human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

境界の連想、ものさしの忘却

『歴史の体制』(フランソワ・アルトーグ)という本を読み始めました。

序章の終盤に「境界」という言葉が出てきて、なにかが繋がりました。
「この繋がり方には覚えがある」と思い、「岬」がタイトルに入った本を連想して、ブログ内で検索すると『境界領域への旅 岬からの社会学的探求』(新原道信)だとわかりました。

この本が今手元にないのが非常に惜しいのですが(岩手から大阪に来る時に処分してしまったようです)、連想した時に読んでいた文脈と似たことを抜粋してないかと思い、過去の記事をいくつか読みました。

cheechoff.hatenadiary.jp
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なんというか、これらを書いている時の精神状態などが想像されて、時の経過について考えさせられました。

内容に違和感がなくて、今の自分に同じような論調で書けないとも思うけれど、
それはこれらが「血肉化」したからだと思う。
きっと、ある面においては論理で納得する段階を越えて、
思想の基盤となり、自分の基本的な振る舞いにそれが現れるようになっている。

この経過に時間というものさしを当てようとして、測定不能であることを発見する。
ものさしは、変わらずここにある。
でも、ものさしを持つ者が変わって、目盛りの読み方を忘れている。
ものさしの目盛りが、なにかをわかった気にさせるものであったことを、忘れている。


とにかく、『境界領域への旅』を再読したいと思った次第です。

 × × ×

このようなこと、関心の持ち方、姿勢について、新原氏の本にも書かれていたはず。
そしてこの連想によって、僕がアルトーグ氏のこの本に「呼ばれた」ことに気づく。

現在の状況から導かれた省察は、絶えず現在の状況との間に距離をとり、そこによりよく立ち返るために時間を遠くにまで遡る。ただし、決して俯瞰的立場にいるという幻想に溺れずに。かつて私は、知的信条もしくは趣味から、限界、敷居、方向転換と回帰の契機、不協和を特権視し、「境界線をずらす運動」を選びとったことがあった
(…)
オデュッセウスに関しては、『オデュッセウスの記憶』という本を書いたが、これは古代世界における文化的境界について問うたものであり、私にとってオデュッセウスは、この展望を象徴する者である。最初の旅行者にして境界の人間でもあるオデュッセウスは、境界を設定し、自分の位置を見失う危険を冒しながら、境界を常に越え続ける者である

「序章 時の秩序・「歴史」の体制」p.47-48(フランソワ・アルトーグ『「歴史」の体制 現在主義と時間経験』伊藤綾=訳、藤原書店

 × × ×

歴史の体制 現在主義と時間経験

歴史の体制 現在主義と時間経験

境界領域への旅―岬からの社会学的探求

境界領域への旅―岬からの社会学的探求