human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

灯台守の無名性について

灯台守、センチネル、ゲートキーパ。
これも非常に興味のあるテーマです。

 鳥検番はペラル山脈にあるシシナン山のふもとに住んでいた。鳥はそのペラル山脈を越えてやってくる。鳥検番は、そういう鳥を動かし、気象を左右する力があると言われ、町の人々から怖れられていた。この世の人間として付き合うにはあまりにあの世に近づいていたからである。それでも鳥検番がいないければ鳥の統率がとれなくなる。鳥の統率がとれなくなるということは、あの世の魑魅魍魎が野放しになるようなものである。人々にとって、それ以上の恐怖はなかった。それで当番制を組み、鳥検番には定期的に食物が運ばれ、彼の仕事に滞りが起きないよう、協力する慣わしだった。鳥検番になるものは、捨て子の出自を持つ者と決まっていた。無名性が重要だったのだ。捨て子の資格なら、ピスタチオに勝るものはいなかった。

梨木香歩『ピスタチオ』

これは「物語の中の物語」からの抜粋です。
前に自分が書いたもの↓を読み返してから、
どうも「物語の中の物語」の方が物語よりも現実に近いような気がしていて、
自然と本書の「本編」とは読む姿勢が変わっていました。
cheechoff.syoyu.net

それはさておき、この「鳥検番」も灯台守の一種、
つまり「集団の内と外の境界にいて集団を守る番人」です。
読んでいて灯台守という言葉が最初に浮かんだのは、
前に読んだ同じく梨木氏の小説『沼地のある森を抜けて』の中の物語に、
この役目を担う生き物(たしか人ではなかったような…)が出てきたからです。

そして、下線を引きましたが、この鳥検番という役目の説明の中にある
「無名性」という言葉がなぜか周りから浮き上がって見えたために、
なにかを書こうと思ったのが本記事の動機です。


無名性は、匿名性とは違います。
匿名性においては、名前がない(名前を隠す)ことは、
手段、あるいは特定の機能を果たすための性質でしかありません。
無名性は、それとは違うのか。
それを、今書きながら考えています。

個性が表にあらわれない、この点は両者で共通している。
…この書き方は正確でないかもしれない。
匿名性は、個性が消されていることで機能を発揮する。
無名性は、個性が、人に宿るのではなく、役割に宿る

上の抜粋部を噛み締めているうちに連想した『海辺のカフカ』がヒントになりました。

 やがて二人の兵隊が僕の前に姿を見せる。
 二人とも旧帝国軍の野戦用軍服を着ている。(…)彼らは二人並んで平べったい岩の上に腰をおろしている。戦闘の姿勢はとっていない。三八式歩兵銃は足もとに立てかけられている。
(…)
「僕がここにやってくるのはわかっていたんですね?」
「もちろん」とがっしりしたほうが言う。
「我々はここでずっと番をしているから、誰が来るかはちゃんとわかる。我々は森の一部みたいなもんだから」ともうひとりが言う。
「つまり、ここが入口なんだ」とがっしりしたほうが言う。「そして俺たち二人がここの番をしている

村上春樹海辺のカフカ(下)』

カフカ少年が四国の森を徒手空拳になって、奥深く進んでゆく場面。
二人の兵隊が、ゲートキーパとして登場する。
その彼らはこんなことを言う。

「どうして我々がいまだにこんな重い鉄のかたまりをかついでいるのか、君は不思議に思うかもしれない」と背の高いほうが振りかえって僕に声をかける。「なんの役にもたたないのにね。だいたい弾丸だって入っちゃいないんだ」
「つまり、これはしるしなんだ」とがっしりしたほうが僕のほうを見ずに言う。「俺たちが離れてきたものの、あとに残してきたもののしるしなんだ」
象徴というのは大切なものだ」と背の高いほうが言う。「我々はたまたま銃をもって、こんな兵隊の服を着ているから、ここでもまた歩哨みたいな役を引きうけている。役割。それも象徴がみちびいているものだ
「あんたはなにかそういうものをもっているか? しるしになるようなものを」とがっしりした方が言う。

