human in book bouquet

大阪市内で工業デザインの仕事を始めました。ボルダリングも続けます。

身体版「無知の知」

通っている北上のジムで、先週からコンペが始まっています。
秋田のジムと合同でやっていて、2週ごとに開催地が入れ替わる。
1戦ごとに、開催中に完登できた指定コースの数・種類に応じてポイントが獲得できる。
それぞれのジムで2戦ずつ、計4戦の総合ポイントを競うというもの。

僕はあと1週間で引っ越しますが、緊張感があるのもいいので参加しています。
一通りさらって今の実力で登れそうなものは大体登りました。
継続トライで慣れによって登れそうなコースが2つ3つ残っていますが、
やる気はそこそこで、第1戦3日目の昨日は大方いつもの壁を登っていました。

人のトライは(自分の試行錯誤が尽きるまでは特にですが)あまり参考にしない。
自分の技術水準とその時の体力と、あとは「どう登りたいか」で登り方を考える。
たとえば今は左手首が本調子でないのでプッシュができず、スローパーもいまいち。
という身体の調子が、万全なら登れる未達コースを生む一方で、新しいアプローチも生む。

あるコンペコースを登った時にオーナー(=コース作成者)に一声かけられました。
なるほどなあ、というニュアンスで「独特のムーブですね」と。
その時感じた嬉しさに、いろいろ考えられそうなものがありました。
まず、コースが要求する最適なアプローチを何度も繰り返して会得する楽しさとは違う。


「生活としてのボルダリング」と題して前に、このように書いた記憶があります。
実際の身体動作と、頭が想像する「こう動けるはず」の身体動作の齟齬を減らす。
これがひいては身体と脳の距離を縮める、「身体性の賦活」の実践である、と。
目的の一つとして今も同じことを思っていますが、それだけではない。

「何かを知る」ことは、「知らないことが増える」ことと同じである。
無知の知という思考の深化、この脳における現象が、身体でも起こる
これは単に「股関節の可動域が広がって、できる動きが増える」ことではない。
いや、違うのではなく、説明が不足している。

できる動きは増えるが、それは「やりたかった動き」だけではない。
「やれるとは思いもしなかった動き」も含まれる。
そして、この表現は動作側が主体になっている点で、まだ不足している。
同じ動作をするにおいて、身体が変われば、その動作に対する感触も変わる。

この認識は、技の深化がレベルアップという単一方向のものではない理解をもたらす


「生活としての」には、「スポーツとしてではない」という含意がある。
スポーツでなければ、何なのか。
これも前に書いたことですが、ボルダリングを武道と結びつけたい思いがあります。
目の前の壁(コース)と、征服対象ではなく、身体との対話相手として関わる
1つのコースが「登ったらおしまい」なら、計算ドリルを解くのと変わらない。
内容と言えるほどの言語化は難しくとも、ドリルよりは本ととらえたい。

「本」と書いて、さっき考えていたことを思い出しました。

ここ最近、ジムにいくごとに自主課題を作成しています。
作成自体は常連みんながやっていますが、僕はコースを紙に書いて毎回残している。
みんなに登ってもらいたいので、その紙を持って帰ろうとは思わない。
でも、たとえばスキャンしてデータ化して持っておけば、面白いかもしれない、と。

壁自体はジムにあるのだから、それ以外の場では本来の機能は果たせません。
でも自分が作ったコースには、自分の身体性が表れている。それも濃厚に。
登壁に関して何か言語化したいという時、自主コース用紙は第一級の資料となるはずです。
そこから、自分の登り方のクセとかよりもっと抽象的なことを導ける予感もあります。

北上のジムに通うのはあと2、3回といったところでしょう。
やるかどうかは気分次第ですね。