human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

身をやつす、苦労の「言い値買い」、Y.Kのこと

朝食時に『小説修業』(小島信夫保坂和志)を読み始める。
ハシモト氏の「貧乏は正しい!」シリーズはこの後になりそう。

週に一度の洗濯は朝起きて食器を洗う前に洗濯機のボタンを押す。
1時間の暖気なし乾燥「風乾燥」を含めて、朝食を終える前にブザーが鳴る。
朝食こもごもで2時間ほど経過している模様。

私はデビュー作の『プレーンソング』からしばらくのあいだ、私に似た語り手を設定するにあたって、<身をやつして>いました。<身をやつす>というのは、語り手が普段の私と同程度に考えたり感じたりするのではなくて、見ないようにする部分、考えないようにする部分、そういうところが語り手にあるということです。(…)私が身をやつさないように心がけるようになったのは、その一年後の『猫に時間の流れる』からだったのですが、『プレーンソング』や『草の上の朝食』の語り手が身をやつしていたのは、意図していたことではなくて、あの頃はそうしていないと書けなかったのです。「書く」というのは必ず何か枠組みを必要とすることで、はじめの頃の私は、<身をやつす>という枠組みを必要としていた、ということです。p.35-36

小説家が「書く」のと同様、勤労者が「働く」においても枠組みを必要とする。
会社の規則や人付き合いという外部の枠組みのことではない(無論それもある)。
個人の内側においてのこと。

次に働く時は<身をやつす>必要があるなと思う。
一度染まれば戻れないと、過去の自分は思っていた。
それは間違いであり、どうしようもなく正しい。
未来は見通せず、過去には戻れない。つねに。

仕事に<身をやつす>のは、余計なことを考えなくなることではない。
ひとまずは「考える土台」を疑わない、ということ。
土台とはすなわち、その仕事によって成り立っている生活。
思考と言葉にディテールが生まれるのはそれからのこと。
生まれざるを得ずして、生まれてくるもの。
評価分析以前の立ち位置。

 × × ×

 松柳、教室にて余に「君ほど幸福なる者、この学校にあらず」という。
「?」
 と、顔を見るに、「君ほど本をよく読んでいる人間はこの学校中になし。人間は精神的苦労をせねば立派なる人間になれず」という。
 余は真に苦笑せり。背に粟の生ずるを覚えたり。(…)
 余答えて曰く「君の言葉によれば、本を読むことと精神的苦労とは同一のごとく感ず。然るや?」
 松柳曰く「然り」而してふしぎそうな顔なり。余は微笑を禁ずるを得ざりき。
(…)
 而して余心中思えらく、松柳若し余の、口から出まかせの諧謔と、刺すがごとき皮肉と、冷たさと虚無と憂鬱と投げやりの外観に魅せられたるならば、その光栄は書にあらずして、余の過去の担うところなり。
”精神的苦労”は、人間と人間とのきしりより生まる。おのれと、それにひとしく卑小なる周囲との、おそらく愚劣極まる小事をめぐる魂のたたかいより生ず。而して夢それを羨むことなかれ!
 松柳、愛にみてる父母と優しき妹を有し、靄々の故郷を有す。かくして苦も知らず悩みも知らずすくすくと杉の木のごとく、素直なる、鷹揚なる、明朗なる品性に育てあげらる。これにまさる幸福、人生の価値いずこにあらん。余の”精神的苦労”こそ文学的片影、小説的魅力など毫もあらざる惨めなる、滑稽なる、悲惨なる魂の地獄なりしを。

「五月」p.183-184(山田風太郎『戦中不戦派日記』)

そうかもしれない。
去年春に会った小学校の元担任は、自分のことを「温室育ち」と言っていた。
そうかもしれない。

温室にしろ路傍にしろ、育ちに応じて向き不向きは生じよう。
ただ、適性に従うのが苦労を回避するためというのなら、御免こうむりたい。

苦労の値段は日に日に上がり、とどまるところを知らず。
稀少価値に阿る市場の、何ぞこれのみ避けたるか。
金の使い途に困らば、苦労をこそ買うべし。

 × × ×

「温室育ち」のコンテクストを思い出す。
先生は「Kさんもそうだったわね」と言ったのだった。

子どもの頃の記憶として、中学時よりも小学時に、より濃い彩りがある。
記憶が脈絡を欠いた断片しかなく、その個々は視覚的に曖昧であるにもかかわらず。
そのせいか、旧友として会ってみたい人は小学校の方が多い。

Kもその一人で、教え子の消息を多く知る先生に尋ねると、先生は首を振った。
そのかわり、当時の彼女の印象と、あるエピソードを教えてくれたのだった。
その印象とエピソードは、僕にはかなり意外なものであった。


生徒会で僕が副会長をやっていた時に、同じく副会長をやっていた。
生徒会は、会長、副会長男子、副会長女子、書記で構成されていた*1
小学四年から六年の高学年クラスの中から、各役職に対して数名ずつ立候補者が出る。
その生徒会役員が全て1つのクラスから選出された、異例の年(半期)だった。

彼女について、「テレサ・テン」という言葉がまず浮かぶ。
だがこれは実際のところ、「テレサ・テン」ではなく「テレサ」である。
「だるまさん」の要領でふわふわと追いかけてくる、マリオに出てくるお化けのこと。
パッと言葉が出るところからして、当時すでにもっていた印象に違いない。
今それを解釈すれば、髪型(を含む頭の形)と、大きく開けた口。
彼女は明朗闊達で、とてもよく喋る子だった。
その奥に繊細ななにかがあるとは、つゆとも思わなかった。


「あの頃からどう変わったか」
その興味は、小学時代を共にした多くの友人に共通してある。
ただ、彼女に会ってみたい理由はそれだけではない。
「ほんとうはどういう人間であったか」
隠れていた、あるいは隠していた一面は成長を通じて形を成し、やがて顕在化する。
もしそうなら、長じての再会は過去の記憶に新たな彩りを添えるものになるだろう。
そして何より、それは僕自身と近しい一面であるかもしれないのだ。

僕が心配する義理はどこにもないが、
地元であれどこであれ、元気にやっていればいいのだけれど、と思う。

*1:書記は1人だったと思うが、2人だったかもしれない。