human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

ゆくとしくるとし('17→'18)

2017年も年の瀬です。

今年は未だかつてないほど世間と隔絶した生活をしていました。
曜日感覚と季節感を除いて、時を刻む音を耳にしませんでした。
ともあれ、毎年恒例ということで少しばかり振り返ってみることにします。
去年までと違い、今年はこのブログに「ゆくくる」本文を書きます。

例年通り、BGMは不始末さんのこちら。毎度お世話になります。

 × × ×

あとで触れますが、今年は岩手で年を越します。
初詣は近所にある鼬幣(いたちべい)稲荷神社へ行くつもりです。
当たり前の雪景色で、数日前に積もった雪で道路は凍っています。
寒さにも慣れたので、距離も近いし歩いてみようと思います。

今日は夕方から、ここ2年分の「ゆくくる」を読み返していました。
読み終えてから今年分を書こうと思い、その量の多さに驚きました。
お腹が空いてきたので書く前に夕食を作り始めましたが、
ご飯を炊いていないことに気付き、途中で止めて先に書き始めています。

 × × ×

内田樹氏に倣い、今年の個人的十大ニュース(時系列順)。

 1. 夜の京都の街(鴨川沿い)を一本歯下駄で闊歩
 2. その勢いで四国遍路を一本歯下駄で踏破
 3. 京都市左京区から岩手県花巻市へ高飛び
 4. 積年の興味対象だったボルダリングを始める
 5. 東北の涼夏を感じつつ7年ぶりに大学へ通う
 6. 2ヶ月半の短期講習を終えて「図書館司書」資格を取得
 7. 終始流れに身を任せて「短期集中恋愛飯事」を行う
 8. 東北3県9ヶ所の公立図書館ツアーを敢行
 9. 村上春樹小説に端を発する待望の「雪かき」を実地体験
 10. 司書のモチベーションを維持しつつ「読書と登壁」生活

10個もないと思ってましたが、書いてみると、あるものですね。
項目の所々をひろって、かるく解説しておきます。
まずは別途参照のものから。

(2)は帰還後所感記、気まぐれリアルタイム道中記、更新途絶中の回想記などに任せます*1
(4)は「登ること」のタグがついた記事群にいろいろ書いています。
(7)は「ある関係の始終」と題する数記事に「非常に抽象的に」書かれています。
一言だけ具体的なことを言い添えると、相手は「年下バツイチ子有り彼氏持ち」でした。
(8)は具体的に見学した図書館についてここに列挙しました。

…ご飯が炊けたので先に夕食を食べようと思います。

玄米ですが、こういう事態は何度かあり、「白米早炊き」で炊きます。
水分が粒の中まで浸透しませんが、まあ仕方ありません。
「くえるだけでもありがたや はらにはいればみなおなじ」
とは、『忍玉乱太郎』の忍術学園臨時教師、黒影半蔵もとい「黒コゲパン蔵」の言葉。

いや、不味いほどではありませんが。 ** : **

 × × ×

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というわけで今年最後の晩ご飯。

最近「薄味」生活を始めています。
漬け物は雪菜(宮城産)とにんじんの浅漬け、わさび風味。
味噌汁は同じく雪菜とメークイン、味噌は岩手の田舎味噌。
木綿豆腐の上には京都の白味噌がのっけてあります。

これで玄米ご飯を茶碗にもう1杯食べて、腹八分目。

 × × ×

先の十大ニュースの続き。

(9)、(10)が進行形で、(10)が今の生活を端的に表しています。
仕事は求職中で、とにかくまずは図書館で働くつもりです。
花巻で働くのか、あるいはまた別天地で見つけるのかは縁次第です。
岩手にはとりあえずひと冬を越すまではいると思います。

「司書のモチベーション」は、これまたどういう経緯か、力添えを頂いています。
司書講習の同期の方で、人生経験豊富で僕より一回り半ほど年上の「ラテン系姐御」。
その人M女史は地元T市で子ども図書館のフルタイム職を得たようで、
「週報」と題してT市の図書館事情をはじめ色々な情報を送ってくれています。

