人の制御の敵わない、魔物のような概念である。
 ただ、そのように生まれ続ける対立や批判は、蓄積することができる。
 知識や知恵は、そのような蓄積のことである。
 蓄積の営みを怠らず、整理分類すれば、新たな対立の解消に活かすことができる。
 情報技術の発展は、この「正義の効果的な蓄積」の可能性を高めることができる。

無線通信が一般化されていない世界が物語の舞台で、技術革新と正義の追求が一つの文脈で繋がる展開を読んだ時は、それまで「戦争もの」だと思って読んできたのが途中いろいろテーマが増えていくなと感じていたわだかまりが氷解したようで「へえ!」と思いました。

いや、そんな感想は今はいいんですが、この「正義の蓄積」は、上に書いた共通思考と同じ方向性の思想といえます。

 × × ×

共通思考、あるいは正義の蓄積、これは恐らく現実的には完成、完遂されるものではありません。
おそらく、確実に。
では無駄な営為なのか、といえばそうではない。
到達する見込みのない目標へ、分かっていながら突き進む。
広く捉えれば、そのように人間は生きています。
それを生きがいだとすら感じて。
プロセスが大事なのだ、という言い方もできます。
その通り。

共通思考を構築する努力、研究かもしれませんが、それはとてもやりがいのあることだろうと思います。
ただ、それを利用するだけ、享受するだけの人は、どうか。
自覚があればいい、選択ができるのだから、イヤなら使わなければいいという。
でも、もし本当に共通思考というシステムが完成したのならば、その機能は「人々の無自覚的従順」という形で発揮される。


それを推進し、導入を目指すのは、統治の思想です。
集団を制御できる個人の発想。
そして情報技術の高度化は、集団を制御できる可能性を、統治者から一般人に広げた

支配欲、なんてもの本当にあるのだろうか、とふと思います。
人間が人間を支配することに対する欲望。
もしかしてそれは、文明の産物かもしれない。
支配できる手段が、ツールがあるから、支配しようと思う。

環境が欲求を生み出すのは、ありふれた事象です。
三大欲求はさておき、生活における「やりたいこと」や、将来の夢などが、何も外部の影響を受けずに生じることはまずありません。


「必要は発明の母である」、これは技術水準や生活水準が低い、発明家(これは生活者とイコールでした)にとって幸福な時代の諺で、いつからか現代社会を端的に表すようになったのは「発明は必要の母である」、こちらの方です。

この逆関係の2つの諺、これらを比べて眺めていて、先の文脈からふと疑問に思うことがあります。
前者の「発明」、これはプロセスを指します。
「必要」は前提状態ですね、何か解決すべき問題がある、改善したい不都合がある、そういう初期状態に対して発明というプロセスが営まれる。
では、後者はどうなのでしょう。
「発明は必要の母である」、この中の「発明」は、前提でしょうか? また「必要」は、プロセスでしょうか?

何か、言葉の意味が、ひどくおかしくなっているような気がします。
あるいは僕の日本語がひどくおかしいのかもしれませんが……次回はこの割り切れない感覚を言葉にするところから続けたいと思います。

(続く)

 × × ×

街場の現代思想 (文春文庫)

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Pumpkin Scissors(21) (KCデラックス)

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