human in book bouquet

図書館司書を念頭に、ボルダリングと読書の生活。

存在しない神を愛する

と、こう言った時に、
「神は死んだ」(ニーチェ)の近現代が念頭にあるように聞こえますが、
最初にそう思って、けれど読むうちに違うと気付きました。
エレクトラって、ギリシャ神話ですもんね。

 単なる想像上の報酬(たとえばルイ十四世の微笑)は払われた労力と正確に等しい価値をもつ。なぜなら、それは払われた労力の価値を過不足なくもっているからである──ところが、現実の報酬は、それが現実のものであるかぎり、余分であるか、でなければ不足である。したがって無制限の努力にエネルギーを供給するのは、たとえばルイ十四世の微笑のような、もっぱら想像上の恩典だけである。(…)
 宗教の場合もある程度まで同じである。ルイ十四世の微笑という報いがないので、われわれにはほほえみかけてくれる神をこしらえるのである。
 さもなければ、さらに自分自身を崇める。価値の等しい報酬が必要なのである。これは重力と同じように避けようがない。
(「真空と埋め合わせ」, 19部分、太字部は本文傍点)

 死んだオレステースのために嘆くエーレクトラー。もし人が神が存在しないと考えながらも神を愛するならば、神はその存在を顕示するであろう
(「執着から抜け出すこと」, 16)

 エーレクトラーは、権力者たる父の娘であるが、奴隷の境涯に陥り、自分の弟にしか希望をつないでいなかったが、ある青年がこの弟の死を告げ知らせた──そして、悲嘆がその極に達したとき、この青年が弟であるとわかった。
 「婦人たちはそれが園丁だと思っていた」〔ヨハネ福音書二〇・一五〕。見知らぬ男のうちに自分の兄弟を認めよう。宇宙のなかに神を認めよう
(「読み」, 2)

 遡創造。ある創られたものを、創られずに初めから存在するもののうちに移り行かせること
(「遡創造」, 1部分)

シモーヌ・ヴェーユ『重力と恩寵

4つ目は、一つ前の記事でも取り上げた抜粋で、
一つ前の記事を書いている時に、この抜粋について最初はこう書こうとしました。

"神は存在しない"という認識は、神による人間の遡創造の帰結である

こう書いてみて、論理的に考えればこうなるがまさかそんな不敬なことではあるまい、
と思って消してしまったのですが、書き上げて夕食をとってから読書に戻り、
2つ目の抜粋箇所に行き当たって「まさか」と思い驚き、本記事を書いています。

たぶんこの4つの抜粋で、タイトルの意味がわかるはずです。
説明はいらないのかもしれませんが、とりあえずなにか書いてみます。


脳=意識の特性は「際限がない」ことで、この点において身体と対立します。
今は身体の話はしませんが、この脳の際限のなさは脳にとっての「自然」で、
物欲=身の丈の必要に限界があってそれが満たされても経済が発展し続けるのは、
経済がもはやマネーゲームと化しているからで、しかしこれも脳には「自然」です。

脳が欲する想像上の報酬は無制限で、しかしそれを受け入れるシステムが宗教にはある、
別に宗教にだけあるのではないが、というのが一つ目の抜粋。
想像上の報酬を神から授かる場合、その神は想像上の存在であり、つまり存在しない。
神が存在してしまうと、その報酬は現実のものとなり、過不足が生じる。

神が存在しないがゆえに、神から無制限の報酬を授かることができる

では「存在しない神」をどうやって愛することができるのか?
その方法は本書に(ストイックなことが)たくさん書かれていて、
3つ目の抜粋に書かれているのは「その結果の一例」です。
僕はこの断章を咀嚼しながら、アニミズムとの類似性を考えていました。

僕の認識ですが、「八百万(やおよろず)の神」という思想は物神崇拝の一種で、
これは石ころや草木や、あらゆるものに神が「宿る」と考える。
石ころが神様それ自体なのではなく、神の媒質として、いくらかの神性を帯びている。
媒介者は現実に存在し、しかし本体はたぶん想像上の存在であり、つまり存在しない。

アニミズムにおいて「存在しない神」を愛する方法は、ただ一つ、
媒介者を「媒介者として」愛する
これは、物への執着を薄めてくれます。
大切に扱ういたわりも、役目を終えての供養も、執着に基づくものではない。

アニミズムは脳の「自然」を自然界に馴染ませる、知恵のあるシステムだと思います。