human in book bouquet

司書資格を活かせる仕事を探していきます。

「中井久夫氏のムック本」拾い読み

毎週日曜に近所の図書館に通っていて、いつも新着図書棚を見ています。
毎回ちょっと見てみたくなる本があります。

先週見つけた文藝別冊のムック本『中井久夫 精神科医のことばと作法』に思わず目が留まり、拾い読みして、拾い読みした部分を再読したくて借りました。

 ×   ×

本書で初公開らしい、中井氏作と思われる(そうでなければこの本に載らないはずなので)「研修いろは歌留多」の中から、これは、と思ったものをメモしておきます。

 へたは 「うまへた」にまさる。

言い換えると含蓄というか他の多くのニュアンスが抜け落ちそうでいやなのですが、今の僕には「計算するな、素直であれ」というアドバイスに聞こえます。

自分の思い通りにことが進むのが、いいことなのか、どうか。
その成就は、「自分の頭がそれで満足する」という以外には、大した意味がない気がしています。
相手に対する「よかれ」がほんとうに相手にとってよいことかを確認するには、こちらが言うにも、あちらの言葉を聞くにも、きちんと相手を見る。

意思疎通の成立(状態?条件?)が、頭の中での想定と、実際のものとで異なるということを、今日から始まった司書講座の中で(講義内容と関係はありませんが)気づきました。
僕は自分から始めた会話では前者を優先しがちなようです。
会話のキャッチボールを先取りしてから会話を始めれば、まあそうなりますね、考えれば当たり前です。
計算してしまうのをそれはそれで素直だという考え方に惹かれてしまいますが(橋本治氏は時にそういう複雑な立論をされます)、普段の他人との会話でそれをするには複雑だし理解されないので、上に書いた「計算するな、素直であれ」というのは単純に受け取って文字通りそういうことである、という注釈は多くの人には必要ないことですが。

何かしら衝動に駆られない限り、自分から喋らないようにしてみましょう。

 なくした時間と出たバスは 追いかけない。

これが臨床の現場で具体的にどういう意味を示すのかは分かりません。
…文字通り「バス停で次のバスを待て」とか「距離が近いなら歩け」とか、いうことはないでしょうね。
これも言い換えを…すると洒脱さが消えてしまいますね、やめましょう。
「出たバスは追いかけない」、これと、「僕はどんなにそれが間違っていても壁ではなく卵の側につく」という村上春樹エルサレムスピーチの一節とが、どう一緒なんだろうとふと考えています。

 世界より大きい妄想は 出ない。

これはなんとなく臨床の場面が浮かびます。
ので(?)、妄想家の僕は自分なりに曲解しておきます。
「謙虚であれ」

 ×   ×

「拾い読み」と言ったのは、上に書いたいろは歌留多ともう一つだけ、保坂和志氏の寄稿文です。
本来句点「。」を打つべき*1ところが多々読点「、」である保坂氏の最近の*2押せ押せな文体で、でも文章のひとつひとつに内容が密に詰まっていて、読むのにとても緊張します。
図書館で借りる前に立ち読みした時はすごく緊張したんですが、借りて帰ってから読んでもやっぱり緊張して、そして再読の役得で、最初に気づかなかったいくつかのことに気づきました。
ぜんぶを書く余裕はないので、ほんの一箇所だけ引用しておきます。

人間の思考というのは動物の延長として、ということは起源として、事態に対処することだ、事態から世界像を導きだすというのは起源にもとづいた思考ではないと私は最近感じている、そのつどそのつど対処できることをする/あるいはしないことを選ぶその思考の積み重ね(この言葉は適切だろうか?)それ自体を私は思想と呼びたい。
p.138-139 因果関係や能動性のこと(保坂和志

言い換えはいろいろできると思うんですが(「分析偏重への戒め」だとか「具体性に帰れ」だとか)、こういう言い方を、「起源にもとづいた思考」という表現を初めて目にしました。
と書いて気づいたのは、例示した言い換えは思考と行動を分けて純粋な後者の実践に向かってるんですが、「起源にもとづいた思考」というのは、思考が行動と分けられているわけではなく(実際のところ分けられるはずはない)、でもその行動とくっついている思考は「純粋な行動のための思考」である。
動物が行動するように人間が行動する時に伴っている頭の回転としての思考。
…書いてるうちにわかんなくなってきました。

要約とか帰納によってニュアンスとかいろんなものがぼろぼろこぼれ落ちてしまうのが小説なんですが、哲学的な文章に小説の深みがある場合、それは何なんでしょうか。
「思想小説」は小説の体裁で読める思想書か哲学書であって、これとは違う(たぶんこれは小説ではない)。
やっぱりそれも小説なんでしょうか。

*1:「べき」なんて書きましたけど、保坂氏のこの文章に慣れてしまうとそれは単なる慣用でしかないのではと思えてきます。

*2:カンバセイション・ピース』まではそんなことはなかったんですが、「最近」の始まりがいつかは知りませんが、そこから大きくとんで『未明の闘争』ではもうすごいことになっています。