human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

しずか【静か】、連想と鍛造

 
 草の芽の伸びる音さえ聞き取れそうにあたりは静か。

 湖面が小波一つないほど静か。

 生気に満ちた音がすっかり掃き清められたように静か。

 冬眠中のリスのように静か。

 休日の病院が墓場のように静か。

 風鈴のかすかな音さえ騒がしすぎるほど静か。

 耳がなくなってしまったのかと勘違いするくらい静か。


 居るのか居ないのか分からぬくらいにいつも静かな男。

 海老が髭を動かすさえも聞こえそうなほど静かな店。

 真空地帯みたいに静かな路地。

 湯呑みに茶を注ぐ静かな音が茶の間に広がる。

 ひっそりとして人の出入りも稀なほど静かな暮らし。

 家の中を静かに夕暮れが満たす。

 影のように静かに歩く。

 雲ただ静かに屯する。

 呼吸しているとは信じられないほど静かにしている。


 ロビーが一瞬冷蔵庫と化し、そこにいる人たちを沈黙させる。

 霧が微かな音を立てる。

 新聞紙を細かく引き裂いて厚いカーペットの上にまいたほどの音。


(以上、小内一 編『てにをは連想表現辞典』p.482-483「しずか【静か】」の項から抜粋)

てにをは連想表現辞典

てにをは連想表現辞典

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ブックアソシエータに関連して、連想について勉強したほうがいいかとふと思いついて、大阪市の図書館で「連想」のタイトルを含む蔵書を検索していくつか本を借りました。
上がその一つです。
さっき初めて開いてぱらぱらとページをめくってみました。

これは辞典で、索引語に対して、その語を含む文学表現(編者が20年かけて集めたとされる作家400名の各々1〜3作品中の文章表現)が列挙してあります。
考えればなるほどですが、索引語としては凝った表現よりは凡庸というか汎用性の高い表現の方が、それを含む文学表現が多く引用されています。
例えば上に引いた「静か」は、これと同じ意味(あるいは下位概念?)の「静謐」よりも、圧倒的に列挙数が多い。
そして、表現が多いほど、面白い。
この表現の雑多さ、多様さこそがその語(=索引語)からの連想の豊かさということで辞書のタイトルに「連想」とあるのだと思いますが、それだけではない。

「静か」という一語が、これだけ多くの「別の意味をもった言葉たち」とくっついて、違和感がない。
言い方を変えれば、「別の意味をもった言葉たち」のそれぞれが、それら各文章の中で「静か」の一語に収斂されている。
「〜のように静か」と書いてあり、それを読者が先頭からつらつらと文字を追って読み、「静か」までたどり着いた時、その手前までの「〜のように」の内容はすべて、「静か」の一部になっている。
そのようにして、「静か」はどんどん、内に含むニュアンスの多様さを広げていく。
言葉が、意味を獲得する。

「その主語は?」と気になるかもしれません、「その言葉を扱う主体は誰?」と。
出版書籍の本文データベースか、Googleブックスか…という話ではありません。
主語は僕です、そしてあなたです。


連想というのは、その活動が現れた時に、脳に特殊な躍動感をもたらすものですが(たとえば、思い出せそうでなかなか出てこなくてずっと気にかかってた昔の有名人の名前がある時ひょっと分かった時の感覚です)、これは比喩かもしれませんが、自分の頭の中に息づく言葉が新たな意味を獲得してその言葉とリンクしている言葉群ともどもが生気を吹き込まれ、活性化することでもある。

「鉄は熱いうちに打て」。
鍛造工程は金属を高温に熱し、冷める前に叩いて整形するとともに強度の獲得を目指します。
上で「躍動感」とか「活性化」と言ったのは、冷めた金属が再び熱を得るようなものです。
変化し得る状態になること、過渡期への遷移。

単純に強さを目指すなら、熱い間に鍛えるだけ鍛えて、冷やして終わりにすればいい。
でも僕らは、強くなるために生きているわけじゃない。
強くならなくちゃ乗り切れない、苦しい時期もある。
でも、強くなったばかりに、いちばんそばにいたい人の弱さが理解できなくなることもある。

弱さを獲得するために、もう一度自分の内に火を灯す。
弱くなるために、熱を得る。

そういうこともある。

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p.s.
最初に引用した「静か」の表現の中で、村上春樹の作品からのものが2つあります。
その文体が好きで、ハルキ小説をたくさん読んでいる人には簡単な問題だと思います。

小川洋子のものも2つあるんですが、これは、言われてなるほどとは思っても、知らずに当てるのはちょっと難しいなと僕は感じます。

この差には僕は、作者の文章表現の特異度よりも、読者が作者の文体に親しむ程度の方が効いてくると思っています。