human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

「土着の玄人」の安定感

二人の言うことは同じではありませんが、
共通のなにかを見ることができます、
ということの中身について書きます。

ハシモト氏の文章には説明がいらないほど克明かつ大胆なので、
氏の文章の他との関連を見出せた時には、
その「関連先」を理解する大きな手がかりとなります。

2つの引用の下線部、太字部がそれぞれ対応しているように見えます。

クロートにとっての「自分」とは、「自分の技術」という樹木を育てる土壌のようなもので、土壌はそれ自体「樹木」ではないのである。一本の木しかないことが寂しかったら、その土壌からもう一本の樹木を育てればいいのである。それを可能にするのが「自分」という土壌で、土壌は、そこから芽を出して枝を広げる樹木ではないのである。だからクロートの自己表現は技術の上に現れるもので、技術として昇華されない自己は、余分なものでしかないものである。余分なものがチラつくからこそ、「下手」なのである。ところがしかし、シロートは技術を持っていない。技術を持っていないからこそシロートで、そのシロートは「自分」を覆い隠すことが出来ない。すぐに「自分」を露呈させてしまう。ただ露呈させるだけではなく、露呈させた自分を問題にしてしまう──「自分とはなんだ?」などと。
 クロートはもちろん、「自分とはなんだ?」なんてことを考えない。それは、シロートだけが考える。クロートは、考えるのなら、「自分の技とはなんだ?」と考える。「自分のやってきたことはなんだ?」という悩み方をする。クロートが「自分とはなんだ?」と考えてしまうのは、自分を成り立たせて来た技術そのものが無意味になってしまった廃業の瀬戸際だけで、そんな疑問が浮かんだら、時としてクロートは、それだけで自殺をしてしまう。技術とはそういうものであり、クロートとはそういうものである。近代ではどう考えるか知らないが、そう考えるのが前近代の常識なのである。

「90「下手」とはいかなることか」p.347-348 (橋本治『ああでもなくこうでもなく3 「日本が変わってゆく』の論)

 高めることと低めること。鏡をみながら化粧している女は、自分を──すべてのものを眺めることができるこの無限の存在を──小さな空間に閉じ込めていることを恥ずかしく思わない。同様に、自我(社会的自我、心理的自我、等々)を高めるとき、どんなに高く上昇させても、われわれがただそれだけにすぎないものになれば、際限なく下落する自我が低められている場合は(エネルギーが自我を欲求に高める傾向がないかぎり)、われわれが自分がそれだけにすぎないものではないことを知っている
 非常に美しい女は、鏡に自分の姿を映し見ながら、それが自分であると思いこむことが十分にありうる。みにくい女は、それが自分ではないことを知っている。

「遡創造,7」(シモーヌ・ヴェーユ『重力と恩寵』)

ハシモト氏の「土壌」の人間的な比喩から、「土着」を連想します。
土壌を耕すには、その地に「根づく」必要がある。
また土壌に気を配ることは、樹木の維持管理でもある。
木の成長は「一面」で、土壌の土着的安定性が、盛衰のサイクルを成立させる

2つの引用をリンクさせると、タイトルのような言葉が浮かんできました。

人間のなかに自然界の秩序を見る話は、そういえば少し前↓にも書きました。
このテーマが、最近の自分には関心が高いようです。

cheechoff.hatenadiary.jp

p.s.
"enracine"で検索して、とある博士論文をみつけました。
序文には「『根をもつこと』に述べられている思想に関する包括的な研究」とあります。
印刷しないと読めませんが(目が弱いので)、機会があればぜひ読みたいです。