human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

Ouroboros Optimization

森博嗣のWシリーズを先日、図書館で借りて読み始めています(第一作の『彼女は一人で歩くのか?』)。
本が薄いなと思いましたが、無駄が排除されたシャープな印象を、Vシリーズ(これも先日から電車内用に『赤緑黒白』の再読を始めました。文庫版は表紙がオシャレなのでカバーいらずで読めます)と比較するとはっきり持てます。

一方で、十年以上前に芥川賞だったかをとった円城塔の作品を読んで気に入ってからの縁読(今命名しました。いいですねこれ。でも「えんどく」の他の変換候補がどれも仰々しい)で伊藤計劃を知り、円城氏が伊藤計劃の未完遺作を書き継いだ『屍者の帝国』をはじめに『/harmony』を読み、そのマンガ版(今どきの隙のないデジタルな絵風なんですが、表紙の女性の沈鬱な表情が気に入って手にしました)は今読んでいて、それと同時に購入した『伊藤計劃記録』は短編と雑誌掲載のエッセイが混ざった本です。

伊藤計劃記録

伊藤計劃記録

『彼女は一人で歩くのか?』も『伊藤計劃記録』収録「from the nothing, with love」もSFで、人間とは何か、人間性の科学的な測定は可能か、という同じテーマを含んでいます。
この二作品を併読していて、ちょっと思考が刺激されて、それは端的にタイトルに表現したようなことなんですが、その中身をメモしておこうと思います。

 × × ×

「最適化」という思考は、これは計画やプログラムとも言えますが、ある目的に至る手順の無駄や非効率を排除するために行います。
余談ですが、僕は大学で所属した研究室のテーマが「最適設計工学」だったので、この言葉には通常の(辞書的な)意味以上のものをいつも思い浮かべます。

最適化を数値計算で行うには、目的関数f(x1,x2,...)を設定するために、fの影響因子x1,x2,...を決定します。
影響因子はつまり変数で、これらの変動に従い計算されるfが最大(小)値あるいは極大(小)値をとった時に、その変数値の並びを最適化された状態と呼ぶ。
もちろんのこと、目的関数と影響因子を設定する段階で、解析対象である現象はいくらか捨象され、単純化されます。数式で表現しようのない事象は無視され、二次元軸上にプロットできるデータ群は近似曲線で表される。

メモの要約は次の通りです。

 最適化の対象は、最適化によって無駄が排除された、単純な存在となる。
 最適化の作業は、現象に具象と抽象の境界線を引く、複雑な行為である。

飛躍。

 最適化の作業は、人間が、人間(的)でないものに対して行う。
 あるいは、最適化の対象は結果として、その人間性を喪失する。


『彼女は一人で歩くのか?』の主人公は、「思考の人間性を判定する測定技術」を扱う研究者です。
見かけでは判断できない一個体をその測定にかければ、人間とウォーカロンを区別できる。
しかしその技術を元にすれば、「その測定をパスする技術」の開発も可能となる。
つまり、人間的に思考する(と測定器に誤診させる)ウォーカロンを製作し得る。
イタチごっこ

それにはなるほどと思い、そのすぐ後で「from the nothing, with love」を読んでいて、ごく単純化していえば「人間の最適化が極まると意識が不要になる」という物語のテーゼが出てくる場面を読んだ時に、これはこれでなるほどなんですが(池田清彦曰く、進化論的には人間に意識は不要だそうなので)、恐ろしい連想が浮かんだのでした。

 「思考の人間性を判定する測定」に、全き人間がはじかれる可能性。
 正真正銘の人間が、ウォーカロンと誤診される可能性。

 × × ×

タイトルについて再び。

上の飛躍を受け継いでの話なんですが、
最適化、たとえば都市計画なんかを思い浮かべればいいんですが、
そういう最適化は人間を対象にしていて、
そしてその計画主体も対象に含まれているわけで、

 ごく人間的な営みが自分自身を非人間的にしていく

という構図が思い浮かびました。


何かすごく、普遍的なことに繋がる気がしているんですが、もしかして、当たり前なことなのかもしれません。
それに恐怖を感じることが、一時の流行として遠く過ぎ去ったかのような。

そういえば、ポパー、クーン、ファイヤアーベントといった科学哲学者に興味を持っていた大学三回生の頃も、こんなことを考えていたような気がします。

根っこのところは、変わっていませんね。