土曜日の昼過ぎに呼び鈴が鳴る。
戸を開けると佇む女性。
日蓮宗の分派の勧誘。
歴史の遺物だと思っていたが。
「キリスト教の、あの…シト…」
「ああ、エホバのことですか?」
「そうです。あれに比べると、規模は小さいようですね」
「あれは想像ですから」
勧誘員の、まことに当を得た一言。
それでもこの分派は日本全国で二百万人も会員がいるという。
50人に1人。
地域差は大きいようだが、珍しいという比率ではない。
「人は死んでから2時間ほどは耳が聞こえているといいます」
「亡くなられた方の耳元で念仏を唱えると、血の気が戻って髪も黒くなるんです!」
「…そういうことも、あり得ると思います」
「(笑顔)」
「日蓮宗って、他の宗派より身体を使いますもんね。踊り念仏でしたっけ?」
「いいえ、踊りません」
「ああ、いや、起源としては、ということですが」
「?」
正直なことが言えず、ひたすら相手の話を聞いていた。
端的に伝えても気を悪くするだけだろう、と思い。
宗教に興味はあるが、自分が信仰を持つことはない。
関心があるのは「人がどのように宗教を必要とするのか」、
あるいは、宗教を媒体として前面に押し出される人間性。
科学も宗教的な性質をもつが、それはひた隠しにされている。
「迷信じみた宗教を否定する合理性」という表の顔のもとに。
ただ、人類の宗教との関わりは文明以前に遡る。
科学が宗教性を隠すほど、宗教が社会の中で大きくなっていくのだろう。
p.s.
この記事を書き終えた直後に、また件の女性が来た。
話を聞くうち年配の女性も加わり、宗教を軸に政治や歴史の話をする。
そのあいだの2時間、玄関の板間に正座していた。
足の痺れはそれほどなく、冷えたのでお湯シャワーで膝以下を温めた。
脚の忍耐力も大したものである。
× × ×
とても、ものすごく、よくわかる。
TVピープルが部屋に入ってきてから出ていくまで、僕は身動きひとつしなかった。一言も口をきかなかった。ずっとソファーに横になったまま、彼らの作業を眺めていた。不自然だとあなたは言うかもしれない。部屋の中に見知らぬ人間が突然、それも三人も入ってきて、勝手にテレビを置いていったというのに、何も言わずに黙ってそれをじっと眺めているなんて、ちょっと変な話じゃないか、と。
でも僕は何も言わなかった。ただ黙って状況の進行を見守っていた。それはたぶん彼らが僕の存在を徹底的に無視していたからじゃないかと思う。(…)目の前にいる他人からそんな風にきっちりと存在を無視されると、自分でも自分がそこに存在しているかどうかだんだん確信が持てなくなってくるものなのだ。ふと自分の手を見ると、それが透けて見えるようにさえ感じられる。それはある種の無力感だ。呪縛だ。自分の体が、自分の存在がどんどん透けていく。そして僕は動けなくなる。何も言えなくなる。(…)うまく口が開けない。自分の声を聞くのが怖くなる。
村上春樹『TVピープル』
カフカの作品は寓話ではない、と保坂和志はいう。
ところでこれは寓話である。
でも話は簡単じゃない。
この話が寓話であるのは、テレビが寓話的であるという意味においてだ。
言い換えると、「現に(たとえばリビングに)テレビがある生活風景」としては現実的である。
三人のTVピープルは寓話的存在だが、彼らは現実の生活に登場する。出没する。
そして、現実に触れることで寓話的でなくなるTVピープルは、寓話以上の存在である。
だから怖い。恐ろしい。
TVピープルを見ることは、
自分もTVピープルになることだから。
× × ×
ツタヤに行って「全日本道路地図」を買いました。3300円。
岩手で花粉が猛威を振るい始めたら、南へ逃げます。
「事のついで」に。
ふふふ。