human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

ゆくとしくるとし '18→'19 4

今年の抱負の話をしましょう。


仕事用のHPの更新が滞っていますが、これは「とりあえず更新しておこう」というモチベーションが薄くなったからです。
必要ではない、と思うことは書かなくなった。

ですが、その更新が今月また復活すると思います。

機械設計の仕事と並行して、新しく本の仕事を始める予定です。
以前、自分の関心の中心と本とを絡めて仕事をしたいと思って、「ブックアソシエータ*1」という肩書を思いついて、その職業の人間がなすべき仕事について考えようとして、入り口に立ったことがありました(変な表現ですね)。
これはその時に書いた文章。
bricolasile.strikingly.com
それからひと月ほどして、ちょっとしたきっかけがあって(その節は、司書講座同期のM女史に感謝しています。始める前からなんですが)、始めてみようかなと思った仕事がちょうど、「ブックアソシエータ」としても適うものであった。

具体的なことは、やる前から考えるよりは、やらざるを得ない状況に追い込んでから頭を回転させた方が現実的に動ける気がするので、ここではまだ書きません。
ただ、「本にポテンシャルエネルギィという潜在価値をつける仕事」とだけ言っておきましょう。
どう展開するかは、実際のところ、やってみないとわかりません。

 × × ×

ちょっと違う話を書きます。

去年の後半から「香辛料の国」というタイトルで、いくつか、超短編のようなものを書きました。
その文章には「小説的思考」とタグを付けた通り、小説だとは思っていません。
日々の生活でなにか思いついたこと、考えたいこと、あるいは考えさせられる出来事が起こった時に、それを物語らしきものに託そうと思ったのです。
そして一人称の語りの間に会話を挟む形式にしたのは、「僕ではない誰か」の言葉を借りて思考を進めようと思ったからです。

折角なので、サブタイトルをつけて、ここで整理してみましょう。
(1-2がないのは、初稿時の出来が悪くて公開していないからです)

 香辛料の国 1-1 セージと「共存の不可能性」について
 香辛料の国 1-3 ウーシャンフェンと「反省の普遍化」について
 香辛料の国 1-4 ウーシャンフェンと「自由のための限定」について
 香辛料の国 1-5 シナモンと「一般化を目指す個性」について
 香辛料の国 1-6 セージと「文字のない本」について
 香辛料の国 1-7 ローズマリーと「絵画と死の静謐」について
 香辛料の国 1-8 バジルと「比喩の神託」について
 香辛料の国 1-9 ディルウィードと「時間の主観性」について

読めばわかりますが、全ての章に出てくるフェンネルが、まあ僕のようなものです。
そしてそれぞれのスパイスたちは、特定の性格を持つと想定されたり、あるいは現実の知人をモデルにしたりしています。

そうは言っても、後者は「あの人ならこう考えて、こういうことを言うだろうなあ」というシンプルな想像ではない。
なんというのか、そういう正統的な他者思考の想定だけでなく、「あの人がこういうことを考えたら面白いだろうなあ」「あの人がこう言ったら、僕はそれにどう答えるだろう」という、具体的な知人の印象の一部を借りてそれを起爆剤にしているようなところもある
だから、僕がその人(って、誰も名前を挙げてはいませんが)に対して持っているイメージが書かれているというよりは、僕とその人の関わりが、それこそコミュニケーションの履歴が、不規則に絡み合うアモルファスな結晶の現れがここに並んでいます。

そう考えてみると、この超短編集に書かれていることは、僕が書いたことながら、僕でもその人でもない謎の主体の思考が混ざっているようにも思われて、時間が経って読み返すたびに僕自身が新たな刺激を受ける構造になっている。
…かもしれない。


これ以外にも会話調の記事を書いてきたんですが、趣旨は上記と似たようなものです。
最近になるほど「香辛料の国」の更新が減ったのは、伊藤計劃のエッセイの中で「SFの必然がないのにSFの形式にする意味はない」みたいな話を読んで「ああ、たしかに必然はないなあ」と思ったからです。
別に、なくてもいいんですけどね、スパイス達を擬人化することで、新しく表現が生まれるという現象もあるので。

まあ、気が向けばまた、続きを書くかもしれません。
ストーリーが生まれる気配は、まだありませんが。


p.s.「誰も名前を挙げない」と言いながら、改めて自分の文章を読み返すとなかなか本当に面白かったので(つまり僕が書いたとは思えないという意味で、やはり「謎の主体」の存在を仮定したくなります)、一つだけ。1-7の登場者には「画伯」という敬称がついていますが、僕の知人に画伯は一人しかいません(きっぱり)。
 

*1:アソシエータは、もとの単語から別の意味を与えた造語です。associatorとは、連想=associationを司る人…とは言い過ぎで、深く精通してその可能性を誰よりも信じているが、無意識の領野とも重なり、個人差の極めて大きい現象を「操れる」などという傲慢な考え方は持っていない。「ゆくくる」の1つ前の記事で「意識の研究」の話を書いたかと思うんですが、僕が誰でもできると言ったのは「在野でやる」の意味で、つまりプラグマティックなそれです。現象の解明よりも、実際的な可能性の開花、効果の探求に重きをおく。…話が抽象的なのは、事を始めていないから仕方のないことで、話を戻せば「ブックアソシエータ」の訳語をとりあえず提出しようとしているのでした。司書はlibrarianで、「司る」と最初に書いてみたのはここからなんですが、そうではなくて…非修飾的な表現をすれば「本と本を、または本と人を連想でリンクさせる人」になります。これを、つまりどうなのか、それによって何が起こるのか、ということも含めた表現に発展させたいと思っているのですが、そうですね、これは今後の課題としましょう。