human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

非人称の明晰

 当事者でない人々にとって、白黒をつけることはメリットであるに違いない。それは社会が好コントロール装置だからである。たとえば、ハンチントン病を発症する可能性のある人々に対して、生命保険会社はどのように対処すべきか、という問題を考えてみればよい。保険会社にしてみれば、白黒をはっきりさせて、白ならばすっきり保険に加入してもらいたいし、黒ならば加入を拒否したいと思うだろう。物事はあいまいであるよりははっきりしている方が管理し易い。確実な知識、確実な予測は科学の欲望であると同時に、社会の欲望でもあるのだ

「不治の病を予測する」p.164(池田清彦『やがて消えゆく我が身なら』角川書店

『ウェクスラー家の選択』という本の紹介、というか解説の一節。
「好コントロール装置」というのは池田氏がよく使う表現で、その簡潔な説明もこの抜粋の中にあるが、僕が引っかかったのはそのあと、最後の一文だった。

すぐに二つの本の一節が連想され、それらとの関連について考えてみたくなった。
これを書くのは、書かなければ分からないからだ。

 明晰と呼ぶにふさわしい、すぐれた頭脳の持ち主は、古代世界全体で、おそらくふたりしかいないかった。テミストクレスカエサルであり、ふたりとも政治家である。一般に政治家は、著名な人も含めて、まさに愚かなゆえに政治家になるのだから、このことは驚くべきである。
 もちろん、ギリシアとローマには、多くの事柄について明晰な思想をもっていた人々──哲学者、数学者、博物学者──もあった。しかし、かれらの明晰さは科学的な次元の明晰さであり、いいかえれば、抽象的な事柄での明晰さである。科学の対象とするすべての事物はどれも抽象的であり、抽象的なものはつねに明快である。科学の明晰さは、それをつくる人の頭脳のなかよりも、かれらが語る事物のなかにある

「第二部 世界を支配する者はだれか」p.203-204(オルテガ『大衆の反逆』中公クラシックス

「肉体は生かすことができる。呼吸も鼓動も戻せる。体温もあり、血も通っている。不思議なものだ、脳の活動だけが、まだ完全にコントロールできない。やってみないとわからない。君は、どうしてだと思う?」
「いえ、わかりません。どうしてだと考えたこともありません。というよりも、コントロールできる方が不思議です。やってみないとわからない、というのは自然の大原則なのではありませんか?
工学者らしい投げやりな意見だ」ヴォッシュは微笑んだ。「しかし、それが本当のところかもしれないな。理論物理の世界にいると、不確定性さえも法則になる。すべてが計算で確率的に割り出せる世界なんだ。思うようにならないことは、まだ人知が及んでいないと信認する。理論を盲信したい。なにもかも確信したい」
メンデレーエフまでは、そうだったかもしれません。あるいは、アインシュタインまでは」

森博嗣『デボラ、眠っているのか?』講談社タイガ

まず、最初の抜粋に戻れば、「科学の欲望」なるものは存在しないと思ったのだった。
それは社会の欲望の反映であり、科学が社会で成立するために(=科学者という仕事で食っていけるように)社会が科学に背負わせた十字架なのだ。


オルテガのいう「科学の明晰さ」という言葉が、ここしばらく、ずっと頭に残っている。
これは、文脈のうえでは抽象性に結びつくが、ここで焦点をあてたいのは、非人称ということ。

複雑と観察される事象を、論理明快に展開し、解説できる。
誰かがその解説をしたとして、それが彼のオリジナルだったとしても、その明快さ、明晰さは彼の所属ではない。
彼は、「論理明快で頭脳明晰なツール」を用いたに過ぎない。
彼に特徴があるとすれば、そのツールの使用に習熟している点にしかない。
見方を変えれば、彼は伝道者であり、彼こそがツールなのだ。

「論理明快で頭脳明晰なツール」。
それをつくり上げたのは、人間だ。
でも、それができたことは、人間が明晰であることを必ずしも意味しない。

人間は、つねに未知に囲まれている。
現在とは、色褪せた過去と、霧深い未来にはさまれた、ほんの僅かな割れ目である。
狭くて身動きがとれず、暗くて見通しが悪い、不安定な足場。
人間がつくるものは、その未知が前提にある。
未知が創造の原動力である、ということだ。

そんな人間が苦心してつくり上げたものは、果たして既知といえるだろうか?
否、それもまた未知である。


非人称の明晰。
森博嗣のWシリーズ(Wはウォーカロンの頭文字)で、「人類の共通思考」と呼ばれるものも、その一つだ。
だがそれはSFで、現在に話を戻せば、歴史、学問、技術、その蓄積。

通常いわれる明晰さが人に属するのは、なぜだろうか?
その判断を人が行うからだろうか。
チェスや将棋で、AIが人間に勝利する。
高性能の、明晰な人工知能
その判定者は、価値を認定する者は、人間。

「非人称の明晰」は、人間の価値判断が及ばない領域にある、と思いつく。
どういうことか。

ある対象を評価できないということは、それが既知ではないことを意味する。
計れるものさしがない。度量衡がない。
が、ないのだが、なぜかしら「すごさ」を感じられる。
理由もわからず、敬意をもち、真摯に接しようとする。

そして結局、それは人間自身に還流してくる。

(…)そもそも、人工知能は人間のように私腹を肥やすとか、権力を欲しがるといった欲望を持たないはずだ。人間に比べれば、デフォルトが天使寄りなのである。
 それは、ウォーカロンでも同じだろう。皆素直で、正直に生きているではないか。
 そういった設計をしたのは人間なのだ。人間は、自分たちの至らなさを恥じ、もっと完璧な存在を目指して、コンピュータやウォーカロンを作った。その技術の初心を、忘れてはならないだろう。
 そうでもなければ、生命の価値が消えてしまう
 それでは、あまりにも恥ずかしい、と僕は思うのだ。

同上

「初心」を持つ者たちは、既にこの世にはいない。
けれど、「忘れて」しまったそれを「思い出す」ことができる。
これらの動詞は、どちらも非人称だ。


つまり、意識という生命活動が非人称なのだ。

 × × ×

大衆の反逆 (中公クラシックス)

大衆の反逆 (中公クラシックス)

やがて消えゆく我が身なら (角川ソフィア文庫)

やがて消えゆく我が身なら (角川ソフィア文庫)