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読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

ありもの「野菜だし」、変化し続けること

半年ほど前に岩手に引っ越す直前、京都府立図書館の向かいの蔦屋書店でいくつか料理本を買いました。
その当時に自分が想像する食生活のベースになるだろうと思って、野菜スープ本、サラダ教本、玄米レシピ本の三冊を選びました。
そのうちの一冊↓は、今も料理する時に参照し続けています。

スープの出汁に、調理時に出た野菜の切れ端を利用するのがこの本の基本思想です。
ある程度切れ端がたまったら、昆布と料理酒を足して煮込むだけ。
できた出汁は冷凍保存します。
本では出汁を使ったスープのレシピが載っていますが、出汁でご飯を炊いてもいいし、僕がここ最近頻繁に作るようになったカレーに出汁を加えてもいい。

出汁を足して味がドラスティックに変わるわけではありませんが、料理のメイン素材の味をしっかり支えてくれます。
出汁で炊いた米(いつからか僕は玄米です)は、それだけで食べるとなんの変哲もないのですが、おかず(=スープ)と一緒に食べた時に、予想だにしない旨みが引き出されます。
素材が薄味なほどその化学反応が劇的になる点は、スープのレシピは洋風が多いものの、野菜だし自体は和食の思想をもつと言えます。


最近の話ですが、カレーを作り始めてから「食べたい野菜をとにかく放り込む」ようになり、使う野菜が増えました。
「食べたい野菜」というのは正確には、スーパーで買おうと思って手に取った野菜で、それには食べたいという意欲のほかに、安くて多い(それは旬の野菜であることが多い)、新鮮である、地場産である、などの理由が付随しています。
カレーは最初に作る時に素材が完結するわけではなく、残りを使い回す間に足したり、焼き野菜にして別途の具にしたりするので、主に単品野菜でつくる野菜スープより断然多種の野菜を使うことになります。

そのような背景で今日野菜だしを作った時に、今までより野菜の顔ぶれが一段と豪華だと思って、せっかくなので数えてみようと思い立ったのが本記事の発端です。
ついでに今までの野菜だしも載せようと思って(特に理由なく、岩手に来てから調理にまつわる写真を撮りためていました)、整理していたら今日作った出汁がちょうど10回目でした。
今年最後の出汁が節目で、充実もしていて、一年を区切りとしての有終の美となりました。

まずは9回目までの写真をまとめた一枚を載せます。
これはphotoscapeというソフトに写真をまとめて放り込めばちゃっちゃと作れます。
便利なものですね。

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そして10回目の野菜だしと、その詳細です。
写真は材料投入時と、煮込んだ後のもの。
材料を列挙すると豪勢に見えますが、これらは普段の調理屑をタッパーで保存していたものの蓄積で、こういうものを作ろうとしたのではなく、まさに「ありもの」の結果です。

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 <材料>
  ・玉ねぎ(の皮と、根)
  ・長ネギ(の根)
  ・ほうれん草(の根)
  ・ピーマン(のヘタと、内綿というのか種がついた部分)
  ・オクラ(のヘタと、先端)
  ・にんじん(の皮と、根の付け根)
  ・かぶ(の根の付け根)
  ・大根(の根の付け根)
  ・さといも(の皮)
  ・じゃがいも(の皮)
  ・ヤーコン(の皮)
  ・まいたけ(の石突き)
  ・エリンギ(の石突き)
  ・えのきだけ(の石突き)
  ・しょうが(の皮)
  (+ベースのだし用昆布と、どぶろく

そういえば「野菜だし生活」を始めた頃の記事↓には、「生ゴミ入れは今のところ必要ない」と書きました。
調理で出る生ゴミがほとんど野菜だしに利用されるためにタッパー保存されるからで、結局現在もシンクに生ゴミ入れはありません。
利用できない生ゴミで日常的に出るのは、卵の殻とバナナの皮だけです。
cheechoff.hatenadiary.jp

 × × ×

野菜屑を捨てるのは、残飯処理と同じ質の疾しさがあります。

人が集団で食事をする効率化された場所ではどちらも当たり前に行われていることで、例えば食事処の調理場などがそうですが、その当たり前を個人の生活にも適用してよいのかどうかは、一考の価値があります。
これは、環境問題とか、資源の有効活用とか、そういった大枠の話とは、関わるにせよ本質的に別問題です(この一文から、環境問題のグラスルーツ的解決のカギがこの「別問題」からのアプローチにあることが想像できます)。

僕がここで書いた「疾しさ」の原点は、食膳に供されたものは残してはならないというしつけよりも(もちろんこれがそのまたベースにあるのでしょうが)、ホテルのバイトをしていた時に立食パーティの残飯を無慈悲にゴミ袋に流し込んだ経験にあります。
もったいないからと捨てる前につまみ食いをする先輩がいましたが、そういった個人もとい数人が対応(=資源を有効活用)するには遥かに大量の料理が、その生殺与奪の権を与えられた自分の目前に広がっていたのです。
その場所、つまりパーティを終えたホテルの一広間も「効率化された場所」で、僕自身も料理人と同じ立場で割り切るのが職業柄というものですが、結局ひと月もたずにそのバイトを辞めた入学したての大学生であった僕は、涙を押し隠して、ただ「これは間違っている」と思いました。

その思いを十年変わらず抱き続けて今のような生活をするに至ったと考えると、
なんというか、面白いなと思います。
がらりと変わる多くのものごとの根元に、あるいはその片隅に、
ちょっとした変わらぬものがひっそりと息づいている、というような。

「変化し続けたい」という意志があって、
「変わらぬもの」がその変化を陰ながら支えてくれると思えば、
安心して変化し続けられるのかもしれません。