human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

思考ノート、グラスルーツと仕事、ヒカリゴケ

10年前の自分の記録帳。
ロルバーンの黒のA5リングノート。
新しいことを始めたり考えるたびにページをあらためてきた。
今日もなにか書こうとして、ふと最初から読み返してみる。

同じようなことを院生の頃から考えていたことを知った。
とりたててやりたいことのないこと。
流され主義、日和見主義の受動的行動指針。
集団から距離をおく、孤独を好む。
厭世観
ただ、変わったものもいくつかある。

一つ、語り口。
マスコミを目指していた時期があった。
その時期の記録に、高みから見下ろす優越意識を感じる。
「大衆」「善導」「無知への哀れみ」等々。
抱えていた無常には色がついていた。
それは人として当たり前だが、それに自分で気付いていなかった。
無知の知」を思考停止の合言葉にしていたようなものだ。
その点、立派な「大衆」の一員ではあった。

一つ、生活感。
同じ院生の頃の記録には生活の臭いが全くしない。
思考が日常とかけ離れたところで増殖している。
言い換えれば、非現実な思考が日常を回している。
これについては今、思うところがある。これは次の段落に書く。

一つ、鍵となる言葉。
グラスルーツ。
当時から内田樹を読んでいながら、この言葉が一度も出てこない。

今は、その鍵が手の平にのせられている。
ドアはいくつもある。無数にある。
そしてあらゆるドアを、その鍵は開けることができる。
信じるも信じないもない。
鍵はただドアを開けるためのものでしかない。
ドアはただ通路を隔てるものでしかない。
そして鍵は決して、朽ちることも錆びることもない。
その鍵はメタファーなのだから。

 × × ×

現実は、非現実も含めての現実である。
非現実と対立させる際の"現実"は「目の前のこと」のような意味である。
非現実は、目の前のことではない。
ただ、その非現実を問題意識とするいまは実際に、現実の一部を構成する。

「生活」という言葉は、それを言葉にすることで、非現実を現実から遠ざけてしまう。
そのようなニュアンスを持ってしまう。
それは「言葉」という言葉も同じ。
言葉の問題に頭を悩ませる時間は、"非現実"の仲間入りをさせられる。
言葉には実質がないとみなされているから。

言葉を要しない社会。
面倒な問題が起きた時にだけ、言葉に「振り回される」。
ありていに言えば、反知性主義
知性がシステム化されると、個人に宿る知性はその居場所を失う。

そのような認識を抱えたまま、
前向きに生きていくことは可能か?
社会を変えようという意志なしに、それはあり得ないように思える。
そしてその意志を発揮するにおいて、
希望のない職業というものはない。
少なくとも今の自分には、そう判断するしかない。

鍵は手の中で、傍目には気付かぬほどの、かすかな光を放ち続けている。
ヒカリゴケのように。

 光というものには、こんなかすかな、ひかえ目な、ひとりでに結晶するような性質があったのかと感動するほどの淡い光でした。苔が金緑色に光るというよりは、金緑色の苔がいつのまにか光そのものになったと言った方がよいでしょう。光りかがやくのではなく、光りしずまる。光を外へ撒きちらすのではなく、光を内部に吸いこもうとしているようです。

武田泰淳ひかりごけ