human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

思考の自由、意識と関係、その起源

誰もあなたに助言したり手助けしたりすることはできません、誰も。ただ一つの手段があるっきりです。自らの内へおはいりなさい。(…)もしもあなたが書くことを止められたら、死ななければならないかどうか、自分自身に告白して下さい。何よりもまず、あなたの夜の最もしずかな時刻に、自分自身に尋ねてごらんなさい、私は書かなければならないかと。(…)そしてもしこの答えが肯定的であるならば、もしあなたが力強い単純な一語、「私は書かなければならぬ」をもって、あの真剣な問いに答えることができるならば、そのときはあなたの生涯をこの必然に従って打ちたてて下さい。あなたの生涯は、どんなに無関係に無意味に見える寸秒に至るまで、すべてこの衝迫の表徴となり証明とならなければなりません

「若き詩人への手紙」p.14-15(リルケ『若き詩人への手紙 若き女性への手紙』新潮文庫

リルケに詩評を依頼した一詩人への、彼の返報にある峻厳な言葉。
人生を賭す覚悟を問うような強い筆致は、しかしそれほど、強迫的には感じられない。
「これはむしろ当たり前なことかもしれない」と思った時、別の本の一節が連想されました。

 抽象的思考には、具体的な手法というものは存在しない(そもそも相反している)。日頃から、抽象的にものを見る目を持っていること、そうすることで、自分の頭の中に独自の「型」や「様式」を蓄積すること、そして、それらをいつも眺め、連想し、近いもの、似ているものにリンクを張ること、これらが、素晴らしいアイデアを思いつく可能性を高める、というだけである。

「アイデアのための備え」p.47-48(森博嗣『人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか』新潮新書

これに続いて抽象的な思考の具体例を提示したあと、以下のように続く。

 このように、抽象的な考え方をする人は、何をやっていても、どんなつまらないことでも、なにか役に立つことを見つけるようになる。見つけたことがあるから、役に立ったことがあるから、また見つけようとしているともいえる。

同上 p.49

詩人にとって、詩作が生きることそのものであるのなら、リルケの(詩人の依頼に応える形での)要求は当たり前のものであり、このことを抽象化して、意識をもち呼吸するように思考する人間が「生きていこう」と思うのならば、森博嗣の思考(これは要求でもなければ提案でもない)も当然である。

(上に引用した森博嗣の新書は、格別目新しいことが書いてあるわけではない。「抽象的とはなにか」について抽象的な思考を展開すれば、文章に長けた人ならある程度似通った内容のものを書けると思う。ただ今僕が思った本書の特色は、その内容の文章の「平坦さ」にある。感情がなく、つまり温情もなければ冷徹でもない。温かくなければ冷たいのだ、という巷の常識が異常に見えてくるのは、リアルな人間関係ではほとんど見られることのない「平坦さ」が本書には確固として存在するからだ。そしてこの「平坦さ」は、「自分は当たり前なことしか書いていない」という彼のシンプルな認識の表れでもある。僕が本記事で「当たり前」を連呼していることは、おそらく本書を読中であることから影響を受けている)

正常や異常というのは、抽象的思考においては、ある前提や境界条件をもとにした思考の筋道からの外れ具合(または合致度)のことであって、本来の意味では正常も異常もない。
が、そういう狭義の表現を用いるとして、自然な思考を経た結論を正常とみなした時に、世の中の多くのものごとが異常に見えてくることがある。

思考の自由とは、常識や通念や多数派意見から離れたところで、また現実における自分の行動とは別に、それでも自分の感覚と経験をベースにして思考を展開できることである。

 そこにあるのは、多くの人達が、物事を客観的に見ず、また抽象的に捉えることをしないで、ただ目の前にある「言葉」に煽動され、頭に血を上らせて、感情的な叫びを集めて山びこのように響かせているシーンである。一つ確実に言えるのは、「大きい声が、必ずしも正しい意見ではない」ということである。
 できるだけ多くの人が、もう少し本当の意味で考えて、自分の見方を持ち、それぞれが違った意見を述べ合うこと、そしてその中和をはかるために話し合うことが、今最も大事だと思うし、誤った方向へ社会が地滑りしないよう、つまり結果的に豊かで平和な社会へ導く唯一の道ではないか、と僕は考えている。

「自由に考えられることが本当の豊かさ」p.57-58 同上

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話が逸れましたが、上で連想によって並んだ2つの引用を、つなげる言葉を先に思いついていたのでした。
これは岩手の大学で司書資格をとった講座の文集に載せた言葉でもあります。

その本は手元にありますが、敢えて参照しないで書きます。
単行本の表紙裏(カバー)にも引用されていて、すぐ確認することはできるのですが。


『村田エフェンディ滞土録』(梨木香歩)という本で、「土」は「トルコ」のこと、「エフェンディ」はたしか現地の言葉で「学ぶ者」だったと思います。
戦前に日本からトルコへ研究員として滞在した村田という男が、多国籍な人々の住まう寮で交友を深めながら、彼ら共々真率に暮らしていく物語。
その寮友、ディミトリというたしかギリシャ人が、村田に言った言葉。

 "私は人間だ。私にとって無関係なことなど、何一つない。"

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3つ目の引用が上2つを「つなげる」と書いた意味ですが、

 たぶん、考えることで人は、その考えた対象と無関係でなくなるのです。

そして、想像を逞しくすれば、こうも言えるかもしれません。

 意識は人の中で、そのようにして生まれたのではないか。


もしそうなら、「飢餓ベース」の長い歴史をもつ人体が空腹の中で活動のピークを迎えられるように、"このこと"を意識の常識に登録できた時、その時彼の意識に起こることは、きっと素敵なことに違いありません。

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若き詩人への手紙・若き女性への手紙 (新潮文庫)

若き詩人への手紙・若き女性への手紙 (新潮文庫)

人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか (新潮新書)

人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか (新潮新書)

村田エフェンディ滞土録 (角川文庫)

村田エフェンディ滞土録 (角川文庫)