human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

Walking Margarine

Wシリーズ一作目、読了しました。


 × × ×

「逆に言えば、先生の研究は、両者の差を明らかにすることですから、その差をなくすためにも必要な知見なのでは?」
 ウグイの口から、それが出たことに僕は驚いた。グラスの液体を全部喉に流し込んでから、椅子の背にもたれて上を見た。

森博嗣『彼女は一人で歩くのか?』

差異の認識が、同一化への足がかりとなる。
この逆説的なメカニズムの汎通性をふと考えてみたくなる。

学力テストの点数。
80点で満足していた学生が、友人の100点答案を見せつけられ、奮起する。

地方の名水の成分解析
独特と思われた味が、ある元素の含有率に起因すると分かり、人工的に製作される。


差異の認識というキーワードから、すぐ連想する事柄が2つある。
 一つ、仕事の細分化、研究分野の蛸壺化。
 一つ、知の発展が未知を生む、インタレクチャル・ネスティング・エンジン。
これらの事象に、当てはまるか否か。
あるいはその関係は。


専門分野がどんどん枝分かれしていき、同業者すらまともに議論できないほどマニアックな、重箱の隅の米粒を有難がる研究志向の本質は、知の無機化である。
自分が扱う対象に対して、随意に既知と未知をラベリングできるという傲慢。

「未知の知」の発動は、知性的活動のルールに忠実な、堅実さが前提される。
着実な一歩を積み重ね、固めたはずの足元が発見や偶然で崩れ落ちるのにめげず、自分が生きている間にゴールに辿り着く目算が立たない不安を抱え、人類知の夢と同輩の共感という願望に支えられながら、粛々と日々を送る。
ゴールがプロセスの礎であるという、ニヒリズム紙一重の自覚。


関係はもはや明らかだ。

差異は現象である以前に認識である。
差異が認識である以上、それは手段である。
手段の運用は、主体の意志に任される。


僕は「それ」と、同じでいたいのか、違っていたいのか?
なぜそう思うのか、その先に何を見ているのか?

 鏡に目があり、
 もう一つの鏡に自分を映して、
 その目が捉えるのは、
 自分か、相手か?

 光速は、ウサギとカメの、どちらだろうか?

 結局のところ、すべては、人の心がどう捉えるのか、という問題に帰着する。子供が生まれるとはどういうことか、生きているとはどういうことか、人間とは何なのか、そして、この社会は誰のものなのか……。
 きっと、それらをこれから長い時間をかけて考え、話し合い、少しずつ新しい思想を受け入れていくしかないのだろう。
 科学者の僕たちでさえ、まだしっかりと決められないのだ。一般の人たちが議論をするには、少し早いかもしれない。時間がかかるだろう、きっと。

同上