この場を借りてお礼申し上げ、司書職が叶った暁には「週報返し」をする所存です。

 × × ×

上で触れた「2年分のゆくくる」ですが、自分で書いたのですが読んで驚きました。
文章量もさることながら、2つの強い意思をまざまざと感じました。
ひとつは、頭の回転のなすがままに、という奔放さに従う強さ。
いまひとつは、可能な限り緻密に論理的に言葉にしてやろうという強さ。

今の自分が読んでもとても面白いのは、興味関心がほぼそのままだからです。
それでも感心までしてしまうのは、今はこうは書けないと思うからです。
さっき読んでみて、保坂和志森博嗣(の文体)の影響をはっきり感じました。
内容として今の生活と関わるところがいくつかあったので、抜粋しておきます。

<去年>
 1. ゆくとしくるとし('16→'17) : 深爪エリマキトカゲ
<おととし>
 2. 生活だけがあった年 : 深爪エリマキトカゲ
 3. ゆくとしくるとし(´15→´16)1 : 深爪エリマキトカゲ
 4. interlude -京都和歩と憑依想像遊戯- : 深爪エリマキトカゲ
 5. ゆくとしくるとし('15→'16)2 : 深爪エリマキトカゲ

会社を辞めて田舎暮らしをしたいのかというと、まだよくわかりません。
感受性を下げる要因が少ない、むしろ感度を高める喜びすらある(というのは実際を知らない僕の想像ですが)という意味では田舎暮らしは魅力的ですが、今のところ魅力を感じるのはその点のみです。
人が少ないのも自分向きのような気はしますがこれは現状と比較してのことで、本格的に人口の少ない街や村で暮らしたことがないので人の少なさが自分にどういう心境の変化をもたらすかについては、好悪は不明でただ興味だけがあります。
田舎でする仕事などはなおさら何も想像していなくて、むしろ一度仕事を辞めたら「何も仕事をしない生活」を数年くらいは続けてみたいと思っているくらいで、これは明らかに保坂和志のエッセイや小説の影響を受けています。...(3)

これは2年前、まだ会社を辞める前に書かれたものです。
この抜粋の全体として、今はだいたいこの通りになっています。
花巻はここで考えられているほどの田舎ではありませんが。
「何も仕事をしない生活」を始めて1年と3月になりますが、さて今後はどうなるか。

僕は「専門家にはなりたくない」という漠然とした認識を持っていて、でもこれをちゃんと言えば「視野が狭くなって他の専門分野に興味を持たず、他者の思考を尊重しない専門家にはなりたくない」であって、そうならない道として昔は「(狭く深く、ではなく)浅く広く」しかないと思い込んでいたのですが、(…)「浅く広く」もやり方次第では「一つの専門」になりうると思います。たとえば「雑学クイズ王」みたいなものかもしれません。僕の今の興味からすれば「生活の専門家」と表現すれば言いたいことが言えていることになるのですが、実際的な面と同時に思想的な面もフォローするには「生活」という言葉は実際側に傾きすぎているように思えます(鶴見俊輔氏の「限界芸術」にならって「限界生活」とかどうでしょうか…なんか限界集落みたいな響きがしますね。ふと「電波少年」の”なすびの懸賞生活”を思い出しました)。

『風土』の話から逸れて何が言いたかったのかというと、昔は興味を持てなかった本に興味がもてるようになったこと(を認識したこと)から、『喜嶋先生~』にあった「専門の深化がたどり着ける普遍」を連想し、そこから、僕自身が距離をおいていると思っていた何かしらの「専門性」を僕が持ちつつあるのではないか、ということも考えてみたのでした。
このことは連想しただけで、それを今掘り下げてみようと思いませんが(なんとなく、今「生活」としてやっていることが「仕事」に結びつきそうな気がするのです。これもまた今の僕が避けようとしている認識です)、とても大事なテーマだとも思うので、今書いているこの文章を読み返す未来の自分に期待するとしましょう。...(4)

