human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

10日目:護摩、地産地消、おにぎらず 2017.3.10

朝の6時10分前、宿坊のロビーに行くとフランス人Jack翁が待っている。"Good morning."「オハヨゴザイマス」お互いが気遣って言語がひっくり返る。5分前に住職が早足でやってきて、立ち止まりもせずに「ではお堂へ参ります」と案内を始める。「あの、まだ1人来ていませんが…呼びにいきましょうか?」「そのうち来るでしょう。では」まだ集合時刻になっていないのだが。

仏像が並ぶ板廊下を抜け、砂利石に浮いた飛び石が並ぶ廊下を抜けて、護摩堂へ至る。半球形の内部は薄暗くひっそりとしているが、なにかよくわからない気配をものものしく感じる。薄闇に目が慣れてくると、堂の周囲をぐるりと、数え切れないほどの仏像が幾段にもわたってぎっしりと立ち、こちらを見下ろしている。数百はゆうに超える。一つひとつは小さい。これらは全国から集まった不動明王像である、と説明を受ける。
堂の中心に住職が座ったところで、護摩の儀式が始まる。金物の皿や仏具が所狭しと台座に並べられていく。結界が張られた台座の前には薪が積まれている。あれやこれやの宣言、聞いたことのある経、初めて耳にするいくつもの真言などが淀みなく唱えられていく。光明真言や般若心経など参拝時に遍路が毎度唱えるものは、宿坊に泊まった翌朝のお勤めでも住職に促されて一緒に唱えるものだ。三度の経験上そう認識していたが、鯖大師では違っていた。言ってみれば、こちらが参入する隙がない。「では、光明真言を二度、ご一緒に」などという声かけもない。淡々と儀式が進むうち、これは遍路がお勤めに参加しているのではなく、住職の日々のお勤めをたまたまの宿泊客である遍路が見学しているのだと気付く。どうやらそうに違いない。
薪に放たれた護摩の火が、経が進むにつれ大きくなっていく。炎の上端が正座する住職の丈を超え、さらに上昇する。屋内でする焚き火の規模ではないな、と心配になってくる。中天には煙を逃がすのであろう穴があり、薄明の空が覗けるが、煙のいくらかは堂内に留まり、靄のように視界を曖昧にしている。頭では心配ないと分かっていても、火の大きさと住職の鬼気迫る肉声に、心臓はどきどきしている。
家内安全、学業成就、等々。鯖大師に寄せられた祈願の内容、祈願対象者と依頼主(たとえば高校受験をひかえる息子とその母親)が読み上げられ、祈りの言葉が告げられ、祈願用紙なのか紙片が勢いよく火中に投じられる。大きな輪っかがいくつか付いた杖が大仰に振られ、硬い音が重なってあたりに響く。住職の紙片の投じ方は、儀式よりもスポーツのそれに近く見える。雰囲気に呑まれてただ住職の背中を見つめている。時々、紙片が火から外れて地面にぽとりと落ちるが、住職には全く意に介したそぶりがない。剛胆である。こちらもそれを見て「しまった」とも思わない。完全に呑まれている。
やがて住職は立ち上がり、杖を持ってこちらに歩み寄ってくる。「……を」自分に向かって声がかかるが、何を言っているのか分からない。会話に聞こえない。呪文かもしれない。頭が回らず身体は硬直したままだ。住職は顔色を変えず言葉を繰り返す。「じゅずを」ジュズ? ああ、今手にもっている、これか。お勤めの際に二重にして左右の指にかける長めの数珠。この黒い数珠とともに右手を住職に差し出す。住職は道中安全を祈願して杖を振り、香を振りかけてくれる。おお、これでこの先は大丈夫だ、という力強い安心感がこみ上げてくる。

「6時前にロビーに行ったんですけど、誰もいませんでした」朝食の時に足の調子の悪いおじさんがこぼす。あの護摩が見られなかったのは非常に残念だと思わざるを得ないが、苦笑いで返すしかない。道理が通らないことも、またある。


