human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

エンパワーメントサラダとパウリング

昨日歯医者へ行って、虫歯の治療跡に金属の詰め物をしてきました。
予定では1週間で済むはずが、一度目は衛生士の型取りが失敗して(とはあちらは言いませんでしたが)歯と金属が合わず、けっきょく仮のゴムゴムした詰め物で昨日までの2週間を過ごしました。

仮物の間はガムや餅など、くっつくものを食べないようにと言われて、その通りにしたつもりだったんですが、朝食のミューズリーに入れているドライフルーツ(レーズンはまだしも、キューブ状のマンゴー系のものが強敵)がよくなかったらしく、仮詰めした翌朝に変形し、その次の日にはとれてしまいました。
とれたやつは鏡を見ながら入れ直しましたが、結局朝食メニューを考え直し、オートミールのベースを臨時でミューズリーからグラノーラに変えました。

グラノーラは味が付いていて、口に入れた最初から甘味が広がるので美味しいといえばそうなんですが、普段「ストイックミューズリー」と呼びたくなる代物(←ベースのアララミューズリーに生の押麦もち麦をトッピングしたもの)を執拗に噛み砕いて唾液分泌で味を出していた習慣からすると、味気ないというか、(素材が)軟弱だなあとつい思ってしまいました。
それが昨日に歯が元通りに、というか元通り以上になって(虫歯を治療した箇所はそもそもミューズリーの繊維が毎日のように詰まるほどの隙間があって、今回金属でそこを埋めてもらいました)、昨晩の食事もいつも以上に美味しかったんですが、今朝メニューを戻したミューズリーを食べて、心置きなく噛めるのはいいなあと改めて思いました。

ボルダリングもそうですが、食事なり運動なり、身体を使うという時にどこか不調があって、仮留めが外れないかとか悪化しないかとか気を遣いながら動かすのは、不完全燃焼というのか、常にわだかまりを感じているようなものです。
その不調が当たり前になるとか、慣れざるを得ないような場合は、そういう適合をするしかないし、適合した場合にそれがデフォルトになってわだかまりも解消されるのでしょうが、そうではなく不調の回復が見込める場合は、どうしても上向き(のはず)の将来のためにブレーキをかけてしまう。
考えようによってこれは、未来のために今現在の充実を犠牲にしているとも言える。
計画とか予定とか、ありふれて人間らしい行為には、この一面がある程度は必ず含まれるもので、「脳と身体は真逆の志向性をもつ」と言われるのはこういうことかもしれません。


サラダの話になりませんね…しちゃいましょう。

その、仮留めの間の話で、今週半ばだったと思うんですが、夜に外食しようと思って、事前にネットで見つけていた近所の中華料理屋に行くと閉店になっていて、あれれどうしようと思いながら同じ道をそのまま進んでいると入ったことのないスーパーを見つけて(天六周辺は本当に多いですね、徒歩圏内で5,6店はあります)、入ってみたらサラダ菜がかつて見たことのない安さで売られていて(あの、袋を手に取った時の軽さでいつも購入をためらっていたんですが、ふつうなら100円以上はする一袋が30円台でした)、思わず籠に入れてしまい、周りを見渡せばサラダ素材がいくつか安かったので折角だし久しぶりにサラダを作ることにしました。
ヘルシオを使い始めて2年は経っていますが、そのオーブンで焼き野菜ができるようになってからサラダを作る頻度がぐんと落ちて、今週作ったサラダは、思い出せませんが1年近くぶりくらいだと思われます。

サラダ菜、サニーレタス、水菜、キャベツと買って、ドレッシングはないからオリーブオイル使って手作りするとして、味が足りなさそうだから上に肉を乗っけるかと思って、鶏皮が安かった(100g60円くらい)ので買って、あとはミューズリーのトッピングに使ってるナッツを砕いて入れるか、などとスーパーで算段を立てました。

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上がサラダ一日目、下が一日おいての二日目です。

何が書きたかったかというと、久しぶりに作ったからというわけでもないですが、サラダはどうも作ると分量が多くなってしまって、というのも刻んでザルに入れる時には少ないかなあと思ってちょこちょこ量を増やすことになって、でも洗って水を切って盛り付けるとアラ不思議、膨れ上がって体積が増えている。
まあ不思議でもなんでもありませんが、それを見越してのことだったか、サラダ用に巨大な器を岩手にいた時に古道具屋で買っていて、写真ではよく分からないかと思うんですが、うーん、草の量でいえば、キャベツ1/4玉で器が半分満たされるくらいです。ご飯もパンも、完全に「おかず化」しています。
それで器に入るもんだから調子に乗ってどんどん切って、なんだか量が恐ろしいことになって、一日目は食べる前からゲップが出てお腹も痛み始めたんですが、いざ食べ出すと、どんどん身体が熱くなっていって(途中でウィスキーの力を借りたせいもありますが)、後半は腹痛も止んで、満腹で箸が止まるようなこともなく食べ切れました。

何が書きたかったかというと(二度目)、二日目は慣れもあって、あと惣菜の唐揚げを足したりしてスムーズに食べられたんですが、身体が熱くなったというのは、もっと言えば興奮状態になって、サラダを食べてこんな身体状態になったのは初めて…いや、学生の頃サラダバイキングで似たような経験をした気もしますが、こう、「普段の姿勢じゃマズイな、ここはひとつ奮起するか」と身体の方が火事場の自覚というか勝手に危機感のようなものを覚えたようで、わりと最近のことだと思うんですがスーパーの惣菜エリアで唐揚げなどの肉をのっけたサラダが「パワーサラダ」なる名称で売られているのを目にするようになって、でもそのトッピング肉の「ちんまりさ」につい原価計算をしてため息をついていたんですが(だってそれだけで普通のサラダ100円増しですよ)、パワーサラダと言うからにはこれくらいじゃないとな、いや待てよ、これは食べて元気になるサラダというより「食べるために元気になるサラダ」だな、と思って、自分のサラダにタイトルのような名前をつけたのでした。


しかし思えば、養護施設などで、流動食でも栄養は摂れるけど素材の形を留めた料理を食べて元気になるという話は、もちろん食感が大いに影響しているんですが、料理の形態をきっかけとして鼓舞される食事者の姿勢が重要なのですね。

食事によってエネルギーを獲得するが、食事行為そのことでエネルギーは消費もされる。
睡眠もそうで、いや寝てもカロリー摂取はできませんが、消費と回復の両面を担う活動であるという意味で同じです。
そういう身体活動の複雑さを数値化することはできない、とは思いませんが(たとえばカロリーとは別の指標と思われる食感の効果については、唾液の分泌量が関係しているのでしょう)、数値化が単純化になるようではいけないなと思います。


そういえば、最近読み始めた本↓で、序論でユングとパウリの交友のことが書かれていて「へえ!」と思ったんですが(前に読んだ↓↓ハイゼンベルクの自伝にもパウリのことが書かれていて、骨の髄から理論屋の彼が近づくと実験装置が故障するという「パウリ効果*1」は相当有名なようで、このことはどちらの本にも書かれています)、心理学と物理学の協調とか、客観に意味が与える効果とか、すごく面白そうな話が書かれているようです。
パウリはかなり壮絶な人生を歩んだようですが、僕はパウリの生涯を通した姿勢こそが科学的な考え方だと思います。

シンクロニシティ

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cheechoff.hatenadiary.jp

*1:ハウリングに託つけて「パウリング」でどうでしょう。