この抜粋太字部を読んで、「未来の自分」とはまさに今の自分ではないのかと思いました。
というのも、最近の記事でも触れましたが、ちょうど甲野氏のこの本を読んでいたからです。
今日読了したそのタイトルは、まさに『今までにない職業をつくる』。
過去の自分に期待されてるからには、発奮せずにはいられない…かもしれません。

司書講習中は、同期I氏と「司書サービス付き野菜スープスパゲティ屋」構想を練っていました。
これは8割方冗談でしたが、休みの日に調理メニューの研究をしたりもしました。
また上記M女史には「司書よりブックカフェ店主の方が似合うんじゃない?」と言われました。
その時彼女は、コスタリカにいくつかあるというブックカフェの話をしてくれました。

敢えて今これを考えるなら、列挙できるキーワードは決まっています。
「本(読書)」「非集団」「司書」「生活(思想)」「身体性」「武道(ボルダリング)」。
最後がおかしいですが、自分の興味を並べればこんなところです。
これ以上は掘り下げませんが、このキーワードも、未来の自分への縁としておきましょう。

 × × ×

夜になって、ふと玄関から外を見ると雪が降っていました。
その前にトイレに行った時に感じた静けさで、それは分かっていました。
雪が降ると、そして積もっているとさらに、とても静かになります。
この静けさは、経験した最初から、とても好きです。

「余計なことをしない」というストイックさが、ここでは自然と身につきます。
ちゃんと環境を整えずに気を緩めることを、厳しい寒さは許してくれません。
この行動の制限は、必然性という結晶となって僕の一部となります。
逆から言えば、不自由という側面が必然性のなさを除去してくれるように感じます。


仕事をせずに、一日家で読書をするか、登壁ジムを車で往復するだけの現状では、
雪国生活はとても自分の性質に合っている気がします。
好きではなかった車も、生活上の必要が身に染みて、当たり前に乗るようになりました。
実際の仕事事情、それとあとは豪雪と極寒の経験次第では、定住の可能性もなくはない。

とはいえ、それを決めるのも、僕自身ではないという予感があります。
ここ何年かの「ゆくくる」に書いた通り、縁に従って仕事を見つけ、そこで生活をする。
司書資格をとろうと思った経緯はもう忘れましたが、自分で決めた印象はあまり残っていない。
今の生活も、現在を充実させることの中に、生きる間口を広げることがあります。


音が途絶え外界が雪で閉ざされた場所での独り生活が、危険だと考えたことがありました。
東北では自殺者が多いという情報を、それ単体で真に受けていたのだと思います。
いっぽう、人の多い都会なら寂しくないし、いざとなれば近くに頼れる人がいる。
…今はその当時(おそらく神奈川で働いていた頃)と、まったく逆の印象を持っています。

寂しいかどうか、孤独かどうかは、僕にとっては大して重要ではない。
いや、これは一般化できるとすら思います。
重要なのは、自分の身体の息づきへの感度を保っていられること。
何の重要性かといえば、「生きる意欲」にとって、です。


「人は他人のためならば生きられる」とは、僕もそう思います。
けれどもしかして、この源には「身体性」があるのではないでしょうか?
他者とじかに接して他者の身体の息づきを感じ、自らの身体がこれに応じて活性化する。
人の顔が見えないシステム化された会社では、他者は脳的にしか把握できない。

今の生活が「生きる間口を広げる」とは、こういう意味においてです。
何度も書いたことですが、正直に言って僕は、やりたいことがあるわけではありません。
(「君、図書館で働きたいと別に思ってないよな?」と、上述の慧眼I氏は見抜いていました)
やりたいことではなく、「こうありたい」という状態の志向がある。


今、これに別の表現を与えることができます。
生活(仕事)の充実とは、「生きたい」と思ってそれを営んでいくことです。
高度にシステム化された集団社会では、"時に"逆説的な事態が発生します。
意志として「生きたい」と思わない方が、現実として「生きて」いきやすい。