昨日に引き続いて、海に近い国道を歩く。途中で車通りの多い主要道を逸れて、小さな町に入る。橋を渡る時に下をのぞくと、川がきれいである。透き通った水面のすぐ下で藻が漂っている。行程に余裕があるのでしばらく川を眺める。近くの民家からおばさんが出てきて、こちらに手招きをする。話をしていると「ちょっと待ってね」と行って家に引っ込む。しばらくすると袋を手にして戻ってくる。「これ、うすあおのりよ。すぐそこの川で取れるの。乾かせば食べられる。ご飯と一緒に食べるといいわ」ビニール袋にははち切れんばかりの乾燥のりが詰まっている。つい今しがた見ていた藻が食用だったことに驚く。「ありがとうございます!これなんて名前の海苔ですか?」「? うすあおのりよ」家のすぐ前に食べられる自然があるというのはのは素敵なことだと思う。

ふたたび主要道に戻り、歩き続ける。町を出る前に自然公園のそばの東屋で一度休憩をしていたが、それからはずっと休憩場所がない。左手には海があり、そのまま見えたり、民家や林で遮られたりする。しばらくすると、疎らな林の中に左への曲がり道があり、その先に海への突端といくつかのテトラポットが見える。車通りから離れて休憩するのに丁度良いと思い、遍路道から左に折れる。船着き場なのか釣り場なのか、何もない細いコンクリートの足場に腰を下ろす。海に浮かぶヨットや遠くを走るボートをぼーっと眺める。ふと思いついてザックから篠笛を取り出す。ぴーひゃら、とデタラメに吹く。気持がいい。何の気兼ねもいらない。山の中で吹くのとは違った感興がある。山では響き渡るというか、音がある方向へ進んでいく感覚がよくわかるが、海のそばで吹くと、音は辺りに吸い込まれていくようである。自分のちっぽけさが身に染みるようでもある。奏でる曲と関係なく、ある種の哀しさが音に込もっている。あるいは演奏者が自分の音の中に哀しさを聴きとる。これは山育ちの人間だからそう感じるのかもしれない。

港町に入り、町の外れ近く、少し行けばトンネルのある、宿に到着する。昼過ぎで、まだ宿は開いていない。玄関そばに木のベンチがあったので、ザックと下駄を置いて、サンダルと手荷物だけ持って町の散策に出かけることにする。入り江に留められたいくつかの小さな漁船。錆の浮いた社宅らしき2階建てのアパート。道幅のわりに頑強な橋。地図に載った大師ゆかりのお堂があったが、町工場の隣にあり、そばで若者が立ち話をしていたので通り過ぎる。緑のこんもりした小山に真新しい階段の登り口があり、好奇心で登ってみる。上がった先には倉庫があり、看板がある。津波の際の避難場所で、倉庫には非常時の備蓄品が入っているらしい。階段からそれて倉庫とは別の方向に進むと崖になっており、木々は視界を遮らず見晴らしがよい。再び篠笛を吹く。

宿の夕食は、歩き遍路は2回目だというおじいさんと二人。福井に住んでいて、京都から来たというと「京都の道はよく歩きましたよ」という。ためになる経験談をいろいろと聞く。
「明日のお弁当用のおにぎりは作ってもらえますか?」「おにぎりは…保健所の関係でちょっと…でも、はい、承知しました」宿のお姉さんが謎めいた返答をする。翌朝受け取ったお弁当は、ラップに包まれた白ご飯と、6枚入りのパッケージ海苔。「きっと、おにぎりは手で握るから保健所の許可が下りてないと出せないってことなんだろうね」歩き遍路の要望に応えようという宿側の苦肉の策なのだ。ありがたいことである。

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9日目:日の出を拝む、砂浜蟻地獄、鯖大師 2017.3.9 - human in book bouquet

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