human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

Physics Research with Quantum Purple 2/n

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──初期のコンセプトとして、「身体と脳を仲良くさせる」というのがあったんです。養老孟司先生がいうように現代は脳化社会ですから、仕事をしていても、街に出ても家にいても、使うのは脳ばっかりですよね。身体は補助的な役割しかなくて、脳の制御を外れて、つまり何も考えずに無心に身体を動かすなんて機会は、子どもですら滅多になくなっている。「子どもは自然だ」というのも養老先生の言葉なんですけど、その本来性が生まれ落ちて直ちに封印されてしまう社会システムになっている。それはさておき、社会がどうなろうが、人間はどこまで行っても身体であって、つまり自然です。脳の活動があって、他人がそこに意識を見いだせれば、身体がなくてもそれは人間だ、たとえば脳だけ別の場所に設置して身体は遠隔操作で動かすことができて、人がその操作対象を人間と信じて疑わないという状況は実現可能だと、これは石黒浩教授の近著にあって、販促上反則的なタイトルのなんですけどそれはよくて、森博嗣ミステリィに実際こんなSFがあるんですよね。アンドロイド、これ小説内ではウォーカロン、自律歩行型つまりWalk Aloneって呼ばれてるんですけど、ウォーカロンを引き連れた主人公が拳銃で目を撃ち抜かれて、万事休す、と思いきや彼とウォーカロンとの電信会話は続いていて、というのも主人公の脳がウォーカロンの胴体に埋め込まれていて、彼の身体はウォーカロンによって無線でコントロールされていたからなんです。僕これ学生時代に一度読んでたんですけど、最近再読した時にこの部分覚えてなくて、「斬新だなあ」って思ったんですよ。いやあ、忘れるって幸せなことですよね。ん? なんの話でしたっけ。……そう、いつか身体を必要としない人間が誕生したり、それが当たり前になったりすることも技術的には可能で、でもそうは言っても今の僕らには身体がありますから、それに脳もその身体の一部としてあるわけですから、自分の身体を無視するわけにはいかない。脳は身体を無視してぐるぐると思考しているように見えますが、じつは意識の外で身体の影響を受けている。その事実は知っていて、でも知らないふりをしようとしてしまうのが脳なんですね。で、知らないふり、精神分析的には抑圧といいますけど、これは何事につけてもあまりよくないことで、意識下の対象を抑圧すると、抑圧した時とは別の形で、すぐ先のことか遠い未来かは分からないが、仕返しにやってくる。「別の形」がどんな形かは分からない。その対象が意識の外で活動していたものであればなおさら、戻ってくる「別の形」は想像を絶するものになる。怖い話です。そもそもそういう余計なことを考えるから不安になるのであって、最初に無視したんだからそのまま無視しつづければいいじゃないか、という意見もあって、それももっともで、というか社会的にはそれが常識になっていますが、うん、まあズバッと端折れば、僕はそれはよくないと思っています。話を……だいぶ逸れたところを戻せば、脳化社会で身体を活性化、これ僕は「賦活」と言うのが好きなんですが、まあ身体を賦活するためには、それなりの工夫がいるのです。こういうことを真面目に考えるようになったのは、内田樹先生の著書に出会ってからのことで、最初に読んだ教育関係のでいろいろ衝撃を受けたのを未だに覚えていますが、内田先生は合気道をやっておられて、武術研究家の甲野善紀先生とか、介護に古武術を活かす試みをされている岡田慎一郎さんとか、身体に深く関わる仕事をされている方々の本も、内田先生の著書を通じて読むようになりました。僕は今言った方々の本を読んで武道に興味を持って、いつかどこかで実際に始められればなあとずっと思っていて、そうは言いながら、前にいた会社に合気道サークルがあって、直属の上司もやっていて誘われもしたのに結局やらなくて、その時は「必ずしも世間で活動している武道のすべてが身体性の賦活を目的としたものではない」という言い訳を持っていたと思いますが、それは一理あって、確かに甲野先生の剣道観が剣道界では異端だったり、ラグビーやバスケットで武道的な動きが実戦的に活かせることを実地に示しても拒否感をもつスポーツ選手が一定数いる、という話を読んだりもしていたのです。ここでいう武道的な身体運用というのは、身体各部の筋肉をつけて体を鍛えて局所的な出力を増強するのではなくて、鰯の群れの方向転換で喩えられるように全身を協調させる動きを目指すもので、甲野先生の思想が受け入れられないのはスポーツ界の常識が前者で長年やってきたからだと書かれていました。そういった、僕が興味深く読んできた身体に関わる本の記述内容が、どちらかといえば世間的には異端であるという認識が、僕の身の回りにあった自分がやりたがっていたはずの活動への参加に二の足を踏ませていたように思います。今話していて、ボルダリングを始めた時に「武道的な思想をボルダリングに活かしてみよう」と思ったのも同じ理由が絡んでいたのかもしれません。つまり、単純に興味があったからやってみた、応用を検討してみたというだけでなく、スポーツと呼ばれている活動を自分がやりたいように取り組むには、どこかしら異端的な発想を持ち込まねばならないのではないか、と。
──ホンマに長いですね。実はまだ、本題に入ってないんと違います?
──えーと、どうなんでしょう。
──わからんのかいな(怒)

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