human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

新しい仕事(0):磨耗を起こさない、風景との関係

前に書いた文章を読んでいました。
これが書かれた時の頭の状態が、読んでいると思い出されます。
眉間には軽く皺が寄り、口は意識的にぴたりと閉じられている。
真一文字を崩す口の端の歪みは、頭の潜行を許す身体の諦めの証。

cheechoff.hatenadiary.jp

この一節にふと目が留まりました。

「風景は、人が見れば見るほど磨耗する」。
これは通時的な現象ではなく、共時的な現象だと考えました。
つまりこの一言は同時に、

 人々から顧みられなくなった風景は、原石の輝きを取り戻す

ということも意味するはずです。

いま改めて引用するのは、これを書いた当時と違うことを考えているからです。
その当時の考え(の大部分である、文章に表れていないところのもの)はわかりませんが、
それと「これ」とが、違う、ということはわかる。

 × × ×

下線部から、どんな意味が汲み取れるだろうか。
見捨てられた観光名所の価値の再発見、という話ではもちろんない。

天空の城ラピュタ』の、廃れた文明の跡を覆う草原をふと想像しました。
でも、これもたぶん違う話です。
ここから言うのであれば、きっとこういうことになる。
映画のワンシーンとして多くの観客に「消費」され、この風景は磨耗する。
…話はまだ始まりから進んでいません。

 × × ×

これが、僕がやりたいことと関連するならば。

「人々から顧みられなくなった風景」を、

見つけたいのではない。
自分だけのものとして見つけたいのではない。
多くの他人が共感できるために見つけたいわけでもない。


逆から考えよう。

磨耗という。風景を主体とした表現では。
それを見る人々を主語にとれば、同じ現象を消費という。

消費という言葉に、今の僕はポジティブなものを認めていない。
ここには、未知で膨大なはずの「時間」がもつものを無化するはたらきが感じられる。
「時間」がもつものを怖れるがために、消費によってそれらを無化する。

消費という言葉は、その対象を蕩尽したとみなす効果をもっている。
対象との関係の、一定の落着を、あるいは終末を告げる。
だが、蕩尽? 対象は、ことごとく「尽きた」のか? 本当に?

そう思うのは、あなたが「消費」すべき対象が、多すぎるからではないのか?
始めるべきことが多すぎて、無闇に終らせようとしているだけではないのか?

 × × ×

磨耗を起こさない、風景との関係。
消費でない、対象との関係。

そういう関係を…

それは「時間」のなかにある。

そういう関係を、見つけたい。
人がそれを見つける、手助けをしたい。

(明らかなのは、発見も、手助けも、その人となり抜きでは成り立たないということだけ)

それを、これから考えていこう。