human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

「都会に舞い戻った縁」に関する覚書

住まいの整理がだいぶ落ち着いてきました。
大阪市内・鶴見区テラスハウスを借りたのですが、やはり都会です。
当然ですが岩手とは環境がまったく違います。

ただ、もともと大阪育ちなので周りの環境にはすぐ馴染めたようです。
静かなところに住みたいと思って、岩手ではそういう場所を選んだのですが(とはいえ大通りから離れればどこもひっそりとしていましたが)、大阪に戻ってきて思ったのは、「居場所が静かであるほど、ちょっとした音が気になる」ことです。


今の借家は下町の中の密集したところで、ベランダから向かいの部屋が見えるし、隣家のベランダには無理なく移れるほど部屋が近いです。
賃貸物件としては「2階建の一軒家」でしたが、ネットの工事をした時の書類には「集合住宅」と表記されていました。まあその方が実態に近い。
で、そうなると近隣の生活音は当たり前のように、環境音として聞こえてきます。
たとえば浴室のシャワーの音、2階のテレビの音、壁から伝わる会話(おそらく間取りからして単身住まいの方が少ない)、きっかり朝7時に鳴り始まる工作機械の音(せせこましく縦長に並んだ住居に混じって、小さな町工場もいくつもあります)、子供の叫び声、散歩する犬の鳴き声(さいわい夜通し吠える犬は近所にいないようです)などなど。
そしてそれにすぐ適応できた自分に、当然だという思いに混じって驚きもありました。

その驚きというのがつまり、そういう生活騒音を嫌って最近まで住む場所を限定してきたのではなかったか、ということです。
思えばこれまで僕が騒音と感じてきた生活音は、たしかに常軌を逸して騒音だったのでした。
会社の寮の上階で長電話(高頻度かつ大声)の間中フローリングを大胆に(まず間違いなく「踵から力強く踏み下ろして)歩き回るインターン留学生だとか、「向かいが居酒屋、ベランダの真下がスポーツクラブ、そして立地が駅から大学へのメイン通学路」の京都のマンションだとか。
この家も生活音に満ちてはいますが、それらはもっと落ち着いていて、もっと当たり前なものです。
音の大小は、騒音として気になるかどうかの判断にそれほど関わっていない、という発見は僕には新しいものでした。
「事実に気付いた」というよりは「そう思えるようになった」のかもしれません。


「痛み分け」の効果もあるのだとは思います。
同じ不快や苦しみを、共有する誰かがいる場合と、自分一人で引き受けなければならない場合とで、その実際上のダメージは大きく変わります。
共有する他人の数によっても、やはり振れ幅は相当あるでしょう。
人口密度の高い都会暮らしには必然的に織り込まれる現象ですが、これを単に身体性の鈍磨をもたらすものと捉えてしまうのはおそらく短見です。
なにしろ、人が寄り集まることで形成される社会の、原初的性質でもあるのだから。

都会に住み、その生活上の便利さと仕事の成立しやすさを享受していくことになったからには、今まで避けてきたはずの都会暮らしの、僕なりの意義を見出していきたいと思います。
「僕なりの」という点が大事で、つい今しがた挙げたことも含めて、巷で言われる都会暮らしのメリットに何も新しいことはないし、それらは「あるなら利用する」程度に過ぎないものです。

機に縁し、縁を機する生き方でたどり着いた今は、いかなる今であっても(変な言い方だ)過去と関係しないはずがなく、関係が見えなければそれを見つける努力をしなければならない。
これを当為とするのは、縁には当事者が見えないものを引き寄せる磁力があり、その磁力は「無知の知」のごとく広大無辺であり、本人の目が開かれればその分だけ(といって「その分」がどれだけなのかはもちろん分からない)磁力も増大するからである。


書いているうちにこれからの生活が楽しみになってきました。
今日はこの辺で。