human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

評価、身の丈、個性と抽象

『思想をつむぐ人たち』(鶴見俊輔著、黒川創編、河出文庫)を読了。
これで2回目だったか、3回目だったか。

 事実はすべて過ぎ去る。今ごとにほろびる事実に対して、つづくというのが価値の性格である。何かに価値があるということは、その対象となる事実とのかかわりがあってはじめてあらわれるのだが、その事実が今ごとにうつろいほろびゆくということをこえている。価値ありという判断は、今という時をこえるところを指さしている

p.447

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価値の判断、「評価」という姿勢に、いつからかマイナスの感覚をもつようになっていました。
マスコミや広告への食傷がその主な理由だと思います。

不特定多数を対象とした情報には、その発信元の「身の丈」を介在させる余地がない。

新聞記事の末尾署名を考えてみると、その名前から具体的な個人が立ち上がってくることを、誰も期待していない。
読み手はもちろん、記事を書いた記者本人にも。
彼を知る人にはその人となりが思い浮かぶはずのその名前は、記事の中では、情報の出所を明示するというこれも「情報」としての機能のみを負わされている。

内容も同じです。
ダイエットに効いたという薬の効能を謳う広告の体験談は、具体的な記述に溢れて見えて、その具体性は特定個人を指し示さない。
広告を読む誰もが自分の生活に当てはめて「自分にも使えるかもしれない」と思わせるそれは、匿名性を帯びており、その意味で抽象度が高い。


「書評」というのは読者の本に対する評価で、僕はこれを好んで読みますが、それは本来の意味を超えた書評に限定されてのものだと、今言葉にしてみるとそう感じます。

内田樹氏の書評(氏がブログ内で勝手に書いた私的感想ということですが)は面白くて、それは「この本を読みたいと思わせる」という書評本来の効果を備えて見えはしますが、なぜ彼が紹介した本を読みたくなるかといえば、「その本が、本の内容を超えていろんな事柄や人や別の本とリンクするさま」が躍動的に書かれているからで、その「リンク生成」の出所は、内田樹氏という特定個人に深く拠っているのです。
別の言い方をすると、たとえば氏がなにかの本を「面白い」と一言コメントした時に、氏を知る人ならばその本のタイトルや著者という少ない情報からその「面白い」の詳細な解説を思いつくことができる一方で、氏を知らない人は「"なぜ面白いか"の説明がなく、解釈のしようがない」とそのコメントに取り合わない。

つまり、個人の身の丈が介在した情報は、受け手を選ぶ。


先に書いた「食傷」の意味は、この逆の「受け手を選ばない情報」の氾濫に対する気持ち悪さ、のことでしょう。
誰もが情報を発信できるネット時代、それは通信技術水準の問題で良し悪しはありませんが、そういう環境が整った結果として日々増殖し続ける情報のほとんどが匿名的である(個人が抽象されている)ことは、なにか本末転倒であると感じます。

ある意味で、世界中の人々が日本人になったようなものでしょうか。

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話を戻します。
鶴見氏の「価値」にかんする文章を読んで、この言葉に対する感覚が変わりました。
戻ってきた、のかもしれない。

価値の判断には、そのはじめに、個人がある。
その判断を他者が理解する、あるいは賛同するより先に、個人がある。

巷に溢れる「評価」は、「他者に(正確には「不特定多数に」)理解されない評価には意味がない」という価値観が、その内容を覆っている。
これを僕は、逆だ、本末転倒だ、と言う。


もしかして、これは唐突な飛躍ですが、匿名性を自覚できない他者どうしの結びつきは、取り返しのつかない悲劇を生む(生んでいる)のではないか。
まずもって具体的で、即物的でしかない共同生活に、しかし互いに相手の個性が見いだせない。

個性がないことは、「交換可能である」ことだから。