この逆説的事態は、もはや"時々"ではなく、"必然的に"起こると考えていいと思います。
多くの人が結集して丹念に作り上げたシステムは、その内部の人間に複雑な手間を要求しない。
生きること自体が手間のかかる無駄な営為だという根本的な認識に立てば、道理です。
それゆえ、システムの外に立つか、その内側でシステムとは別の「生の原理」を立ち上げる。


あるいは、上記の別の表現を、問いの形にすることもできます。
「どうすれば『生きる意欲』をもって生活していくことができるか?」
正確にいうと、より抽象的になりますが、こうなります。
「仕事の種類によらず、"それ"を実現するにはどうすればよいか?」

もし、この問いになんらかの答えが見出せたならば、それは僕だけの問題ではなくなります。
もとい、それは僕だけの「答え」ではなくなります。
そういう、「遠大な野望」があっても、いいと思うのです。
これもひとつの、「個が普遍につながる」形ではないかと思うのです。


これまでの「ゆくくる」ではやりませんでしたが、本の引用で締めたいと思います。
数ヶ月前から、橋本治の時評本『ああでもなくこうでもなく』シリーズを読み返しています。
院生時に精読して救われると同時に蒙を啓かれたこの6冊には、大量に傍線が引いてあります。
その、ちょうど最近読み返した部分と本記事の結末がシンクロしたのは、きっと偶然ではない。

「私が今年の初めに「算数が出来ない小学生のための算数の本」を書こうと思ったのは、正しく、「世界情勢なんかより、"自分は算数が出来ない"と思って、自分の誇りを埋もれさせてしまう人間を救うことの方が大切だ」と思ったからで、なんでそんなことを考えるのかと言えば、私が根本で、「世界情勢は結局のところ個々の人間が作るもので、それをへんな風に歪めないためには、個々の人間が誇りを埋もれさせないことが一番だ」と思っているからである。私はそういう風に、時代状況を一個人にシンクロさせてしまう
 そうでなければ意味はないし、またそれ以外に、私のような専門知識を持たない人間が世界に立ち向かう術もない。
「183 世界を作るのは、やっぱり、一人一人の人間である」p.242-243

 私は別に、シラタキが病気になったから、それで自分の原稿に個人的なメッセージを込めていたわけではない。それを言うなら、個人的なメッセージは、初めからある。あって当然だというのは、この原稿を受け取るのがシラタキで、この原稿を最初に読むのもシラタキだったからだ。(…)
 「あなたは、編集者としてこれを読むことによって、読者という公的な存在になる」──それが、書き手から編集者へ送られる私的なメッセージであると、私は信じている。
 だから、編集者は「一読者」になってはいけない。「読者であることを代表する最初の読者」にならなければいけない。その前提を捨ててしまったら、「読者へ送る」が、ただのトンネル仕事になってしまう。
 一個人は、同時にまた一公人である──これは、義務であり、権利である。この二重性がなかったら、「国民一人一人が国家のあり方を考える」ということは成り立たない。「個としての深み」は、「公としての広がり」とシンクロしていなければいけない。それであればこそ、「一人のあり方」は時代状況とシンクロしうるのだと、私は思う
「187 読者と書き手と編集者」p.254-255

「第四巻の第十四回 世界の中の一人(2003年6月・7月)」(橋本治『ああでもなくこうでもなく4 戦争のある世界』マドラ出版)

なんとか今年中に書き終えることができました。

どうぞ、よいお年を。
そして、来年もどうぞ宜しくお願いします。 23:45

chee-choff

*1:1/1追記:紹介にちょうどよい写真があるのを忘れていました。物珍しさか道中で散々写真を撮られたので、いくつかはネットに上がるだろうと思っていたのを思い出し9月末に検索して、3つほど見つけていました。これはその中の一枚。遍路道の終盤、香川県は84番屋島寺のある山頂へ続く参道にて。急傾斜に加えてつるつるの石畳の道だったので歯底が滑って大変でした。出典はこちら(元ページが見られなくなっていたので検索結果ですが)。
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