human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

『特性のない男Ⅰ』を読んで (2)

前回の続きです。

だが興奮状態や興奮した行為の状態にあっても、彼の態度は情熱的であると同時に無関心だったのである。彼はかなりいろいろな経験をしてきたし、かならずしも自分には意味のないことでも、それが彼の行動意欲を刺戟さえすれば、いつでも身を挺しかねない、と感じていた。したがって、ほとんど誇張なしに、彼の人生におけるすべてのことは、彼自身によるというよりは、むしろ相互の関係で起こったものだ、といってもよかったのである。(…)それゆえ彼は、このようにして獲得した個人的な特性も、彼のものというよりはむしろ相互の関連によるものだと信じるほかなかったし、くわしく調べてみると、個々の彼の特性は、それをもっていると思われる他の人たちよりも、彼とより親密な関係にあったわけではなかったのである。
p.180「30 特性のない男は男のない特性で構成されているということ」

今もう一度これを打ちながら読んでみて、これは「前科学的自己認識」だと思いました。
ここでいう科学とは、要素還元主義の別名です。
あるいはレヴィ=ストロースの「構造主義」と共通するところもありそうです。
鷲田清一氏の臨床哲学的に言えば、個の境界を曖昧にしていく方向性をもった思考。

すごく共感して、「主体的か受動的かどちらかなんてのはなくて、発生を考えれば人間はみんな受け身に決まってる」という生活の逐一の判断に適応するにはすごく大枠の認識と同様に「これは"そう考えればそういうことになる"話だよな」と最初に読んだときに思って、このすぐあとに僕がこう思ったことがそのまま書いてあるのを見て「やっぱり」と思いました。
「このすぐあと」を以下に抜粋します。

だが確かに彼は、常に自力を信じている人間だった。いまでも彼は、自分独自の体験と特性をもつということと、こういうものとは無縁だということとの相違は、ただ態度の上での相違にすぎないことを──これは在る意味では、一般性と個人性の間でなされる意志決定、ないしはその間で選択される度合いに過ぎないことを──少しも疑っていなかった。平たくいえば、人の身に起こったり、人がする事柄に対して、人はより一般的な態度もとれるし、より個人的な態度もとれる、ということだ。
p.181

この章にはとても重要なことが書いてあって、この本を読んでしばらくして「ああ、ウルリヒって自分みたいだな」と思ったことは前の記事に書きましたが、そう思った理由はウルリヒの問題意識の対象に僕自身とても興味を持っていること、それと関連して本記事の上に抜粋したような個人的性質(考え方)を僕も「もっている」(これと「興味がある」との違いはそう大きくない)ことなんですが、話を戻してその重要なこととは、本書のタイトルでありウルリヒと名の与えられている「特性のない男」とは現代人の別名である、ということ。

これに反して今日では、責任の重心は人間の中にあるのではなく、事物関係の中にある。体験が人間から独立したことに、人は気づかなかったのだろうか。体験は劇場へ移ってしまった。また書物の中へ、研究所の報告書や研究旅行の報告書の中へ、社会的実験の試みに見られるような、他を犠牲にして何か特別な体験を育成する思想団体や宗教団体の中へ、移ってしまった。そして体験がかならずしも稼動しているとはいえないかぎり、それはただ宙に浮いたものとなる。今日のように、じつに多くの人たちが容喙して、怒っている当人以上にその怒りについてよく知っている場合、自分の怒りが事実ほんとうに自分の怒りだといいうる人がいるだろうか?! 男のない特性の世界、つまり人間を抜きにした特性の世界が、体験するもののいない体験の世界が、出現したのである
p.182

 

 彼は腹が立った。
 自我の薄暗い領域から発生して根深くはびこり、病的にもつれて体にはよくないものを、解きほぐして取り除くという、医者たちが発見した有名な思考の能力は、おそらく個人を他の人や物と結びつけるという社会的で対外的な思考の特質によるものだと言って過言ではあるまい。だが残念なことに、思考にこのような治癒の力を授けるものは、思考の個人的体験性を減少するものと同一物らしい。鼻についた一本の髪の毛についてちょっと言及することの方が、最も重要な思想よりはるかに重みがあるし、行為や感情や感動は、たとえそれがどんなにありきたりで非個人的なものであろうとも、それが繰り返されると、一つの事件に、多少なりと個人的な大きな出来事に立ち会ったという印象を与えるのである。
 「ばからしい」とウルリヒは考えた。「だが、事実そうなるのだ」。それは、自分の肌の臭いを嗅いだときに感じる、刺戟的でじかに自我に触れる、ばかばかしいほど深い印象を思い出させた。
p.137 「28 思考の仕事に格別意見をもたない人なら、読み飛ばしてよい章」

面白い章タイトルです。
そしてウルリヒには「自覚」があります。

ウルリヒが怒っているのは、偉大な思考が「取るに足りない現実」より取るに足りないという現実にちょうど居合わせたからで、それで「残念なことに」という表現にここではなっていますが、もちろん「思考の個人的体験性を減少するもの」が思考にあってこその思考の抽象性で、「だが、事実そうなるのだ」とは何かというと、つまりは「やれやれ」と。


改めて抜粋のために読み直して、非常に僕にタイムリーな箇所だと気づきました。
なにしろ、しようがないものは、しようがないのだから。