human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

「砂漠だけが生きている」、生と死のフラクタル

 彼女は、すべてを見られる。世界中のどこにでも目を持っている。地理的にも歴史的にも、すべてを見てきた。人間のやることを、全部知っている。
 無限ともいえる知性、あるいは思考は、どこへ行き着くのか。壮大な実験を人間はスタートさせて、そのまま忘れてしまったのだ。コンピュータは、言われたとおりに学び続け、知性の実験を続けている。
 なんとなく、虚しい。
 人工知能が、無限の虚しさに襲われても無理はない。
 想像しただけで、躰が震えるほど、それは虚しく、悲しく、寂しい。
 あまりにも多くのものが動き回っているのに、トータルしたものは動かない。まるで大地のように、この果てしない氷原のように。
 生きているものを無数に集めれば、そこには死の静寂がある
 たぶん、そうなのだろう。
 理解はできないが、その雰囲気を少し感じることができる。
 できるような気がする。

森博嗣『青白く輝く月を見たか?』講談社タイガ

下線部を見た瞬間に、砂漠を思い浮かべました。

 砂漠…砂漠だけが生きている…?
 どこで読んだフレーズだったか。

思い当たる小説を参照してみました。
沢山貼られた付箋の中の一つの、関係はないがそのそばの箇所に、それはありました。
これと、もう一箇所、同じ小説の中にあったはずなのですが、ざっと全ページを見返しても見つけられませんでした。

「砂漠のことを考えていたんだ」と僕は言った。
「砂漠のこと?」と彼女は言った。彼女は僕の足元に腰をかけて、僕の顔を見ていた。「どんな砂漠?」
「普通の砂漠だよ。砂丘があって、ところどころにサボテンが生えてる砂漠。いろんなものがそこに含まれて、そこで生きている」
「そこには私も含まれているの、その砂漠に?」と彼女は僕に訊いた。
「もちろん君もそこに含まれているよ」と僕は言った。「みんながそこで生きているんだ。でも本当に生きているのは砂漠なんだ。映画と同じようにさ」
「映画?」
「『砂漠は生きている』、ディズニーのやつだよ。砂漠についての記録映画だよ。小さい頃に見なかった?」
「見なかった」と彼女は言った。僕はそれを聞いてちょっと不思議な気がした。

村上春樹国境の南、太陽の西

連想が、同じものを結びつけたかどうかは、わからない。

宇宙スケールの視点とか、諸行無常の比喩とか、ではない。
いや、2つのそれぞれが語るものではなくて、2つを並べてみて僕が思ったことの話。


フラクタル、が少し近いだろうか。
「生きているものを無数に集める」、たとえばこれは、人体一つについても言えること。
人体を構成する細胞、その一つひとつは、確かに生きているといえる。
つまりヒューマンスケールで人が自分自身を顧みて、同じ視点に立つことができる。

いや、肉眼の分解能を超えたミクロな視点を獲得した科学は、すでにヒューマンスケールではないのかもしれない。

いや、あるいはそうでもないか。
八百万の神」のアニミズムがある。
この中には、生の躍動と死の静寂が同居しているように思う。
対して違わない者たちとしての、併存。


そうか、

生と死は、隣り合わせなんかじゃない。
お互いに相手を含み合っている、フラクタルの構成因子。
だから、生の集積に死を発見できる。

だから、「一人の人間」という単位は、仮説なのだ。
あらゆる科学的言明が、仮説であることと同じく。

 × × ×

人間と人工知能の境界がどんどん曖昧になっていく、森博嗣のWシリーズは非常に興味深く読み進めています(引用したのは全10作中の6作目だったと思う)。
展開もそうですが、深く考え込ませる記述が随所にある。

 人間の定義が、変わっていく。
 それは、
 人間が人間でないものになっていく方向性と、
 人間でないものが人間になっていく方向性とを持つ。

いずれにせよ、人間のやるべきことは、なくならない。
そう信じることのできる、非常に楽観的な生物なのだ。
 
 × × ×

国境の南、太陽の西 (講談社文庫)

国境の南、太陽の西 (講談社文庫)