human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

道徳の動特性、夢の責任 ─ ある関係の始終についての演繹的思考 (2)

それゆえ、これを認識すれば、もはや道徳の規範を固定した不動の規則とはみなさず、その更新のために働くことを絶えず人間に要求する動的な均衡とみなすようになる。無意識に獲得される反復の傾向を個人の性格のせいにして、その性格に反復の責任を取らせたりする考え方を、偏狭な見方だと次第に理解するようになる。内部と外部の相互作用が認識されるようになる。そして、まさにこの人間の非個人性を理解することで、個人的なものを、人間の基本的で簡単な行動様式を、つまり、鳥の営巣本能にも似て、ほんのわずかな方法と多様な材料で自我を作りあげる自我建設本能を、新たに探る手がかりを得たことになるのである。

ムージル著作集 特性のない男Ⅰ』(Robert Musil著、加藤二郎訳)p.307-308

抜粋の下線部に、妙に心を捕らわれた。

「道徳が人間に要求する」。
この擬人化に何の意味があろうのだろう?
ここから見出せることを考える。
そして、それはあるかもしれないがそういうことではなく、
まさにこういう場を自分が経験したことに思い当たった。

自分の経験に、ある意味で的確な言葉が与えられた、と思った。


道徳、いや常識でもよいが、
それは集団に属する個人同士の関係を円滑にする機能をもつ。
共通認識という面もあるし、教育という面もある。
それは、集団の状況によって変化する。
時代、文化、技術、他集団との関係、等々。
それは個人が取り決めることではなく、
自然発生的にゆるやかに形をなしていくものであり、
完全に固まることはなく、変形を続ける不定形のものである。

その道徳を、個人は所有する。
個人なりの解釈で、また経験のもとで、ある一定の形で内に留める。
そして個人は、それに頼ることで社会生活を営む。

個人が所有する道徳は、変形の圧力を、内から外から受ける。
外から受けることの例は上に書いた。
内からとは、変形がその個人の経験に起因することを指す。
自分が常識(ここではこの方が通じるので言い換える)だと思って、
相手にした行為が、関係の亀裂を生み、問題が円満に解決しなかった。
こういうことがあると、彼は選択肢の一つとして、自分の常識を疑う。
理由は、今後のために「使える常識」に修正すべき可能性があるからだ。
そのために彼は、常識の実行形態とその周辺状況について考察を重ねる。


道徳は、その使用によって円満な人間関係の維持を人々が目指すものだ。
この「維持」という表現は、道徳の不変性を示唆するように見える
不変性は、安定性でもある。
しかし、上に書いた通り、道徳は変わりうる。
よって、道徳は「利用」したり「依拠」するものでは、本来ない。
「使用」と書いたが、「生かす」がよいかもしれない。
変化することを本質とする生物のように。

だが、「それは"個人の考え方"のようなものではないか」と思えるかもしれない。
それは、違う、とここでは言い切る。
みながもつと想定してこそ効果を発揮する道徳、
そのようにして「想定される道徳」と、個人が培う内なる道徳の関係が、
ここで問題になる。
個人の考え方に、この内なる道徳は、近い。
近いが、あるいは後者は前者の一部かもしれないが、違う。
内なる道徳は、それが変わることで「想定される道徳」も変わるからだ。
個人の考え方の中でそういう効果をもつもの(部分)が内なる道徳だ、
と言ってもよいかもしれない。

道徳の存在の肯定は、その信頼へとつながる。
道徳への信頼は、社会的な人間関係をより円滑にする。
しかし、その道徳は変化しうる。
その性質を忘れると、道徳は形骸化する。

(教育とは別に)道徳は押しつけるものではないことも、これと関係する。
道徳の変化を前提することで、道徳の発揮状況を常に観察することになるからだ。
それは、相手をよく見るということ、
もっと言えば、相手の内なる道徳をよく見るということでもある。
この時点で、内なる道徳が個人の考え方と異なることが明確になる。
なぜなら、深く自覚的でなければ、個人は内なる道徳に責任を感じないからだ。

個人が責任を負わなくてよいように、人は道徳や常識に委託している。
思考の責任、あるいは意思の責任を。
このことも、道徳や常識の機能の一つであり、
つまり人間関係を円滑にすることに貢献している。
ただ、ここでいう円滑は「上滑り」と言ってもよく、
つまり表面的なやりとりで事が済む人間関係を前提としている。
集団においては、そういう関係が圧倒的に多いことは確かだが。


話は唐突に逸れるが、
文学はこの"責任"を個人が負う営みである
と定義できるかもしれない。
思考の責任、
意思の責任、
あるいは、
夢の責任を。

「夢の責任」と書いたのは、イェーツの詩の一節を思い出したからだ。
村上春樹は『海辺のカフカ』の中で、この一節を以下のように訳した。

  "In dreams begin the responsibilities"
 「僕らの責任は想像力の中から始まる」