同上

役割を、象徴がみちびく。

二人の兵隊はこのような会話の最後に、ことのついでのように名前を尋ねる。
「田村カフカ」という少年の答えには、「変わった名前だ」という感想がひとつだけ。
無名の兵隊は名乗らず、過客の名前にも頓着しない。

鳥検番において無名性が重要であることと、同じことを言っている、ように見える。


「無名性」というキーワードが念頭にある中で「物語の中の物語」を読み進めて、
出会って驚いた言葉がありました。
これはどういうことだろう、よくわからないが、知りたい、と思う。

 次にパイパーは、鳥の本当の名前を、探し出すように言った。鳥には秘かに隠し持つ本当の名前が──それは「ヒヨドリ」というような群れの名前ではなく、その個体の持つ名前なのである──あり、それが見抜ければ、その鳥と鳥検番の間には見えない糸のような関係性が生じる。そうなれば、鳥の首に操り糸をかけたようなものだ。群れ全体を動かしたいと思うときは、群れの名前の向こうに、一羽一羽の鳥の名前が浮かび上がるように念じる。

梨木香歩『ピスタチオ』

「本当の名前」を知って動物を操るという話は、『ゲド戦記』にもあったと記憶します。
たしかその「本当の名前」は古代言語で表され、ゲドはそれを師について学ぶという。
思いついて書きましたが、これも関係するかはわかりません。

抜粋中のパイパーは、「物語の中の物語」の主人公ピスタチオが弟子入りする鳥検番です。
そのパイパーが、ピスタチオに鳥検番の技術を教えている場面です。

「無名性」を背負う鳥検番が、「本当の名前」を探す
僕が驚いたのは、この…何といえばいいのか(論理?)、これです。


どういうことだろう…と思考の糸口を探していて、
ふと内田樹氏が浮かんできました。

氏は長く神戸女学院大の教授をやって、教育に携わってきたこともあり、
氏のブログにはよく「センチネル」「歩哨」といった言葉が出てきます。
今ではウチダ氏自身が教育界、あるいは社会常識における灯台守の役目を
担っていると、出版界からの期待もあり、また自認もしているかもしれません。

そんな氏が、だいぶ前に、孔子の特徴だったか思想だったかについて、
述べて作らず」と表現したことがありました。
孔子の書き物のオリジナリティは自身にはなく、先賢にある
そしてこれはウチダ氏自身の著作にも当てはまります。
(たしかこんな話が『日本辺境論』のまえがきに書いてあったかもしれません)


オリジナリティは、個性と言い換えてよい。
個性が存在せず、しかしそこに物事を動かす力が宿ることがある。
 しかし?
 …「だからこそ」?
 物事を動かす?
 …正確に言い直せば、「境界を守る」、「基盤(土台)を支える」。

象徴を備えた役割の無名性が、境界を守り、集団を支える

話がつながったような、
ぐるぐる回っているような…

 × × ×

結局なにが言えたのかもよくわかりませんが、
最後にもう一箇所だけ『ピスタチオ』から抜粋しておきます。
海辺のカフカ』の抜粋中の兵隊の言葉である
 「我々は森の一部みたいなもんだから
と、共鳴していると感じました。

この抜粋は、物語本編の主人公のライター「棚」についての記述です。
ライターだった彼女が、「流れ」に導かれ、物語を書くようになる。
物語を書く者も、現実と物語の境界にいる。

小さい頃から気象の変化に興味があった上に、空の広いケニアに滞在して、大気の状況に自分の体がダイレクトに反応することに、文字通り他人事ではない興味を覚えたのだった。
 あの頃、風に流れる雲が、地上のあらゆる物へと同じように自分の上にも影を落とし、移動していくのがよく分かった。そしてまた次の雲が通過していくのも。その微妙な温度変化や風の質の変化が、草にも土にも自分にも、すべて「平等に」起こっていることに恍惚となり、このまま溶けてしまいそうだと思った瞬間、自分が何かの一部であることが分かった。自分は、何か、ではなく、何か、の部分なのだと。部分であるからには全体とのバランスのなかに生きればいい